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【ハプスブルク家の家系図】スペイン家誕生の経緯を図解

 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

650年以上の長い歴史を持つハプスブルク家。中世ではオーストリア系ハプスブルク家(ロートリンゲン家)、スペイン系ハプスブルク家とふたつに別れました。ちなみに「ベラスケスのラスメニーナス」や、病弱な王が続いたのもスペイン家のほうです。今日はそんな混沌の時代のハプスブルク家家系図を、肖像画付きでわかりやすく解説していきます。

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ハプスブルク家の成り立ち(知っている方はスキップ)

(English Wiki Hapsburg coat of arms)

ハプスブルク家のはじまりは、スイスの弱小豪族

ハプスブルク家の始まりは10世紀末ころ、スイスにあった弱小の豪族だったといいます。その豪族から2,3代目に名前の由来ともなった「ハービヒツブルク城(日本語訳」大鷹の城)が建てられました

12世紀にはいると、この城を本拠とする子孫が「ハプスブルク伯爵」を名乗るようになりました。ここがハプスブルク家のはじまりだとされています。

この当時の伯爵とは

この当時の伯爵とは名乗った者がちといった傾向があり、いまの爵位とは違うものでした。ただし「伯爵」を名乗るだけの実力がなければ周りは認めませんので、実力を持っていたことは確かなようです。

 

表舞台に登場するきっかけとなった、神聖ローマ帝国位

(神聖ローマ帝国 帝国王冠)

ハプスブルク家が表に姿を表したのは13世紀、当主だったルドルフが「神聖ローマ皇帝の座(このときはドイツ王も兼ねていた)」についたのです。これはまさに棚ボタと言わんばかりの展開でした。諸侯たちの足の引っ張り合いで20年近く空席だった「神聖ローマ皇帝の座」ですが、それを見かねたローマ教皇が「早く決めてくれ」と催促。7人の諸侯が「扱いやすい人物を…」と暗黙の了解で選んだのが、ハプスブルク伯ルドルフだったのです。

神聖ローマ帝国 (Holy Roman Empire) とは

神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家です9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称したもの。ちなみに「帝国」とは複数の民族と国家を統合した君主国のことです。

神聖ローマ皇帝ってどういう地位

(https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_I_of_Germany)

神聖ローマ帝国はこのときすでに名目的なものでしかなく、皇帝の座についたからといって、富や権力が手に入るわけではないのです。しかしカトリックの権威」と「古代ローマ帝国の継承をリンクさせたこの名前はヨーロッパ最高位(皇帝は王の中の王と称されるため)であり心理的な威光を放っていたことは確かです。

 

ハプスブルク家が拡張に向け動き出す

(マルフェルトの戦いhttps://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_I_of_Germany)

しかし諸侯の思惑は見事に外れ、情勢は思わぬ方向へルドルフ1世はその後生涯をかけて、敵対していたボヘミア王オットカル1世との戦います。結局ルドルフ1世はボヘミアを手にして、オーストリア一帯も手にすることになったのです。晩年彼はハプスブルク王朝の反映、拡大を目標として神聖ローマ皇帝の座を末裔に継がせようと奮闘。ローマ皇帝の座は、他の諸侯に取られ取り返し、150年かかったものの、安定してハプスブルク家が世襲していくことになります。

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ハプスブルク家の家系図

(画像 転載禁止:The Complete History Of Vienna Capital Of Austria https://hubpages.com/travel/TheCompleteHistoryOfViennaCapitalOfAustriaを元に著者作成)

こちらはスペインハプスブルク家がうまれた時代の家系図です。わかりやすくなるように、色わけしてみました。

家系図の見方

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家
  • 赤:その他の称号の保持者 (マリア・テレジア)

 

スペイン ハプスブルク家とは

1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」と呼ばれたのはスペインハプスブルク家のほうですね。また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親婚のためか、病弱な王が続いたことでも有名です。また宮廷画家ベラスケスを登用し、一家の肖像画・絵画が多く残っていることでも知られています。(こちらの記事参照:【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史

 

スペインハプスブルク家 誕生の経緯

(画像 転載禁止:The Complete History Of Vienna Capital Of Austria https://hubpages.com/travel/TheCompleteHistoryOfViennaCapitalOfAustriaを元に著者作成)

それは15~16世紀、ハプスブルク家の元に生まれたフィリップ美公のもとに、スペイン王女フアナが嫁いだことが始まりでした。フアナは、アラゴン王(スペイン東部)と、カスティーリャ女王(スペイン西部)の娘です。

スペイン皇女(カスティーリャ女王)フアナ

 (1500年 フアンデ・フランデス画)

15世紀になりようやくカトリック教徒により奪還されたスペイン。アラゴン王(スペイン東部)と、カスティーリャ女王(スペイン西部)が結婚することにより、「スペイン王国」として王と王女で統治をしましょう、という契約が交わされたさなか、二人の間に生まれたのがフアナです。母のカスティーリャ女王の座はフアナへ受け継がれたフアナは、夫フィリップとの間にカール5世を産みます。彼こそがスペインハプスブルク家1代目の当主です。

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なぜカール5世は、スペインハプスブルク家の当主になったのか

(画像 転載禁止:The Complete History Of Vienna Capital Of Austria https://hubpages.com/travel/TheCompleteHistoryOfViennaCapitalOfAustriaを元に著者作成)

スペイン王家と、ハプスブルク家の二重結婚

企みは夫側フィリップの父、マクシミリアン1世によるものです。この結婚は、

  • ハプスブルク家のフィリップにスペイン皇女フアナを嫁がせる
  • スペイン王子ファンの元に、ハプスブルク家の娘にマルガレーテを嫁がせる

という交換のような二重結婚でした。

ギャンブルとも言える、結婚の条件

そしてこの結婚には「どちらかの家系が断絶した場合は残されたほうが領地を相続する」という条件がついていたのです。つまりどちらかが断絶した場合は、どっちかが乗っ取れる、というなんともギャンブル的な結婚ですね。

結果どうなったのか

結果スペイン王子は結婚式の半年後に他界。王子とハプスブルク家出身の妻の元に子供はいなかったので、契約通り(断絶しなかったほうの)ハプスブルク家がスペイン王の座につくことになったのです。

彷徨う狂女フアナ(19世紀画)

ちなみにハプスブルク家のフィリップも子供はいたものの、突然死しています。こちらは有名な絵画。愛しい夫の死を受け入れられず夫の寝棺を担がせスペインを放浪したとか。精神的におかしくなってしまったフアナは29歳にしてトルデシーリャス宮殿に幽閉されました。狂女フアナとも呼ばれる彼女ですが、まさに権力争いのど真ん中で苦しんだとも言える女性です。

 

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あとがきにかえて

この記事ではハプスブルク家の家系図、とくにスペイン家誕生の経緯を中心にまとめてみました。結局スペイン家はわずか5代で断絶してしまうわけですが、それでも資料や絵画がたくさん残っているのは、宮廷画家ベラスケスの登用をふくめ、スペインのハプスブルク家が芸術に長けていたからかもしれません。(断絶についての記事はこちら:ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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