【スペインハプスブルク家の肖像画つき家系図 】誰でもわかる巨大王朝

ハプスブルク家

650年以上の長い歴史を持ち、ヨーロッパの名門となったハプスブルク家。その長い歴史は、血みどろの権力争いや、政略結婚での領地拡大、近親婚など様々な人間らしいドラマで紡がれてきました。

そんな驚異の一族は中世において、オーストリア系 (ロートリンゲン家)スペイン系ふたつに分裂します。この記事では、そんな混沌の時代におけるハプスブルク家を、肖像画付きの家系図で解説していきます。

中世ハプスブルク家の家系図

(注) 当主以外の子女、兄弟は省略しております。より詳細な家系図についてはこちらをご覧ください。

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スペイン ハプスブルク家とは

スペインハプスブルク家は、中世『日の沈まぬ帝国』と呼ばれた巨大な王朝です。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域だけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地も支配していました。広大な領土と富を手にした一方、度重なる近親婚のため、病弱な王が続いたことでも有名です。

近親婚の程度を示す数値(近親係数)は、初代には0.025だったものが、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していたといいます。そのためスペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率はたかく、その結果わずか5代で断絶、という悲劇の歴史をもつ王家でもあります。

ふたつに別れた王家

ハプスブルク家が2つにわかれたのは15~16世紀ハプスブルク家のフィリップ公のもとに、スペイン皇女フアナが嫁いだことがはじまりです。

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

 (スペインハプスブルク家 初期の家系図)

『スペイン国』誕生の経緯

そもそもスペインは一つの国ではありませんでした。

アラゴン王と (スペイン東部)、カスティーリャ女王(スペイン西部) が一緒になる (結婚する)ことで、(別々に統治されている国を)ひとつの王国を作りましょう』という背景のもと誕生したのが、のちに『スペイン王国』とよばれることになる『アラゴンとカスティーリャの連合国 』です。

そしてその2人の間に生まれた『スペイン王国』の王女がフアナです。

二重結婚という企み

 (スペインハプスブルク家 初期の家系図)

ハプスブルク家の家訓ともいえる「戦争は他の者に任せておけ、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」という言葉を聞いたことはありますでしょうか。このとおり夫側の祖父マクシミリアン1世は、ハプスブルク領地を広げようと政略結婚を、孫の代まで)画策します。そしてこの見事に固められた結婚は、

  • ① ハプスブルク家のフィリップに、スペイン皇女フアナを嫁がせ、
  • スペイン王子ファンの元に、ハプスブルク家の娘マリアを嫁がせる

という、まるで交換のような二重結婚でした。

おどろきの結婚条件

(晩年のマクシミリアン1世贋造引用元:Wikipedia)

こちらがフアナの義理祖父であり、フィリップの父であり、政略結婚でスペイン(当時ヨーロッパの広範囲と中南米を支配していた)を手に入れようと画策したマクシミリアン1世です。そんな陰謀渦巻く政略結婚ですから、もちろん条件がついていました。それはどちらかの家系が断絶した場合、残されたほうが領地を相続するというものです。つまりですね、

  • 皇子になにかあり、世継ぎがいなくなった場合は
  • 生き残ったほうの家がその後をつぐ (つまり乗っ取れる)

という、なんともギャンブル的な結婚だったのです。

勝ったのはハプスブルク家

なんとスペイン王子フアンは、結婚式の半年後にあっさりと他界してしまいます。

  • スペイン王子と、ハプスブルク出身の妻マリアの間に子供はおらず、
  • 結婚の条件通り、世継ぎカール5世のいたハプスブルク家がスペイン王座を継承  (※①部分)

することになりました。ちなみにハプスブルク家側の皇子フィリップ (カール5世の父)も突然死しています。ただスペイン王家のファンと違うのは、フィリップは妻フアナとの間に子供がいたこと世継ぎがいたのが勝敗の分かれ目となったのです。

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スペインハプスブルクの初代家長

フアナはカスティーリャ女王の座を受け継ぎ 、 夫フィリップとの間には待望の男児をもうけます。スペイン皇女フアナと、オーストリアハプスブルク家フィリップの間に誕生した男の子こそ『スペインハプスブルク家の最初の当主となる人物カール5世 (=カルロス1世)です。

結婚当初は情熱的に愛し合ったふたりですが、フアナは夫の不実を許すことができず、猜疑心へ駆られ次第に精神状態も不安定になりフィリップの心も離れていくのでした。

子への領地継承

カール5世は晩年痛風に苦しみ、亡くなる前に自ら退位を申し出ました。退位にあたり、後継はどうなるのか。両親から受け継いだ、スペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全息子フェリペ2に譲り、マクシミリアンから受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世へ相続されました。

かくしてこの広大な領地を持つ王家は、オーストリア・ハプスブルク系(のちのハプスブルク=ロートリンゲン家)スペイン・ハプスブルク系に分裂することになったのでした。

まとめ

(カール5世騎馬像 画像引用元:Wikipedia)

スペインハプスブルク家、最初の当主となったカール5世 (カルロス1世) は、59年の生涯をスペインに捧げました。フランスとの戦いや宗教改革への対応に苦しみながらも、最後は自ら退位し、その地位と権利を息子へ譲り渡したといいます。『日の沈まぬ王国』と呼ばれたスペインハプスブルク家は、近親婚がもとで5代で断絶しますが、オーストリアハプスブルク家は存続します。

何を隠そうかの有名な『マリー・アントワネット』も名門ハプスブルク家の出身です。ハプスブルク家全体の家系図はこちら (【ハプスブルク家の家系図まとめ】華麗なる一族 650年の歴史) にまとめておりますので、前後が気になる方はぜひ参考にしてください。

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