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王朝の終焉からみる【ハプスブルク家の現在】

2019/07/30
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

中世から20世紀初頭まで650年という長きにわたり続いたハプスブルク家。自らを神に選ばれた特別な存在として高貴な青い血を誇り、神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占。常に欧州の中心にあり、まわりの国と積極的に婚姻関係を結ぶなどして力を世界へ拡大してきたハプスブルク家は、ヨーロッパ史の格であり基盤であったとも言われています。この記事では「高貴なる青い血」を受けついだ一族、ハプスブルク帝国の終焉と末裔について解説していきます。

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ヨーロッパ最大の勢力を誇ったハプスブルク家とは

ハプスブルク家、名前の由来はスイスの古城

ハプスブルク家という名前は、1020年に建てられたハビヒツブルク城(Habichtsburg)に由来するいわれています。史料的に遡れる最古のハプスブルク家の祖先である「領地持ちのグントラム」の孫で、シュトラスブルク司教の座にあったヴェルナー1世が築城したもので、創建当時は現在のスイス国内で最大規模の城郭だったとか。ちなみに王家自身によって文書でハプスブルクの名前がはじめて使われたのは1108年とのことです。

 

ハプスブルク家の支配力

青い血で有名なハプスブク家ですが、やはりそれは自らの一家に自信と実績があったからでしょう。話しによると、彼らは5つの宗教と12の民族を何世紀にもわたり束ね続け、神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占してきました。王朝の支配権は、現オーストリア、スペイン、ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、チェコ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ポルトガル、メキシコ、カリフォルニア、インドネシアにまで及んだと言われています。

 

支配領地は、ヨーロッパ最大!?

 治世初期のフランツ・ヨーゼフ1世(1853年)

19世紀半ばにオーストラリア皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世の時代は、帝国終焉にもかかわらず、領地面積はロシアをのぞきヨーロッパ最大であったと言われています。68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、オーストリア帝国の「国父」とも称されたフランツ・ヨーゼフ。後継者となった最後の皇帝カール1世は統治期間が2年に満たなかったため、しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝とも呼ばれています。

マリー・アントワネットも

ちなみに余談ですが、有名なマリー・アントワネットはハプスブルク家二大美女のひとりとしても知られています。

 マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)

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ハプスブルク帝国の終焉

帝国解体につながった第一次世界大戦

第一次大戦はハプスブルク帝国の解体につながったといわれています。チェコ、スロバキア、ポーランド、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニア、イタリアが利権を主張、最後の皇帝でありおうとなったチャールズにはドイツ、オーストリア、ハンガリー以外には他には何も残らなかったそうです。

ハプスブルク家の権威剥奪

しかしハプスブルク家は1911年、

  • オーストリアが将来の国家形成を決定する権利を認め
  • 国政において一定の責任を放棄する宣言を行い、
  • また同月ハンガリーに対しても同様の宣言を行い、

多くの権利を失いました。それでも彼は「ハプルブルク王朝」という名前(姓)を放棄することはなかったため、最終的にはオーストリアの共和国の国民議会が1919年「ハプスブルク法」を通過させ、ハプスブルク家がすべての王朝的な特権を放棄し、民間人としての地位を忠実に受け入れない限り、オーストリア領土からすべてのハプスブルク家を追放する、としたのです。

ハプスブルク家の財産権の行方

1919年「ハプスブルク法」にて没収されたオールトリアのハプスブルク財産権は1935年に復活。1938年〜1946年にドイツのヒトラーにより再び撤回されるものの、1963年6月オーストリア政府はハプスブルク家の私的返還を認めています。時代と歴史にも翻弄されたようです。

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最後の皇太子オットーは2011年に逝去

640年にわたる王朝の終焉

父カールに抱かれるオットー。上部を見ると「Franz Josef Otto」あるいは「Franz」と書かれている(1913年撮影)

最後の相続人はオットー・フォン・ハプスブルク(1912年11月20日 – 2011年7月4日)。オーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの第一子で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子でした(1918年の帝政廃止によって身分喪失)。

その後はハプスブルク家の家長となり、1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、ナチス・ドイツのオーストリア侵略計画に対抗します。オーストリア併合の最大の障壁とヒトラーに見なされ、そのオーストリア侵略計画は彼の名から「オットー作戦」と呼ばれました。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命してルーズベルト米大統領やチャーチル英首相と接触し、弟らとともにオーストリア解放に尽力していた記録が残っています。

 

葬儀から見える、ハプスブルク家の力

壮大なオーストリア式の翌日、ハンガリーの国旗の色の花と葉の花輪に囲まれた銀の骨壷はハンガリーの地下室に埋葬されました。礼拝と式典に続いて、何千人ものオーストリア人、ヨーロッパの王族、そして政治家達がウィーンの街を帝国の地下室に埋葬された際に敬意を払うために並んだそうです。

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ハプスブルク家の現在と末裔

1961年にオーストリアの王冠に対するすべての主張を正式に放棄した後、ハプスブルク家には何人かの子供に恵まれていますが、オットーが正式に王室と見なされた最後の人物となりました。王朝の支配は終焉しましたが、オットーには7人の子供がおり彼らは今も健在です。オットーと妻レギーナの長男であるカール氏が2007年以来ハプスブルク家の家長をつとめています。彼の長男と6番目の子供は、ブルガリアの2大新聞社とオランダのメディア会社を買収したオーストリアの投資会社の共同設立者であるそう。

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あとがきにかえて

640年の中に眠る長い歴史と物語の数々、権威の裏にある生々しい覇権争いハプスブルク家の歴史は調べても調べても興味が尽きないものです。今回は終焉の経緯と末裔について解説しましたが、ハプスブルク家の子孫はまた違う形で活躍されているようですね。

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この記事を書くにあたり参考とした文献

  • House of Habsburg EUROPEAN DYNASTY https://www.britannica.com/topic/House-of-Habsburg/Habsburg-Lorraine
  • End of a royal dynasty as Otto von Habsburg is laid to rest… with his heart buried in a crypt 85 miles away https://www.dailymail.co.uk/news/article-2015994/End-Royal-dynasty-Otto-von-Habsburg-laid-rest–heart-buried-crypt-85-miles-away-different-country.html
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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