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【血友病と皇太子アレクセイ】ロマノフ王朝を滅亡させた王室病

 
ロマノフ王朝 アレクセイと家族
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ロマノフ王朝 最後の皇太子アレヴィッチアレクセイの短い人生は痛みと苦しみに満ちていたといわれています。彼は生涯を通じて、先天性疾患である血友病に苦しみました。母アレクサンドラ皇后は、唯一の男児であった彼の命を心配するばかりに『怪僧ラスプーチン』に心酔。

グリゴリー・ラスプーチン

結果として国民と廷臣の反感を買い、皇帝ニコライ2世一家は全員惨殺されるという悲劇を生み出しました。この記事では、ロマノフ王朝最後の皇太子アレクセイとロマノフ王朝を不安に陥れた王室病にせまっていきたいとおもいます。

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ロマノフ王朝 皇太子が背負った重い病気

断絶間近の王朝に、待望の男児が誕生

Alexandra Feodorovna (Alix of Hesse)
1904年、ニコライ2世の妻でありロシアの皇后であるアレクサンドラ・フョードロヴナが息子を出産したとき、宮廷は喜びと祝福に包まれました。断絶間近だった王朝に奇跡的に男の子が生まれたのです。アレクサンドラ皇后は1895年から1901年の間に4人の女児を出産していましたが、末にうまれた男児アレクセイが『王位継承者』となりました。

このような困難な時に主が私たちに送ってくださったこの救いに感謝する言葉もありません」とニコライ2世は喜びを日記に記していました。しかしこのとき皇帝は、この幼き皇太子が困難を背負って、厳しい運命をたどることを知る由もありませんでした

 

皇后の祖母ヴィクトリア女王から受け継いだ『遺伝子』

Alexandra Feodorovna (Alix of Hesse)

「祝福して神に感謝するには早すぎた」と、歴史家で医者でもあるボリス・ナカペトフは自著 『Medical Secrets of the House Romanov (ロマノフ王朝の医学の秘密)』のなかで述べています。すぐに、医師たちは皇太子が、皇后の遺伝子に眠っていた恐ろしい病気、血友病にかかっていることを発見した」と。

この先天性疾患、血友病は血が止まりにくくなることが特徴であり、小さな傷でさえ長きにわたり内出血をもたらし、ケガは致命的なダメージとなります。アレクサンドラは祖母である英国のビクトリア女王から遺伝子を受け継いでいました。

Queen Victoria

女性は血友病の遺伝子を「運ぶ」だけですが、男性はそれに苦しむことになります。アレクサンドラにはなかった症状が、生まれた男の子アレクセイにはあらわれたのです。

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血友病に苦しむ、幼き皇太子

それは終わりのない拷問のようなもの

Alexei Nikolaevich, Tsarevich of Russia (皇太子アレクセイと船乗りのベビーシッター インペリアルヨットにて)

アレクセイの症状は生後数か月で発覚し、その後彼の生涯を苦しめることとなりました。皇后陛下のメイドであるアンナヴィルボヴァは病気が悪化したときのことを振り返りこう語ったといいます。

皇太子と私たちにとってそれは “終わりのない拷問” のようなものでした。彼は痛みでずっと叫んでいましたし、私たちは彼の世話をしながら耳を閉じなければならなりませんでした。

 

アレクセイをおそう、泣き叫ぶほど激しい痛み

Alexei Nikolaevich, Tsarevich of Russia (歩くことができず、ベビーシッターが彼を運ぶことも)

皇太子アレクセイにとって最も耐え難い瞬間は、関節に血が染み込んだときでした。「止まらない血液が骨と腱を破壊して、彼は腕や脚を伸ばしたり曲げたりすることができなかった」とナカペトフ氏は語っています。

状況を改善するための唯一の方法は、マッサージとエクササイズでしたが、これにはさらなるケガや出血の危険も伴っていました時としてアレクセイはまったく歩くことができず、使用人が彼を運ぶかたちで、公式行事などは成り立っていました

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『神の如き人』グリゴリー・ラスプーチン

怪しい祈祷師

グリゴリー・ラスプーチン (グリゴリー・ラスプーチン Распутин, Григорий Ефимович)

医者も匙を投げるなかでアレクセイの苦しみを和らげたのが『グリゴリー・ラスプーチン。医者ではなく、シベリアの祈祷師であり、聖人を自称する怪僧でありました。1905年にニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した彼は「自分なら皇太子を助けられる」といい、実際に皇太子の苦しみを緩和しました。

ラスプーチンが何度も皇太子の苦しみを和らげたという記述はたくさんある」とナカフェトフ氏は認めています。しかしその根拠は分からずじまい、ナカペトフはラスプーチンがアレクセイを落ち着かせるために催眠術をつかったのではないかと仮説をたてていますが真実はもはやわからず。プラシーボ効果だった、いう説も残っています。

 

『神の如き人』が残した予言

ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン(ロマノフ王朝 皇帝一家とラスプーチン 右1908年 左1914年)

ラスプーチンがどのように皇太子の症状を落ち着けたのかは誰もわかりませんでしたが、一つはっきりしているのは、ラスプーチンはアレクサンドラ皇后とニコライ2世の絶大な信頼を得たために、信じられないほどの政治的影響力を得たということです。アレクサンドラ皇后は彼がいないと落ち着かずニコライ2世は、ラスプーチンに政治的助言を求めるようになっのです。ラスプーチンは、「私が生きている間は、アレクセイは無事であろう」と堂々と言い放ったそうです。

グリゴリー・ラスプーチン (ラスプーチンの風刺画)

「皇帝皇后は彼に操られている」と風刺画も出周り、宮廷内でもニコライ2世への忠誠心はゆらいでいきました。1916年12月30日、ラスプーチンは、彼の存在をよく思わないユスポフ侯爵によって殺害されてしまいますそして18か月後の1918年7月、ラスプーチンが予言したとおりに、皇帝一家も無残なまでに惨殺されてしまいました。

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あとがきにかえて

Alexei Nikolaevich, Tsarevich of Russia

症状が落ち着けば、アレクセイは『王位継承者』として普通の生活を送っていました勉強したり公式行事に参加したり、時には遊びにも出かけました。ニコライ2世の副官アナトリー・モルドヴィノフも「皇太子は人との絆を深めるのが速く、人を愛し人のためにできる限りのことをしようとしたとアレクセイについて語りました。

Alexei Nikolaevich, Tsarevich of Russia

ニコライ2世のもとにアレクサンドラ皇后が嫁ぐことになったときニコライ2世の母マリアはもし、血友病の遺伝子が孫に受け継がれたら…と心配し反対したそうですが、心配は現実になってしまいました

Maria Fyodorovna

ちなみに最後のロシア皇帝ニコライ2世の母親であり、長男一家の処刑後も10年間存命していました。姉のイギリス王太后アレクサンドラに急き立てられ、全く気が進まないまま海路クリミアを離れ、ロンドンへ移ったからです。しかし、アレクセイが血友病を発症せず、アレクサンドラ皇后がラスプーチンに心酔しなかったらロシア革命が避けられたかというとそうともいえず革命は時間の問題だったのかもしれません。いつの日も、時代の波は避けられないものです。皇帝一家処刑までの経緯は (【ロマノフ王朝とラスプーチン】コナンと追う恐怖のロシア史)にまとめております。

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参考文献

  • 名画で読み解く ロマノフ家 12の物語 (光文社新書)
  • How the ‘royal disease’ destroyed the life of Russia’s last tsarevich
  • RUSSIA BEYOND

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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