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【ロマノフ王朝とラスプーチン】コナンと追う恐怖のロシア史

2020/07/13
 
ラスプーチンとロマノフ王朝
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

劇場版シリーズのなかでも人気の「名探偵コナン世紀末の魔術師」滅亡したロマノフ王朝の秘宝エッグを中心に、秘宝に秘められた謎を解いていくストーリーです。

『ロシア革命』で惨殺されたニコライ皇帝一家と、王朝を滅亡に導いたとされるラスプーチン。なぜ王朝は滅亡したのか、ラスプーチンは一体何をしたのか、彼らはどんな最後を迎えたのか。この記事では、コナンに登場した部分を中心に、この奇妙な逸話に彩られた歴史を紐解いていきます

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コナンに出てくるロマノフ王朝

ラスプーチンとロマノフ王朝

キーとなるのは、ロマノフ王朝の秘宝インペリアル・イースター・エッグ。元々は『世紀末の魔術師』という異名をもつほどのからくり好き、香坂喜市の持ち物でした。彼が遺した城には、ロマノフ王朝の秘密がかくされていたのです。(※上記は、コナン劇場版上の設定ですネタバレになるので、気になる方は本編をご覧ください)

 

怪僧ラスプーチンとは

ラスプーチンとロマノフ王朝 (真ん中がグリゴリー・ラスプーチン、右がロマン大佐 1907年)

グリゴリー・ラスプーチンは、ロシアに実在した人物です。シベリアの一地方から都に出て来たラスプーチンは、奇怪な逸話に彩られた生涯からか、様々な映画や小説に悪役として登場します。無教養で字もろくに書けなかったと言われていますが、30歳には苦行僧になり、未来を予知したり、多くの病人を治したりと「祈祷師」として、上流階級の人々からも注目を浴びていました。

ラスプーチンの名前は、英語では、”Grigorii Efimovich Rasputin”、ロシア語では”Григорий Ефимович Распутин “と表記されます。(コナンが犯人の部屋で見たのはロシア語のサイン (頭文字はр)お城で見たのはロシア語のサイン(頭文字はG)同一人物だとすぐに見抜けなかったのはこのためでした。)

 

ロマノフ王朝滅亡の一因となったのは、本当か

ラスプーチンとロマノフ王朝 (戴冠式でのニコライ2世とアレクサンドラ皇后、マリア皇太后 1898年)

ロマノフ王朝は約300年ロシアに君臨した、歴史上最後の王朝です。

ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ女王は、お世継ぎ問題に悩みました。男児が生まれなければ、王朝が断絶してしまうからです。そんな中、奇跡的に男の子が誕生します皇太子アレクセイの誕生は、ロマノフ王朝再生のまさに希望でした。

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン(ニコライとアレクサンドラの、公式の婚約写真 1894年4月 )

仲睦まじい皇帝夫婦でしたが、2人には辛く重い悩みがありました。希望である皇太子は当時治療法がない血友病血液を固めることがむずかしい病気を患っていたのです。そんな精神的に不安な2人の前に現れたのが、「神のごときひと」と言われたグレゴリー・ラスプーチンでした。

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神の如き人

皇帝夫妻の弱みにつけいった、ラスプーチン

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン(1888年のロシア皇室一家 中央後ろがニコライ皇太子)

皇帝夫妻は、息子アセクセイが元気に成長するにつれ、血友病の症状にやきもきしていくようになります。「残念ながら、治療法がありません」と匙を投げる医師を差し置き、ラスプーチンはまじないで治療をおこなったといいます。

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン (一番右にいるのが、グリゴリーラスプーチン 1909)

誰もが懐疑的だった、といいますが、プラシーボ効果だったのか催眠術だったのか、いずれにせよ、翌日には皇太子の発作がおさまり症状は改善しました不安を抱えた皇帝夫妻には、彼が神様のように思えたことでしょう。

 

奇跡をおこした怪僧

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン(ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン 右1908年 左1914年)

頻繁に家族旅行へいっていたニコライ家。そんなある日、皇太子アレクセイは、旅先で大腿部に大きな怪我を負ってしまいます。激痛に苦しみ出血が止まらず、医師からも「絶望的だ」といわれたその時、遠くシベリアにいたラスプーチンに皇后は大慌てで電報を打ちました

ラスプーチンはすぐに、

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン皇后さま、アレクセイがここで死ぬことはありません。神はあなたたちの願いを受け入れるでしょう ‘God has seen your tears. Do not grieve. The Little One will not die.

