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【王国史上、最も痛ましい君主】カルロス2世とスペインハプスブルク家の終焉

2021/08/02
 
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

スペイン王国史上、もっとも痛ましい君主として知られるカルロス2世。ハプスブルク家の婚姻政策による近親婚のせいでしょうか、生殖能力はなく、明らかに知的障害があったといわれています。なれば、王朝支配のために、肉体的にも精神的にも操られた君主でありました。この記事では、カルロス2世に焦点をあて、スペインハプスブルク家終焉前後のスペイン史をおっていきたいとおもいます。

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最盛期からの衰退

フェリペ2世 (スペインハプスブルク)

父帝カール5世 (カルロス1世)からスペインを受け継ぎ、最強の王国へと導いたフェリペ2世イングランド女王メアリーを含め4度も結婚し、不出来な長男ドン・カルロを死へと追いやったフェリペ2世でしたが、けっきょく得たのはボンクラ息子であったフェリペ3世のみでした。彼は父2世が仕事に追いまくられる姿をずっと見てきて嫌気がさしていたのか、政務は寵臣への丸投げ。彼らが私腹を肥やすにまかせ、3世自身はひたすら狩猟を愉しんだあげく存在感の薄いまま早死にしたのでした。

フェリペ4世

おかげでその息子であるフェリペ4世は、若干16歳で玉座にあがスタート時点から父と同じ寵臣任せとなりました。元々意欲や能力に乏しかったのか、すっかりそこに安住し、治世44年の間に「無能王」と呼ばれ後世に語り継がれることとなります。

 

終焉期の国王フェリペ4世による、芸術家の庇護

ラス・メニーナス (ディエゴ・ベラスケス)

しかしフェリペ4世は美術品、とくに海外に対する審美眼には優れていました

隔世遺伝であったのか、祖父フェリペ2世譲りのセンスを発揮して、王室のコレクションを充実させたのは彼で、現在世界三代美術館のひとつとされるマドリッドのプラド美術館の基礎はフェリペ2世とフェリペ4世が築いたといえるでしょう。

プラド美術館

フェリペ4世は前代からのティツアーノはもちろん、当時世界最高といわれたルーベンスのファンであり、彼が死去したときに競売にかかった作品のめぼしいものをすべて買い取ったほどでした。しかし何といってもフェリペ4世の功績はといえば、まだ駆け出しであった若い画家ディエゴ・ベラスケス(当時24歳) を宮廷画家として厚遇したことでしょう。

マリアとマルタの家のキリストをやさしく解説 ( 参考:【ディエゴ・ベラスケス】 スペインハプスブルク家の悲劇を記録した宮廷画家)

フェリペ4世はいったんベラスケスに自分の肖像画を描かせると、他の画家の手になる作品に我慢ならなくなったのか、王宮から撤去させてしまったほどでした。高度な写実、色彩の妙、豊かな表現、巧みな筆致わざとらしい修正なしに王者の気品と威厳を描くベラスケスの技術に相当に惚れこんでしまったのでした。

 

宮廷画家が描いた、ハプスブルク家特有の顔

フェリペ4世

ベラスケスが描いたフェリペ4世の顔は、とうてい人好きするものではなく、長すぎる赤らんだ鼻、突き出た下唇と顎といった祖先代々の特徴がいっそう先鋭的に現れておりよくいえば貴族的な顔立ち、悪くいえばしろ醜いほうであったのでした。しかしこの美しいとはいえない黒王は黒づくめの服をまとい、何の背景もない空間にただすうっと立っているだけで、曰く言い難い王の威光を放っているのは画家の力でしょう。

かくも理想かされた君主の形を提示されれば、喜ばない者はいないでしょう。フェリペ4世はすっかりベラスケスを気に入り、彼が落とした鉛筆を拾ってやったとの言い伝えまで残るほどでありました。国王のベラスケスへの信任ぶりの証拠はたくさんあり、マドリッド市内の豪邸の他、王宮ないに専用のアトリエを与え、最終的には宮廷官吏の頂点である王宮配室長。さらに貴族対象のサンティアゴ勲章まで授与しているのでした。いまだに画家は芸術家というより『職人』とみなされ、身分がそこまで高くなかった時代にこれは望みえる最高の出世だったと言えるでしょう。

マリー・テレーズ・ドートリッシュ(参考:【ルイ14世が頼りにした敬虔な王妃】マリー・テレーズ・ドートリッシュの生涯)

ベラスケスは、のちにルイ14世の元へ嫁ぐこととなる王女マリー・テレーズや、『青いドレスの王女』で知られるマルガリータなど多く同家の人々の絵を残しました

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スペインハプスブルク最後の国王、カルロス2世

カルロス2世

そんなフェリペ4世の後を継いだのは、彼が老帝になってから授かった奇跡の子カルロス2世。スペイン王国史上、もっとも痛ましい君主として後に知られることとなります。ハプスブルク家の婚姻政策による近親婚のせいでしょうか、生殖能力はなく、明らかに知的障害があったといわれており、いうなれば、王朝支配のために、肉体的にも精神的にも操られた君主でありました。

カルロス2世

カルロス2世のプロフィール

  • 治世:1665年10月17日〜1700年11月1日
  • 誕生:マドリード、1661年11月6日
  • 結婚:マリア・ルイサ・デ・オルレアンス (1662年〜1689年)、マリアナ・デ・ネオブルゴ (1667年〜1740年)
  • 子女:なし
  • 前任者:フェリペ4世
  • 後継者:フェリペ4世 (ここからブルボン家)
  • 死去:1700年11月1日

 

