ロマノフ王朝生き残り説の真相【ニコライ皇帝一家惨殺事件】

romanovロシアの歴史

304年間ロシアを支配した、ロマノフ王朝最後の君主ニコライ2世彼が妻アレクサンドラと5人の子供と共にボリシェヴィキに処刑されたのは、1918年7月17日早朝のことでした。しかし一家の誰かが生き残ったという噂があちこちで聞かれたのです。本当のところはどうなのか、この記事では、いまだに人々を奔走する噂の真相に迫っていきます

この記事のポイント
  • 秘密警察の処刑部隊により、皇帝一家は祈る暇もなく一斉射撃を受け殺された
  • 何人か現れた自称の偽皇族は、DNA検査で偽物と判明
  • 行方不明だった13歳の皇太子とその姉妹の遺体も発見、生き残りはいなかったことがわかった
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館への幽閉

ロシア革命で皇帝一家は、エカテリンブルクの商人イパーチェフ邸に幽閉されました連れて行かれたイパチェフ館は4メートルある高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされていました皇帝一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていましたが互いに協力しあって生活を送りました。

幽閉生活も束の間、1918年7月17日深夜頃、皇帝一家は主治医エフゲニー・ボトキン博士に「エカテリンブルクに危機が切迫している為に安全な場所に移動する」と告げられ、半地下にいくよう命じられました。そして、トラックが館に到着するまで地下室で待つよう命を受けました。

皇帝一家の処刑

しかし実際にきたのは、トラックではなく秘密警察の処刑部隊でした。皇帝一家に銃口が向けられ、祈る暇もなく一斉射撃が始まりました。集められた処刑部隊全員がニコライ2世の胴体に向けて拳銃を発砲し多くの銃弾をうけた皇帝はすぐに命を落としました。そしてアレキサンドラ皇后、子供達が倒れるまでそれは続きました。

皇帝一家と従者の遺体はフィアットトラックに積み込まれ、コプチャキ街道沿いの森に向かって湿地帯を9マイルほど進んだところで遺棄されました。当局は見つからないよう誰かわからないよう工夫をこらし、また皇太子アレクセイと姉妹のひとりを15メートルほど離して埋葬しました。アレクセイと姉妹の一人は焼かれ、残りの黒焦げになった骨は徹底的に鋤で粉砕され小さい方の穴に放り込まれていたそうです。

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偽物の自称皇女

ボルシェビキ時代この事実は徹底的に隠されました。遺体が見つからなかったため、「皇帝一家の誰かが生き残っている」といった噂が町では飛び交いました。1921年にはドイツの精神病院に謎の女性が現れ、「皇帝の末娘であるアナスタシア大公妃」を自称しました。アンナ・アンダーソンとして知られるこの女性の支援者たちは、認知を勝ち取るために30年にわたる法廷闘争を繰り広げましたが、1970年にドイツの裁判所が彼女の訴えを却下しました。

アンダーソンは1984年に亡くなり、1990年に行われたDNA鑑定では、彼女がロマノフ家とは無関係であることが決定的に証明されました。おそらくフランツィスカ・シャンツコフスカというポーランド人女性であると思われます。

遺体の発見

ロシアの科学者たちは、1976年にニコライとアレクサンドラ、そして3人の娘の遺体を発見しましたが、1991年にソ連が崩壊寸前になるまで隠されていました5人の遺体は、法医学検査とDNA検査の後で、代々ほとんどの皇帝が埋葬されているサンクトペテルブルクのペトル・パウェル大聖堂の、聖エカチェリーナ礼拝堂に国葬の礼をもって安置されました。

13歳の皇太子アレクセイとその姉妹の遺体のうちの2体は行方不明でしたが、2007年には、一家の暗殺者の1人が残した手掛かりおって、科学者たちは3人の遺骨 (アレクセイとその19歳の姉マリアを含む)を発見しました。

ロマノフ王朝 生き残り説の真相

ラスプーチンとロマノフ王朝(ニコライ 皇帝一家の写真 カラー復元の一部)

一家惨殺の真実が明るみになったのはソヴィエト連邦が崩壊し、新生ロシアとなってからでした。DNAの結果もあり、皇帝一家は地下室で一人残らず銃殺されていたことがわかったのです。何人か出た自称の偽皇族は、DNA検査で偽物だったこともわかりました。またその後、皇帝一家だけでなく、皇帝ニコライ2世の専属医、アレクサンドラ皇后の侍女、一家の料理人やメイドなど11人も館で銃殺されていたことも発覚しました。

この事実はヴォルシェビキ時代には徹底して隠されいました。々な憶測が飛び交ったのは遺体が出てこず、その後彼らの行方を知る者も容赦無く殺されていったからでしょう。

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まとめ

秘密警察の処刑部隊により、皇帝一家は祈る暇もなく一斉射撃を受け殺されていました。何人か出た自称の偽皇族はDNA検査で偽物と判明。やがて方不明だった13歳の皇太子とその姉妹の遺体も発見され、生き残りなどはおらず、一家全員が惨殺されていたことがわかったのです。

ロマノフ王朝の最後には、怪しい逸話がいくつも存在し、そのひとつが王朝滅亡の原因をつくったとされる怪僧ラスプーチンです。彼はロシア革命の前に、ニコライ2世の親戚にあたるユスポフ公に暗殺されていたわけですが、彼が残した怪しい予言もまたロシアを翻弄したのかもしれません。

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