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【ロマノフ王朝】覚えておきたい、ロシアを統治した5人の君主

2020/04/17
 
アレクサンドルの子女
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

300年以上にわたってロシアを支配した、ロマノフ王朝この記事では、あまり知られていないが記憶に残る5人の統治者をご紹介したいとおもいます。

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① ロマノフ王朝の始祖、ミハイル

マイケル(統治期間:1613年から1645年)

最初のロマノフ国王となったミハイルは、暗黒の時代のロシアに安定をもたらしたことで知られています。20年以上にわたり、ロシアは侵略、飢饉、反乱と苦難に見舞われていました。リューツク朝の滅亡の後をめぐり、後継者を募ると偽物も含め多くの (自称) 王位継承者があつまりました。候補者となったスウェーデン王子や、ポーランド王子、モスクワ解放に尽力したロシア軍人や貴族などを打ちやぶり、新ツァーリに選ばれたのは「ミハイル・ロマノフ」イワン雷帝の最初の妃であり愛妻アナスターシャを大叔母にもつ16歳の青年でした。

ロマノフ王朝の家系図 (イヴァン雷帝) (参考:【ロマノフ王朝の始祖】玉座に翻弄された者たちの皮肉な運命)

自分がツァーリになるなんてとんでもないとミハイルは何度も断りました。しかし彼には、英雄であるイワン雷帝の妃 アナスターシャの血が流れているということもあり、ツァーリたる政党な後継者だと見なされ、1613年に即位。決して野心溢れる、意志の強い統治者というわけではありませんでしたが、ミハイルは、混沌で破滅寸前のロシアに平和と秩序をもたらしました

 

② ヨーロッパに憧れた女帝、エリザヴェータ

エリザヴェータ(統治期間:1741年-1761年)

ピョートル大帝の孫であったエリザヴェータは、王座への険しい道を歩みました。父親の死から16年後、彼女は卑しい女帝と呼ばれたアンナへクーデターを画策し、後にドイツの廷臣たちからロシアの官僚支配権を奪い取ります。楽しいことが好きで浮気好きだったエリザベヴェータは、ロシア宮廷でのパーティーで何十人もの恋人を連れて行ったそうです。

ロマノフ王朝家系図 (ピョートル3世) (参考:ロマノフ王朝家系図 エリザヴェータ)

エリザヴェートは死刑制度を廃止ロシアで最初の大学のいくつかを開校してロシア正教会を支援しました。彼女はロシア芸術の最大の後援者でもあり、ロシアの建築界の著名な作品の多くは彼女の治世に設計され建てられたものです。彼女は7年戦争で軍事的、外交的な成功を収めましたがその功績は、甥でドイツかぶれの後継者のピョートル3世によってあっけなく打ち消されてしまったのでした。

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③ ナポレオンと対決した、アレクサンドル1世

アレクセイ(統治期間:1801年-1825年)

ロマノフ王朝の大女帝と呼ばれたエカチェリーナ2世の愛孫がツァーリとなったのは、父パーヴェル1世が暗殺された後のこと。彼が王座を得ることになるまでの一連の出来事は、彼の治世に一生にわたりつきまとっていたようです。トルストイの叙事詩「戦争と平和」の背景となったこの理想主義的な皇帝は、ナポレオン・ボナパルトとの複雑な関係でよく知られてます。若い頃アレクサンドルは、この偉大なフランスの君主を大いに尊敬していましたが、2人の関係が悪化するに時間はかかりませんでした

1812年、最盛期とされたナポレオンの巨大な大陸軍はロシア侵攻の態勢を整えていました。進行してくるナポレオンに対して、アレキサンドルは国民を祖国防衛に結集、ロシアの厳しい冬を味方につけ、モスクワに到着する前にナポレオン軍を撃退したのです。

 

④ 残忍で冷酷な王、ニコライ1世

ニコライ1世(治世:1825年-1855年)

ニコラス1世は、恐怖でロシアを牛耳った支配者でした。1825年末、アレクサンドル1世の不可解な死をうけ、ツァーリになったニコライ。専制政治 (支配者が独断で思いのままに事を決する政治) で知られていたために、即位時に自由主義を支持する将校達によるクーデターが起きたのですが彼は残忍な方法で鎮圧。リーダーの多くを処刑し、残りをシベリア流刑の恐怖に陥れました。

