国外脱出をくわだてた国王一家はヴァレンヌで逮捕。「国を捨てるのか」とフランスの民衆は憤慨し、国王の権威は失墜。ギロチン処刑にもつながったとされるこの事件、ルイ16世は本当に国を捨てようとしたのか。この記事ではヴァレンヌ事件をご紹介するとともに、なぜ国王は逃亡を試みたのかを解説していきます。
- ヴァレンヌ事件とは、国王一家が亡命をくわだてた脱出事件のこと
- 外からの圧力で革命政府の力を弱めようとしたが、亡命には失敗
- 一家はヴァレンヌで逮捕されたため、「ヴァレンヌ事件」と呼ばれている
ヴァレンヌ事件とは
1789年7月、王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発しました。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せ、子供を含む王族一家はパリにて幽閉されてしまいます。マリー・アントワネットには市民から怒りの声がぶつけられました。
1791年6月20日、国王一家は亡命をくわだてパリを脱出しますが、22日にヴァレンヌで逮捕されてしまいます。結果的にこれは国王の権威を底まで失墜させ、国王処刑の原因にもなったといわれています。これが、世にいう『ヴァレンヌ事件』です。
脱走事件のてん末
この国王一家脱走事件ならぬ、ヴァレンヌ事件により、国王擁護の立場をとっていた国民も、多くが左派になびいて革命はますます急進化していきます。一家は国民の憎悪の的となり、テュイルリー宮はたびたび民衆に攻撃されるようになりました。
マリー・アントワネットとルイ16世、そして子供たちはタンプル塔に幽閉されました。そして一緒に行動していたルイ16世の妹、エリザベートも同じ運命をたどります。(右側の写真、窓側にいるのが最後までマリー・テレーズを励まし続けたという叔母エリザベート)
幽閉生活
そうして、国王一家のタンプル塔での幽閉生活がはじまりました。湿気が多くじめじめしてとても環境が良い場所ではありませんでしたが、最初の頃は家族は一緒にいることができ、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、子供の勉強を見たりするなど家族団らんの時間がありました。つかの間とはいえ、最初の生活はそこまで悪くはなかったのです。
しかし王家への信頼が戻ることはなく、1793年1月、革命裁判によりルイ16世への死刑判決が下りました。彼の最後の言葉は「余を死に至らしめた者を許しましょう。余にあげられている罪について、無実であることをここに宣言します」だったそうです。
死刑宣告
間も無くして、マリー・アントワネットへも死刑宣告がくだります。1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りに突き動かされた市民から罵倒が飛び交いました。残されたのは王女マリー・テレーズひとり。叔母とも弟とも引き離され、家族が亡くなったことを彼女は独房のなかで聞くことになります。
フランス革命の最中、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家と最後まで運命をともにしたのがマダム・エリザベート。自分にも処刑の手が迫ってきていることを知った彼女は、姪マリー・テレーズに対して「掃除をする、部屋の中を歩いて運動する、読書をするなどしてぼーっとしないこと」など生き抜くための知恵を授けたといいます。あまりのストレスからか、解放されたときは失語症のような状態に陥っていたといいますが、唯一生き延びた王女でありました。
ルイ16世の人柄
ルイ16世は優柔不断だといわれていますが、家族思いの優しい男性だったといいます。 革命派の指導者でもあったロベス・ピエールも「彼は悪人ではない、王に生まれていなければ平和な人生を歩めたであろう。彼の罪は なにもしなかったことだ」といったほどでありました。
そもそもルイ16世が若くして国王となったとき、すでにフランスの財政はガタガタでした。贅のかぎりを尽くしてきた先代の借財がつもり、どうにもならなかったのです。それにアントワネットが拍車をかけたのは事実としても、ルイ16世は有能な者を大蔵大臣として、立て直しを図るも僧侶・貴族は猛反対。ルイ16世は「絶対君主は時代遅れ」だということも感じており、体制崩壊は時間の問題であったといいます。
なぜ逃亡を試みたのか
一説には、外からの圧力で、革命政府の力を弱めようとしたためだと言われています。
ルイ16世は、弟たちを自分とは別のルートで外国へ亡命させていました。一般的に亡命というと、王としての責任を放棄するということを意味しますが、日々暴徒化する革命政府をなんとかするために、オーストリアへ逃げ、外国政府と交渉をしフランスに戦争をしかけさせ、外からの圧力により革命政府の力を弱めようというのが本来の狙いであったというのです。
「お前たちは逃げて、生き延びてブルボン王家の血を絶やさぬように」とルイ・スタニスラスに説き、「余が失敗した場合はその旨を託したい」と弟たちに話したという逸話も残っています。
まとめ
- ヴァレンヌ事件とは、国王一家が亡命をくわだてた脱出事件のこと
- 外からの圧力で革命政府の力を弱めようとしたが、亡命には失敗
- 一家はヴァレンヌで逮捕されたため、「ヴァレンヌ事件」と呼ばれている
事実、ナポレオン治世の晩年には結託した諸外国がいっきにフランスを襲うことになります。
逃亡に失敗した兄の意思を継いだスタニラスはナポレオンの失脚後、王党派の力もありフランスに戻って『ルイ18世として即位』しました。この国王一家の脱出事件は、ヴァレンヌ逃亡とも呼ばれています。歴史には、教科書を読んだだけではわからない生々しい人間ドラマが詰まっていると感じさせる事件なのでありました。
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