EVER UPWARD. WE CAN DO IT.

誰でもわかる【肖像画でみるハプスブルク家|家系図 】

2020/02/14
 
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

650年以上の長い歴史を持ち、ヨーロッパの名門となったハプスブルク家。その長い歴史は、血みどろの権力争いや、政略結婚での領地拡大、近親婚など様々な人間らしいドラマが織り成され、紡がれてきました。そんな驚異の一族は中世において、オーストリア系 (ロートリンゲン家)と、スペイン系のふたつに分裂します。この記事では、そんな混沌の時代におけるハプスブルク家を、肖像画付きの家系図で解説していきたいとおもいます。

スポンサーリンク

 

(家系図引用禁止:https://hubpages.com/travel/TheCompleteHistoryOfViennaCapitalOfAustriaを元に著者作成)

だれでもわかる、肖像画つきハプスブルク家系図 (中世編)

家系図の見方

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

ハプスブルク家 家系図 (スペイン、オーストリア)

 

スペイン ハプスブルク家とは

(ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス画)

スペインハプスブルク家は、中世『日の沈まぬ帝国』と呼ばれた巨大な王朝です。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域だけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも支配していました。広大な領土と富を手にした一方、度重なる近親婚のため、病弱な王が続いたことでも有名です。近親婚の程度を示す数値、近親係数は、初代には0.025だったものが、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していたといいます。そのためスペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率はたかく、その結果わずか5代で断絶、という悲劇の歴史をもつ王家でもあります。(参照記事:【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史

スポンサーリンク

なぜ、ハプスブルク家はオーストリアとスペイン家に別れたのか

ハプスブルク家が2つにわかれたのは15~16世紀のこと。ハプスブルク家のフィリップ公のもとに、スペイン皇女フアナが嫁いだことがはじまりです。(家系図 オレンジ枠がハプスブルク家みどりの枠が(当時はまだ独立した王家だった) スペイン王家) 

 

『スペイン国』誕生の経緯

そもそもスペインは一つの国ではありませんでした。『アラゴン王と (スペイン東部)、カスティーリャ女王(スペイン西部) が一緒になる (結婚する)ことで、(別々に統治されている国を)ひとつの王国を作りましょうという背景のもと、誕生したのが『スペイン王国です。そしてその2人の間に生まれた子供、『スペイン王国』の王女として、この世に誕生したのが皇女フアナです。

 (フアナ 1500年 フアンデ・フランデス画:Wikipedia)

 

スペイン皇女(カスティーリャ女王)フアナ

フアナの結婚相手は、ハプスブルク家のフィリップ美公でした。婚礼の前日、フィリップとフアナは初めて対面しました。『美公』という名の通り金髪碧眼の美しい姿にフアナは惹かれ、またフィリップにもカスティーリャ人 (初めて見るタイプ)フアナはたいへん魅力的にみえたそうです。

(フィリップ4世/フェリペ1世 画像引用元:Wikipedia )

結婚当初は情熱的に愛し合った2人ですが、しかし元来真面目なフアナは夫の不実を許すことが出来ず、夫への猜疑心へ駆られ、次第にフアナの精神状態は不安定になり、フィリップの心も離れていくのでした。

(少年時代のカール、ベルナールト・ファン・オルレイ画:Wikipedia )

フアナはカスティーリャ女王の座を受け継ぎ 、 夫フィリップとの間には待望の男児『カール5世』をもうけます。スペイン皇女フアナと、オーストリアハプスブルク家フィリップの間に誕生したカール5世 (=カルロス1世)こそが、スペインハプスブルク家の最初の当主となる人物です。

スポンサーリンク

なぜハプルブルク家のカールが、スペイン王家の当主になれたのか

きっかけはハプスブルク家と、スペイン王家の二重結婚

ハプスブルク家 家系図

ハプスブルク家の家訓ともいえる「戦争は他の者に任せておけ、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」という言葉を聞いたことはありますでしょうか。このとおり夫側の祖父マクシミリアン1世は、ハプスブルク領地を広げようと政略結婚を、(孫の代まで) 画策します。そしてこの見事に固められた結婚は、

  • ① ハプスブルク家のフィリップに、スペイン皇女フアナを嫁がせ、
  • スペイン王子ファンの元に、ハプスブルク家の娘マリアを嫁がせる

という、まるで交換のような二重結婚でした。

 

ギャンブルともいえる、おどろきの結婚条件

マクシミリアン1世(晩年のマクシミリアン1世(アルブレヒト・デューラー画、1519年)贋造引用元:Wikipedia)

こちらがフアナの義理祖父であり、フィリップの父であり、政略結婚でスペイン(当時ヨーロッパの広範囲と中南米を支配していた)を手に入れようと画策したマクシミリアン1世です。そんな陰謀渦巻く政略結婚ですから、もちろん条件がついていました。それはどちらかの家系が断絶した場合、残されたほうが領地を相続するというものです。つまりですね、

  • 皇子になにかあり、世継ぎがいなくなった場合は
  • 生き残ったほうの家がその後をつぐ (つまり乗っ取れる)

という、なんともギャンブル的な結婚だったのです。

スポンサーリンク

結果ギャンブルに勝ったのは、ハプスブルク家

ハプスブルク家 家系図

なんとスペイン王子フアンは、結婚式の半年後にあっさりと他界してしまいます。

  • スペイン子と妻マリア (ハプスブルク家出身の妻) の間に子供はおらず、
  • 条件通り、世継ぎ (カール5世) のいるハプスブルク家がスペイン王座を継承

することになったのですね。

フィリップの死(フィリップの死去(19世紀画)画像引用元:Wikipedia)

ちなみにハプスブルク家側の皇子(フィリップ)も突然死しています。ただスペイン王家のファンと違うのは、フィリップは妻フアナとの間に子供(カール5世)がいたこと世継ぎがいたのが勝敗の分かれ目となったのです。

 

狂気のフアナの真相は

狂気のフアナ ハプスブルク家 家系図(彷徨う狂女フアナ(19世紀画)画像引用元:Wikipedia)

こちらがかの有名な絵画『彷徨う狂女フアナ』です。フアナは夫フィリップの死を受け入れられず、夫の寝棺を担がせたままスペインを放浪したといいます。状況を飲み込めない彼女は棺をなんども開けては確認したといい、周りには疲れ果てた侍従の姿が描かれています。精神的におかしくなってしまったフアナは29歳にして、トルデシーリャス宮殿に幽閉さました。狂女フアナ』とも呼ばれる彼女ですが、まさに権力争いのど真ん中で苦しんだとも言える女性です。

スポンサーリンク

あとがきにかえて

カール5世 カルロス1世(カール5世騎馬像、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年 画像引用元:Wikipedia)

スペインハプスブルク家、最初の当主となったカール5世 (カルロス1世) は、59年の生涯をスペインに捧げました。フランスとの戦いや宗教改革への対応に苦しみながらも、最後は自ら退位し、その地位と権利を息子へ譲り渡したといいます。そして『日の沈まぬ王国』と呼ばれたスペインハプスブルク家は、この後は近親婚がつづき、結果としてわずか5代で断絶することになるのでした。2019年秋には上野の国立西洋美術館にて、ハプスブルク展『600年にわたる帝国コレクションの歴史』が開催されています。まさかの絵画を、本物を見る絶好のチャンス、気になる方はぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

ハプスブルク関連の記事

その他の記事

スポンサーリンク

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です