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【ヴァレンヌ事件】ルイ16世が、亡命をくわだてた本当の理由

2020/04/30
 
ルイ16世
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

国外脱出をくわだてた国王一家はヴァレンヌで逮捕。「国を捨てるのか」とフランスの民衆は憤慨し、国王の権威は失墜。ギロチン処刑にもつながったとされるこの事件、ルイ16世は本当に国を捨てようとしたのか…。今日は王が亡命を試みた本当の理由を探っていきたいとおもいます

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フランス革命下での、国王一家

幽閉された国王が起こした、ヴァレンヌ事件

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか

1789年7月、王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せ、子供を含む王族一家はパリにて幽閉されてしまいます。浪費グセで国民を苦しめたとして、マリー・アントワネットには市民から怒りの声がぶつけられなかには根も葉もない噂も混ざっていました。

ヴァレンヌ事件

1791年6月20日、国王一家は亡命をくわだてパリを脱出しますが、22日にヴァレンヌで逮捕されてしまいます。結果的にこれは国王の権威を底まで失墜させ、国王処刑の原因にもなったいわれています。これがよにいう『ヴァレンヌ事件』ですね。

 

逮捕された王家と、タンプル塔への幽閉

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

このヴァレンヌ事件 (脱走事件) により、国王擁護の立場をとっていた国民も、多くが左派になびいて革命はますます急進化一家は国民の憎悪の的となり、テュイルリー宮はたびたび民衆に攻撃されるようになりました。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・アントワネットとルイ16世、そして子供たちはタンプル塔に幽閉されました。して一緒に行動していたルイ16世の妹エリザベートも同じ運をたどります。(右側の写真、窓側にいるのが最後までマリー・テレーズを励まし続けたという叔母エリザベート) 

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断頭台にあげられた、ルイ16世の家族たち

タンプル塔への幽閉、暮らしぶりは悪くなかったが…

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

そうしてタンプル塔での幽閉生活がはじまりました。湿気が多くジメジメしてとても環境が良い場所ではありませんでしたが、最初の頃は家族は一緒にいることができ幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、子供の勉強を見たりするなど、家族団らんの時間がありました。つかの間とはいえ、最初の生活はそこまで悪くはなかったものですが….

王家への信頼が戻ることも状況がよくなることもなく1793年1月、革命裁判により、ルイ16世への死刑判決が下りました。彼の最後の言葉は「余を死に至らしめた者を許しましょう。余にあげられている罪について、無実であることをここに宣言します (I pardon those who are the cause of my death and declare myself innocent of all of the charges brought against me.)」だったそうです。

 

次々と殺されていき、残ったのは…

処刑台へとむかうマリー・アントワネット (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

間も無くして、マリー・アントワネットへも死刑宣告がくだります。1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。ゆっくり市中を引き回され沿道からは怒りに突き動かされた市民から罵倒が飛び交いました。残されたのは王女マリー・テレーズひとり。叔母とも弟とも引き離され、家族が亡くなったことを彼女は独房のなかで聞くことになります

捕まって悲嘆に暮れる王妃 (悲観にくれる王妃と、子供たちをかばう叔母エリザベート)

フランス革命の最中、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家と最後まで運命をともにしたのがマダム・エリザベート。自分にも処刑の手が迫ってきていることを知った彼女姪マリー・テレーズに対して「掃除をする、部屋の中を歩いて運動する、読書をするなどしてぼーっとしないこと」など生き抜くための知恵を授けたといいます。あまりのストレスからか、解放されたときは失語症のような状態に陥っていたといいますが、唯一生き延びた王女でありました。

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ルイ16世は、なぜ国外逃亡を試みたのか

ルイ16世という人物

ルイ16世 (ルイ16世の肖像画)

優柔不断だといわれていますが、ルイ16世は家族思いの優しい男性だったといいます。 革命派の指導者でもあったロベス・ピエールも「彼は悪人ではない王に生まれていなければ平和な人生を歩めたであろう彼の罪は なにもしなかったということだ」といったほどでありました。

ロブスピエール、ダントン、マラトの間の架空の会議 (ロブスピエール、ダントン、マラトの間の架空の会議)

そもそも、ルイ16世が若くして国王となったとき、すでにフランスの財政はガタガタでした。贅のかぎりを尽くしてきた先代の借財がつもり、どうにもならなかったのです。それにアントワネットが拍車をかけたのは事実としても、ルイ16世は有能な者を大蔵大臣として、立て直しを図るも僧侶・貴族は猛反対。他の人物が玉座についていたら、果たして革命は止められたのか…ルイ16世は「絶対君主は時代遅れ」だということも感じており、体制崩壊は時間の問題であったといいます。

 

外からの圧力で、革命政府の力を弱めようとした

ルイ16世の兄弟

ルイ16世は、弟たちを自分とは別のルートで外国へ亡命させていました。一般的に亡命というと、王としての責任を放棄するということを意味しますが、二進も三進も行かないフランス。日々暴徒化する革命政府をなんとかするために、オーストリアへ逃げ、外国政府と交渉をしフランスに戦争をしかけさせ、外からの圧力により革命政府の力を弱めようというのが、本来の狙いでありました。

「お前たちは逃げて、生き延びて、ブルボン王家の血を絶やさぬように」とルイ・スタニスラスに説き、「余が失敗した場合はその旨を託したいと弟たちに話していました。事実、ナポレオン治世の晩年には結託した諸外国がいっきにフランスを襲います。そして逃亡に失敗した兄の意思を継いだスタニラスはナポレオンの失脚後、王党派の力もありフランスに戻って『ルイ18世として即位』したのでした。

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あとがきにかえて

ルイ18世 (ルイ18世として即位した、弟ルイ・スタニスラス)

ルイ18世は即位するとすぐに兄の遺骨調査を命じ翌年ルイ16世とマリー・アントワネットのものと思われる遺骨を発見しました。遺骨は王家の墓所であるサン・ドニ大聖堂へと写され、王と王妃として正式に埋葬されたのでした。彼らの唯一の子供であり、孤児となったマリー・テレーズは最初伯父であるところの、ルイ18世とシャルル10世を憎んでいたといいます。王党派のなかでも過激なグループの中心となりますが、本来の強靭な精神と心根の美しさから憎しみを上手に消化させ、晩年はシャルル10世の孫たちの母親代りとなり、アントワネットがしたように愛情をたくさん注ぎました

マリー・テレーズ

父ルイ16世から「憎しみを捨てるように」と諭されていたマリー・テレーズルイ16世は悲しい最後をむかえましたが、彼の想いや優しさはいろんな形で愛する家族により紡がれていったのでした。この時代の出来事を別視点からみた記事はこちら(【恐怖の監禁生活 | マリー・アントワネット】の子供はどうなったのか)にまとめております。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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