【世界帝国ハプスブルク】スペインの最盛期を築いたカール5世

カール5世 (カルロス1世) ハプスブルク家

祖父マクシミリアン1世の巧みな婚姻外交により、1516年にスペイン国王として即位することになったカール5世 (スペイン国王としての名前は『カルロス1世』) 。これが世界帝国ハプスブルク家による、スペイン統治のはじまりでありました。この記事ではスペイン最盛期を築いたカール5世をご紹介します。

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ハプスブルク家お得意の婚姻外交

『幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ』

マクシミリアン1世

『幸いなるオーストリアよ、戦争は他者に任せて汝は結婚せよ』このハプスブルク家の家訓ともいえる言葉を残したのが、15世紀に神聖ローマ皇帝をつとめたマクシミリアン1世です。のちに『婚姻外交』といわれる縁組でスペイン領を争いなく手に入れさらに孫の代まで手を回してボヘミア・ハンガリー王ヤギュウォ家との婚姻を成立

スペインハプスブルク家 家系図

ハプスブルク家はこうしてゆるぎない帝国の基礎を築き上げていったわけですが、婚姻外交をいちばんうまく利用したのがマクシミリアン1世でした。1519年マクシミリアン1世は60歳で人生を終え、世界帝国ハプスブルクへの道を任されたのが孫の『カール5世』でありました。

 

戦いに明け暮れた君主、カール5世

Charles V

カール5世は精神病に苦しむ母フアナにかわり叔母マルガレーテによりブルゴーニュ宮廷で育てられ帝王学を学びました1516年、16歳のカールは国王即位のためにスペイン入り。しばらくしてスペイン宮廷で育った彼の弟フェルディナントがオーストリアへと向かいました。

兄弟がスイッチされる形での即位カール5世は当時スペイン語があまり話せず、最初スペインの人々も『フェルディナント1世』の即位を望んだそうですが、はじめて対面したにもかかわらず兄弟仲は悪くなかったという逸話が残っています。

家系図でみる、マクシミリアンとカール5世

スペインハプスブルク家 家系図

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たくさんの称号を持っていたカール5世

スペイン王にドイツ王に、そして神聖ローマ皇帝

カール5世 (カルロス1世)

カールはスペイン王に加えて、祖父マクシミリアン1世の死去にともない、1519年『カール5世』としてドイツ王の地位も譲り受けました。しかしマクシミリアンが所有していた神聖ローマ皇帝の座はそう簡単には手に入らず、当時のフランス国王の横槍がはいります。ドイツ王カール5世は、フランス国王フランソワ1世と皇帝の座をめぐって熾烈な選挙戦を繰り広げることとなりました。

アウクスブルクの豪商フッガー家からの巨額な融資と、叔母マルガレーテ (フィリップ美公の叔母)の献身的支援の結果1520年には『神聖ローマ皇帝』の座がカールに渡りました

Margaret of Austria, Duchess of Savoy

カール5世が所有した領地

Dominions of the Habsburgs at the time of the abdication of Charles V

こうしてカール5世はハプスブルク家から世襲した領地だけでなく、ネーデルランド公国スペイン王国とその支配下にあるナポリ王国シチリア王国サルディニア王国新大陸のメキシコなど世界規模の領土を統治することになりました。

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戦いに明け暮れる日々

Pope Clement VII and Emperor Charles V on horseback under a canopy, by Jacopo Ligozzi, c. 1580

しかし世界各地に領地を持ち、絶対的権力を手にした皇帝カール5世に心休まるときはありませんでした宿敵フランソワ1世と戦いミラノ近郊で勝利また反旗をひるがえしたローマ教皇クレメンス6世とも戦いました。これが世に言う『ローマの略奪』で、ローマを廃墟と化した戦いです。

ローマの略奪

ハプスブルク家の視点からみるとこれは「大きな勝利」ですが、ローマにとっては痛手であり、これがきっかけで1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げました。ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れました。文化財は奪われ教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅してしまったのです。

ルターの宗教改革の影響をうけ

Martin Luther

帝国内でもマルティン・ルターの影響をうけ、宗教問題がくすぶりはじめ、新教諸侯たちの勢力が大きくなっていきました。1546年には、カトリックの皇帝軍と新教のシュマルカルデン同盟軍との間で宗教戦争が勃発するなど、カール5世の治世は「汝は結婚せよ」どころか、戦いに明け暮れる日々でありました。

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世界至高の権力を手にした君主

王妃イザベラとの間に6人の子供

カール5世と妻イザベラ

政略結婚であったにもかかわらず、2人は仲睦まじく、新婚旅行の際、「周囲に人がいてもカルロスとイサベルは気に留めず会話し、微笑んでいた」という逸話も残っています。皇后イザベラは、カール5世との間に5人の子をもうけました。しかし々戦いに明け暮れていた皇帝には、妃イザベラと穏やかな日々を過ごすこともありませんでした

  • フェリペ2世 – スペイン王、後にポルトガル王位を継承
  • マリア – 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇后
  • フェルナンド
  • フアナ – ポルトガル王ジョアン3世の子ジョアン・マヌエル王太子の妃、セバスティアン1世の母
  • フアン

カール5世の妻 イザベラ

ヨーロッパ中を巡り続けていた夫に代わって、その知性と美貌で知られたイザベラはスペインで摂政を務めていました。そんなイザベラですが、1539年にカール5世をのこして難産の末に亡くなってしまいます。以後カール5世は再婚せず死ぬまで黒の喪服ですごし死去するまで亡き妻を思い続けたといわれています。

 

カール5世の最後

カール5世 (カルロス1世)

カール5世は1555年アウクスブルクの和議で、プロテスタントなどの新教徒に、旧教徒と同じ権利を認めました。それは『カトリックの守護者』を自称するハプスブルク家君主にとっては痛いもので、カール5世は生涯をかけて宗教統一をはかっていただけにダメージは大きかったといいます。そうして長い戦いの人生に疲れ果てた彼はついに退位を決意しました。

アウクスブルクの和議

スペインの聖ヘロニモ・デ・ユステ修道院で隠居生活をおくるなか1558年9月カール5世は、58年の人生を閉じました。両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父マクシミリアン1世から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させました。

カール5世 (マクシミリアン) 家系図

これをもってハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分裂することとなりました。退位の際は「これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」といって涙を途切らせたというカール5世。帝国の覇者でありながら、人間味溢れる逸話が残っているのも彼の特徴です。いずれにしても彼が残した帝国は息子フェリペ2世の手によってさらに大きく重厚感を増したものになっていったのでした。

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