と電報を返しました。

あろうことか、電報が届いたその日に出血が止まったのです。まさに奇跡と思われるその状況に、皇后アレクサンドラは更にラスプーチンに心酔するようになります。そんなアレクサンドラ皇后の影響で、ニコライ2世もラスプーチンに『政治的助言を求めるようになっていく』のでした。

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ラスプーチンの政治関与

宮廷や民衆からの批判の声

ラスプーチンとロマノフ王朝(崇拝者に囲まれるラスプーチン 1914年) 

宮廷人や貴族から熱烈な信仰を集めるようになったラスプーチンは、乱れた生活を送っていたと噂され、『ロシア皇帝は彼に操られている』といった風刺画まで出回るようになりました。

ラスプーチンとロマノフ王朝(ラス・プーチンの風俗画 反皇帝派のポスター)

しかしそれでも皇帝夫婦の信頼は途切れることなく、誰もラスプーチンをよそにやることをできませんでした。ラスプーチンはそれほどまでに、皇帝夫婦の心を掴んでいたのです。

 

ラスプーチンに心酔する皇帝夫妻、つのる廷臣の不満

ラスプーチンとロマノフ王朝 (結婚式でのニコライ2世とアレクサンドラ皇后 1895年)

皇太子の母マリアとソリがあわなかったアククサンドラ皇后にとっては、精神的苦痛を緩和してくれる彼の存在はとても大きくすがるような思いだっのでしょう。

ラスプーチンとロマノフ王朝(皇太后マリア・フョードロヴナと幼き頃のニコライ2世)

しかしそんな「出自もよくわからぬ怪しい祈祷師が政治にまで介入してきたとあってはさすがに廷臣たちも黙っていられません皇帝夫妻はまったく聞く耳を持たず、廷臣の不満のつのるばかり

 

ユスポフ公による、ラスプーチンの暗殺

ラスプーチンとロマノフ王朝 (左がユスポフ公  右はグリゴリーラスプーチンに対する陰謀の参加者の蝋人形)

ラスプーチン暗殺計画がなんども浮上しました。「皇帝にいくらいっても事態は変わらない、ならいっそこの手で最終的には、皇帝の親戚にあたるユスポフ公爵が直接手を下すことになります。

ラスプーチンとロマノフ王朝(殺人現場でのフェリックス・ユスポフとグリゴリー・ラスプーチンの蝋人形)

1916年12月、ユスポフ公はラスプーチンを自宅へ招きました。真実か否か、お菓子や、酒には毒が盛られていたそうですが、本人は平気で食べ続けたといいます。全く死なないラスプーチンに業を煮やし、ついに発砲。至近距離から2発、銃弾は貫通しましたが、それでも起き上がるラスプーチン

怖くなったユスポフ公達は最終的には動かなくなるまで暴力をふるい、袋のなかにいれて、凍ったネヴァ川へ投げ捨てたそうです。発見された遺体の肺には水がたまっていたため、川へ放られた時も彼は生きていたとという説もあります。こういった逸脱した話しが、「怪僧ラスプーチン」と呼ばれ、いまも幾多の小説に取り上げられる所以なのかもしれません。(参考:ユスポフの回顧録)

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ラスプーチンの遺言

予言通りの帝政崩壊

ラスプーチンとロマノフ王朝(ニコライ2世と、残されたラスプーチの予言)

こちらが1913年に撮られたとされるニコライ2世。ラスプーチンが暗殺されたと知った皇帝夫妻は嘆き悲しみましたそしてラスプーチンは暗殺されることを悟ったのか、ある言葉を残していたのです。

ラスプーチンとロマノフ王朝ロシアの皇帝よ、もしもわたしに死をもたらした者がそなたの親戚であるのであれば、そなたの家族は2年と生きられないでしょう。ロシアの民に殺されるのです。