呪われた国王と囁かれ

 

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バチカンからマドリードの宮廷へきた教皇大使は、カルロス2世について以下のように述べました。

顔は醜い、首も顔も長く、あごがしゃくれている下顎前突は典型的なハプスブルク家の遺伝だ。目はさほど大きくなく、瞳はトルコブルーで目はさほど大きくなく、皮膚は薄くてやわらかい (…) 歩く時以外曲がっている身体は、精神と同じく弱々しい。時折聡明で記憶力に優れ、才気のある様子も見せるが今は違う。(…)要求されるがままに行動し、自らの意思に欠けている。

散々な言われようですが、この言葉通り、カルロス2世は生涯にわたって他人に操られ続けたのでした。1661年11月6日、フェリペ4世とマリアナ・デ・アウストリアの息子としてマドリードで生まれましたが、そんな外見になったのは魔法をかけられたせいだとされ、「呪われた王」と囁かれるようになります。

 

摂政政治

3歳の時に父フェリペ4世が他界し即位したため、暫くは、母マリアナ・デ・アウストリアが摂政を務めました。貴族、聖職者、軍人や顧問会議のメンバーからなる統治評論議会の助言をうけ、寵臣フアン・エベラルド・ニタルドに支えられての摂政政治でありました。まもなくカルロス2世は、精神的・身体的な発達障害の兆候を示すようになりました。5歳になってもうまく歩けず、9歳になっても読み書きができませんでした。

その間、神父ニタルドがおこなった対外政策がひどかったため、フェリペ4世の庶子フアン・ホセ・デ・アウストリアが蜂起。謀反は成功し、フアンが実権を握ったものの、まもなくミラシエラ候フェルナンド・デ・バレンスラにとって代わられたのでした。

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危ぶまれる王国の行方

ハプスブルク家系図(参考:【ハプスブルク家の家系図まとめ】巨大な華麗なる一族 650年の歴史)

14歳になるとカルロス2世は正式に即位して、バレンスエラを罷免します。

そして異母兄フアン・ホセ・デ・アウストリアを再び折衝に迎え、母マリアナをトレドに隠棲させました。その1年後、カルロス2世はフランス国王ルイ14世の姪 (弟帝フィリップ妻アンリエットの子)である、マリア・ルイサ・デ・オルレアンス と結婚します。あしかし彼女は子供を残さないまま1689年に死去。世継ぎがいなかった同家の行先が懸念され、カルロス2世は翌年プファルツ選帝侯フィリップの娘、マリアナ・デ・ネオブルゴと再婚を果たしました。

フアン・ホセ・デ・アウスとリアの死後、その権力はオロペサ伯らの寵臣たちに引き継がれました。しかし破壊的な財政状況と政治的・社会的危機によって平価切り下げが相次ぎ、経済は完全に崩壊してしまいました。これに追い討ちをかけたのが1684年と1690年の2度にわたる対フランス戦争でありました。

 

フランス戦争の終焉

カルロス2世

戦いは続き、1697年にはフランス軍によってバルセロナが占領されました。同年、ライスワイク条約が締結されてようやく戦争が終わり、ルイ14世はカタルーニャのフランス領、フランドル、ルクセンブルクをスペインへ割譲したのでした。

カルロス2世の治世の終わり頃は、各国からの政治的圧力が強まり、宮廷内には王位継承者を巡る陰謀があふれました。そして継承者として有力視されていたバイエルン選帝侯の息子である大公ホセ・フェルディナンド・デ・ハプスブルクは、1699年に亡くなってしまいます。

 

からの後継問題

フェリペ5世とカール大公

かわって候補にあがったのが

  • 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の息子で、フェリペ3世の曽孫カール大公と、
  • ルイ14世の孫で、フェリペ4世の曽孫アンジュー公のフィリップ

の2人でした。王の母はカール大公をおしましたが、カルロス2世自身は、フランスの支援がなければ領土を維持できないと考え、フィリップを支持しました。能力に限界があるといわれながらも、周りからの圧力に屈せずカルロス2世は死の直前に、遺言でアンジュー公フィリップを王位継承者へと指名しました。

スペイン・ハプスブルク家最後の君主カルロス2世は、1700年11月1日、39歳になる数日前にマドリードにて亡くなります。これにて『陽の沈まない国』とまでいわれたスペインの黄金時代は幕を閉じ、支配者はハプスブルク家からブルボン王家へとうつっていったのでした。

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あとがきにかえて

マリー・ルイーズ・ドルレアン

カルロス2世の最初の妻マリー・ルイーズは、太陽王ルイ14世の弟フィリップとアンリエットの長女でありました。彼女の母アンリエットはイングランド女王でありましたが、ヴェルサイユのゴタゴタに巻き込まれ毒殺されています。

彼女にはふたつの説が伝えられています。

精神障害の夫との愛のない結婚生活のせいで憂鬱症に苦しみ、病的なまでに肥満したという説と、最初こそ嫌悪していたものの、不遇な夫の熱愛に応え、恋心とは違うものの、次第に深い愛情を抱くようになっという説です。後者の方の信憑性は薄いものの、1689年2月急性虫垂炎で死亡した彼女は、死の淵で夫に向かって「あなたは多くの妻を娶りましょう。しかしあなたを私より愛する人はおりますまい」といったと伝えられています。

マリアナ・デ・ネオブルゴ

300年以上経った今では真偽の確かめようはないわけですが、2人目の妻の方は夫に愛情を抱くことはなく、宮中での地位を失わないための偽装妊娠は11回に及んだという説が残ってますから、あながち間違いではなかったのかもしれません。

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