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誰でもわかる【肖像画つきハプスブルク家|家系図 】

2020/04/29
 
スペインハプスブルク家 家系図
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

650年以上の長い歴史を持ち、ヨーロッパの名門となったハプスブルク家。その長い歴史は、血みどろの権力争いや、政略結婚での領地拡大、近親婚など様々な人間らしいドラマで紡がれてきました。そんな驚異の一族は中世において、オーストリア系 (ロートリンゲン家)スペイン系のふたつに分裂します。この記事ではそんな混沌の時代におけるハプスブルク家を、肖像画付きの家系図で解説していきます。

(なお中世を含む全体の家系図はこちら 【ハプスブルク家の家系図まとめ】華麗なる一族 650年の歴史) にまとめております)

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※ 家系図はhttps://hubpages.com/travel/TheCompleteHistoryOfViennaCapitalOfAustriaを元に著者作成

スペイン ハプスブルク家とは

(ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス画)

スペインハプスブルク家は、中世『日の沈まぬ帝国』と呼ばれた巨大な王朝です。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域だけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも支配していました。広大な領土と富を手にした一方、度重なる近親婚のため、病弱な王が続いたことでも有名です。

近親婚の程度を示す数値(近親係数)は、初代には0.025だったものが、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していたといいます。そのためスペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率はたかく、その結果わずか5代で断絶、という悲劇の歴史をもつ王家でもあります。(参照記事:【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史

 

中世ハプスブルク家の家系図

家系図の見方

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

スペイン ハプスブルク家 家系図

(スペインハプスブルク家 全体の家系図)

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なぜ、ハプスブルク家はオーストリアとスペイン家に別れたのか

ハプスブルク家が2つにわかれたのは15~16世紀、ハプスブルク家のフィリップ公のもとに、スペイン皇女フアナが嫁いだことがはじまりです。

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

(スペインハプスブルク家 初期の家系図)

 

『スペイン国』誕生の経緯

そもそもスペインは一つの国ではありませんでした。

アラゴン王と (スペイン東部)、カスティーリャ女王(スペイン西部) が一緒になる (結婚する)ことで、(別々に統治されている国を)ひとつの王国を作りましょう』という背景のもと誕生したのが、のちに『スペイン王国』とよばれることになる『アラゴンとカスティーリャの連合国 』です。

そしてその2人の間に生まれた子供、『スペイン王国』の王女として、この世に誕生したのが、皇女フアナです。

 

スペイン皇女(カスティーリャ女王)フアナ

フィリップ美公とフアナ

フアナの結婚相手は、ハプスブルク家のフィリップ美公でした。婚礼の前日、フィリップとフアナは初めて対面しました。『美公』という名の通り金髪で勇ましい彼にフアナは惹かれまし。またそれは夫となるフィリップにとっても同じでした。カスティーリャ人で黒髪のフアナは、彼にとっては珍しくたいへん魅力的にみえたそうです。

 

夫の好色に悩むフアナ

結婚当初は情熱的に愛し合った2人ですが、しかしどうしても夫の不実を許すことが出来なかったフアナは、夫への猜疑心へ駆られ次第に精神状態も不安定になり、フィリップの心も離れていくのでした。

(2人の子供であり、スペインハプスブルク家の当主となるカール5世)

フアナはカスティーリャ女王の座を受け継ぎ 、 夫フィリップとの間には待望の男児をもうけます。スペイン皇女フアナと、オーストリアハプスブルク家フィリップの間に誕生した男の子こそ『スペインハプスブルク家の最初の当主となる人物カール5世 (=カルロス1世)です。

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なぜハプルブルク家のカールが、スペイン王家の当主になれたのか

きっかけはハプスブルク家と、スペイン王家の二重結婚

ハプスブルク家 家系図 (スペインハプスブルク家 初期の家系図)

ハプスブルク家の家訓ともいえる「戦争は他の者に任せておけ、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」という言葉を聞いたことはありますでしょうか。このとおり夫側の祖父マクシミリアン1世は、ハプスブルク領地を広げようと政略結婚を、孫の代まで)画策します。そしてこの見事に固められた結婚は、

  • ① ハプスブルク家のフィリップに、スペイン皇女フアナを嫁がせ、
  • スペイン王子ファンの元に、ハプスブルク家の娘マリアを嫁がせる

という、まるで交換のような二重結婚でした。

 

ギャンブルともいえる、おどろきの結婚条件

マクシミリアン1世(晩年のマクシミリアン1世(アルブレヒト・デューラー画、1519年)贋造引用元:Wikipedia)

こちらがフアナの義理祖父であり、フィリップの父であり、政略結婚でスペイン(当時ヨーロッパの広範囲と中南米を支配していた)を手に入れようと画策したマクシミリアン1世です。そんな陰謀渦巻く政略結婚ですから、もちろん条件がついていました。それはどちらかの家系が断絶した場合、残されたほうが領地を相続するというものです。つまりですね、

  • 皇子になにかあり、世継ぎがいなくなった場合は
  • 生き残ったほうの家がその後をつぐ (つまり乗っ取れる)

という、なんともギャンブル的な結婚だったのです。

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結果ギャンブルに勝ったのは、ハプスブルク家

ハプスブルク家 家系図

なんとスペイン王子フアンは、結婚式の半年後にあっさりと他界してしまいます。

  • スペイン王子と、ハプスブルク出身の妻マリアの間に子供はおらず、
  • 結婚の条件通り、世継ぎカール5世のいたハプスブルク家がスペイン王座を継承  (※①部分)

することになりました。

フィリップの死 ちなみにハプスブルク家側の皇子フィリップ (カール5世の父)も突然死しています。ただスペイン王家のファンと違うのは、フィリップは妻フアナとの間に子供がいたこと世継ぎがいたのが勝敗の分かれ目となったのです。

 

狂気のフアナの真相は

狂気のフアナ ハプスブルク家 家系図(彷徨う狂女フアナ(19世紀画)画像引用元:Wikipedia)

こちらがかの有名な絵画『彷徨う狂女フアナ』です。フアナは夫フィリップの死を受け入れられず、夫の寝棺を担がせたままスペインを放浪したといいます。状況を飲み込めない彼女は棺をなんども開けては確認したといい、周りには疲れ果てた侍従の姿が描かれています。精神的におかしくなってしまったフアナは29歳にして、トルデシーリャス宮殿に幽閉されました。狂女フアナ』とも呼ばれる彼女ですが、まさに権力争いのど真ん中で苦しんだとも言える女性です。(参考記事:【怖い絵画 彷徨う狂女フアナ】夫の棺とスペインを放浪した女王)

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あとがきにかえて

カール5世 カルロス1世(カール5世騎馬像、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年 画像引用元:Wikipedia)

スペインハプスブルク家、最初の当主となったカール5世 (カルロス1世) は、59年の生涯をスペインに捧げました。フランスとの戦いや宗教改革への対応に苦しみながらも、最後は自ら退位し、その地位と権利を息子へ譲り渡したといいます。『日の沈まぬ王国』と呼ばれたスペインハプスブルク家は、近親婚がもとで5代で断絶しますが、オーストリアハプスブルク家は存続します。何を隠そうかの有名な『マリー・アントワネット』も名門ハプスブルク家の出身です。ハプスブルク家全体の家系図はこちら (【ハプスブルク家の家系図まとめ】華麗なる一族 650年の歴史) にまとめておりますので、前後がきになる方はぜひチェックしてみてください 。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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