ニコライ1世は秘密警察の力を借りて、ロシアの伝統的な文化、価値観、宗教を根付かせようと画策。彼はロシア帝国を700万平方マイル以上に拡大することに成功し国土を史上最大規模に押し上げましたニコライ1世は軍の強力な支持者でしたが、指導者としての結果はいまいち…. そして彼の冷酷で残忍な皇帝は人気がなく、クリミア戦争では壊滅的な敗北を喫し、彼の実力を浮き彫りにしたのでした。

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⑤ 解放者と呼ばれた、アレクサンドル1世

アレクサンドル2世

アレクサンドル2世は、解放者と呼ばれたツァーリです。父親 (ニコライ1世)よりもはるかに高等な教育を受けており保守的な父とは違い世俗的でオープンな人物でした。父ニコライの破滅的な行動に対しても冷静であり、クリミア戦争からロシアを撤退させるためにも迅速に動きました。ロシアが西欧のより近代的な国家に後れを取っていることを知ったアレクサンドルは国の経済を完全に再構築アレクサンドル2世は、新聞の検閲を緩和し、教育制度を自由化、地域社会にかつてないほどの自治を認める一連の法改正を行いました

帝室騎馬近衛連隊の軍服を纏ったアレクサンドル2世(帝室騎馬近衛連隊の軍服を纏ったアレクサンドル2世)

1861年、2000万人以上のロシア農民を土地所有者に隷属させてきた農奴制を廃止。アレクサンドルは彼らの解放は道徳的に正しいだけでなく、すべての階級にとって経済的にも有益だったと主張しました。ロシアはアレクサンドル2世の時代に、産業革命を経験することになりました。軍隊は最新の兵器を装備、鉄道網が国中に張り巡らされ、広大な天然資源の開発が可能になりました。

 

ロシア革命の火種

イリヤ・レーピン 『ナロードニキの逮捕』( (イリヤ・レーピン 『ナロードニキの逮捕』)

しかし、誰もがアレクサンドルの改革を支持しているわけではありませんでした。人民の中へ(ヴ・ナロード)をスローガンにしていたナロードニキ人民主義者と呼ばれていた人々は、皇帝と地主の権力は農民一揆で打倒できると叫び農民の説得に情熱を傾けましたが思うような支持を得られなかったあげく政府の厳しい弾圧に遭います。結果として彼らの一部が暴走、『皇帝や高官を暗殺することにより専制政治を打倒しよう』とテロに走りました。

暗殺を描いた絵 (暗殺未遂を描いた絵)

アレクサンドルはなんども暗殺未遂にあい、最終的にはこの一派による爆弾により命を落とします皮肉なことに彼が亡くなった日アレクサンドルはロシア初の立法議会への支持を表明していました。かつてニコライ1世がそうであったように、新たに王位についたアレクサンドル3世も父親の改革の試みを断念。ロシアの独裁体制への過酷な回帰これは300年のロマノフ王朝の終焉と共産主義ソビエト連邦の興隆を迎える1917年ロシア革命の引き金となっていくのでした

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あとがきにかえて

オリガ(左)・ゲオルギー(中央)・エカチェリーナ(右) (アレクサンドル2世の子女 左からオリガ、ゲオルギー、エカチェリーナ)

この記事では、ロマノフ王朝が輩出した奇抜な5人の君主をご紹介しました。ミハイルのように望まずして王位についた皇帝もいれば玉座を巡って殺しあった君主もおりました(このなかでいうと、アレクサンドラ1世の父ピョートル3世ですね) どこの宮廷も同じですが、ロシアは血の気が多いのか歴史をおっていくと実父や実子であれど方針がちがったり、政敵となったならば平気で殺してしまうという残酷な一面がみえてきます

愛人を多く持って、庶子と正当な世継ぎとの間で玉座の奪い合いが起きるというのも、カトリックの守護者を自負したハプスブルク家とはちがうところですね。しかしツァーリになったはいいが暗殺される君主も多く…野心をもって玉座についたロシア皇帝はどんな覚悟をもっていたのか、はたまた名誉のためだったのか、どっちだったのでしょうか。ロマノフ王朝の終焉については (【ロマノフ王朝とラスプーチン】コナンと追う恐怖のロシア史にまとめておりますので、続きが気になる方はぜひチェックしてみてください。

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