ラスプーチンを暗殺したのは親戚であるユスポフ公爵』でした。この予言に導かれるかのように、ロマノフ王朝は、ラスプーチンの死後わずか2ヶ月半で終わりを告げます。ただ貧富の差に先制主義への不満、日露戦争の敗北。

ラスプーチンとロマノフ王朝

ロマノフ家に対する批判は高まっていき、王家と民衆の間には大きな確執がうまれていました。それだけでなく得体のしれない男ラスプーチンに盲信する皇帝達にたいして、家臣も不満をもち、宮廷内の分裂も修復不能な状態であったといいますから、こうなるのも必然だったのかもしれません。

 

ロマノフ王朝 ニコライ皇帝一家の惨殺

ラスプーチンとロマノフ王朝(ニコライ皇帝一家の写真)

その後の皇帝一家はどうなったのか。

皇帝一家は、エカテリンブルクの商人イパーチェフ邸に幽閉されました。コナンの中では一家惨殺の前に『マリアだけは恋人となった日本人男性に助けられ、亡命した』とされていましたが物語上の設定のようで、事実は残酷にも、地下室で一家全員が殺害されていたことが、あとでわかりました。

ラスプーチンとロマノフ王朝

ボルシェビキ時代この事実は徹底的に隠されました。「本当はどこかで生きているのではと色々な噂がたったのはそのためでしょう。歴史が明るみになったのはソヴィエト連邦が崩壊し、新生ロシアとなってからでした。それだけでなく、ニコライ2世の専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人やメイドなど11人もイパチェフ館の地下で銃殺されていました。これにより、元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えたのです。

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ロマノフ王朝の終焉

幽閉された館と、ニコライ2世の最後

ラスプーチンとロマノフ王朝

イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたといいますが、互いに協力しあって生活を送ったといいます。

ラスプーチンとロマノフ王朝(1917年、ニコライ2世の最後のものと伝わる写真)

ニコライ2世は、死の4日前まで日記を書き続けていました。イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ・ヤキモフは、当時のニコライ2世の晩年の様子ついて、こう書き残していました。

memo皇帝はもはや若さを失い、髭も白くなってきた。わたしは彼が兵隊シャツを着て、腰に将校ベルトを締めているのを見ました。シャツもズボンも同じカーキ色で、長靴は擦り切れていました。眼は優しく、本当に穏やかな表情をしていた私は彼が親切で、単純素直で、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった本当に、私達に話しかけたがっているようだった

 

ニコライ2世の3女マリアの写真

ラスプーチンとロマノフ王朝(ニコライ 皇帝一家の写真 カラー復元の一部)

1914年頃の皇帝一家の写真、左よりオリガ、マリア、ニコライ2世、アレクサンドラ、アナスターシャ、アレクセイ、タチヤーナ。マリヤは左から二番目の人物その右側にいるのがアレクサンドラ皇后ですねコナンのなかで出てくるお城が、ロシア風ではなくドイツ風だった理由。それはマリアの母である彼女アレクサンドラ皇后がドイツ系だったからでした。

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あとがきにかえて

ラスプーチンとロマノフ王朝

民衆の生活はとても貧しく、王家と一部の貴族のみが贅沢をできたこの時代。色々な不満が積み重なってロシア革命が起こりました。ちなみにコナンが公開されたのは1999年、それから9年後の2008年、ロシア最高裁判所にて「ロマノフ家は根拠なしに迫害された、ボリシェビキの弾圧の犠牲者であった」として名誉回復の裁定が下されたそうです。コナンの面白いところは、ただのミステリーではなく『現実世界を織り交ぜて、そこに新たな結末を作り上げている』ところですね。

ラスプーチンとロマノフ王朝

余談ですが、ニコライ2世、またその父であるアレクサンドル3世は、家族をとても大切にする方だったそうです。воспоминание(思い出)とつけられた、インペリアル・イースター・エッグは家族を大切にした皇帝の優しさを示しているのかしれません。ロマノフ王朝の始祖については、こちらの記事【ロマノフ王朝の始祖】玉座に翻弄された者たちの、皮肉な運命にまとめております。

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