【ナポレオンの波乱万丈な生涯】英雄となった男はどんな人生を歩んだのか

フランスの歴史

幾年たとうとも、人々を魅了してやまないナポレオン・ボナパル。彼を一言で表すなら、「君主制を打倒した大革命後に登場した皇帝」でありましょう。

君主制をとっていたイギリスや、オーストリアなどが自分の地位を危ぶみ、フランス封じ込めに動く中、それらの国々を跳ね除け、近代戦争の軍隊の礎を築いた大英雄。ナポレオンは一体どのような人生を歩んできたのでしょうかこの記事では、彼の波乱な人生と魅力を追っていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • フランス革命後の混乱期、カリスマ的才で出世していったナポレオン
  • フランス皇帝となり、多大な功績をあげるも最後は惨敗して転落
  • 最後は島流しとなり、再起をはかるも実らず胃癌で亡くなる
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辺境の地に生まれて

辺境の地で貧乏貴族の子供に生まれたナポレオン。背は低く容姿はイマイチ、差別もうけ、また学業成績はふるわず、とくにパッとしない人物であったといいます。しかし天才的な軍事の才に恵まれたナポレオン、1785年には砲兵士官になりました

1789年フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていました。しかし、当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だったといいます。

若き英雄の誕生

1795年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起ります。

このときに国民公会軍司令官となったポール・バラスは、知り合いのナポレオンを副官として登用しました。実際の鎮圧作戦をほぼ一任した結果、ナポレオンは、都の市街地で一般市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧を成功させてしまったのです。

近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した(近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用したナポレオン)

これによってナポレオンは師団陸将(中将相当)に昇進することになります。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとったのでした。

才長けた若者、軍人としての活躍

1793年原隊に復帰したナポレオンは、「貴族士官の亡命」という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進してしまいます。そしてナポレオンは(フランス軍の中でもおもに王党派蜂起の鎮圧を行っていた)カルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征しました。

前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり少佐に昇格。不安定な時代の中で、ナポレオンあれよあれよという間に出世していったのでした。当時の欧州情勢としてはナポレオン率いるフランス革命政府vs反革命反乱軍の図式があり、港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていました。

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トゥーロン攻囲戦での活躍

革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、カルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況だったのです。ここでナポレオンは、「まずは港を見下ろす2つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする」という作戦を進言します。

次の次の司令官はこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだのです。ナポレオン自身は足を負傷しましたが、この功績により当時24歳の彼は一挙に旅団陸将に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられたのです。

皇帝ナポレオンの誕生

天才的な軍事の才に恵まれたナポレオン。

その後も連戦連勝を重ね、ローマのモデルに基づいた帝国システムの作成を正当化。そしてついに、1804年11月に開催されたフランス憲法国民投票にて、ナポレオンはぼ全一致で「フランス皇帝」に選出されたのでした。この国民投票には約360万人が参加したというのですから、彼の人気度合いが伝わってきます

ナポレオンの戴冠式 ジャック=ルイ・ダビッド(1804) ナポレオンの戴冠式 画:ジャック=ルイ・ダビッド(1804)

1840年12月2日のパリ。ノートルダム大聖堂で、35歳のナポレオンは豪華絢爛な戴冠式を挙行します。ブルボン家の後継者と見放されるのを嫌い、ナポレオンは「王」ではなく、「フランス人民」の皇帝を名乗ったといいます。ナポレオンは「稀代の英雄」の自己演出に長けた人物でもありました。

愛妻ジョゼフィーヌ

ナポレオンといえば、必ず思い出されるのが「ジョセフィーヌ」の存在でしょう。

ナポレオンが彼女に出会ったのは、まだ若き将軍であった1795年秋のことでした。出会って早々、ナポレオンは彼女にすっかり夢中になり、またナポレオンの活躍とともにあがる名声はジョセフィーヌを潤わせました。ナポレオンもジョセフィーヌも個性が強かったために、2人はぶつかり、険悪になることも多くあったといいます。

フランス王妃となったジョゼフィーヌは後継を産むことができず46歳にして離縁されますが、その後もナポレポンとの仲は良好で、後妻を嫉妬させるほどで、派手な暮らしぶりも相変わらずだったといいます。ナポレオンの最期の言葉は「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ」であったことから、相当に愛しく大切な存在であったことがわかります。

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良家の娘を迎えて

ナポレオンとの結婚式 (画)ジョルジュ・ルジェ(ナポレオンとの結婚式 (画)ジョルジュ・ルジェ)

次第にナポレオンは、名家との婚姻を熱望するようになっていきました。そこで白羽の矢が立ったのが ハプスブルク=ロートリンゲン家のマリー・ルイーズです。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度にわたって追い出されており、ナポレオンは「恐ろしい憎むべき男だ」と教えられ、ナポレオンと名を付けた人形をいじめながら育ってきた女性でした。

しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、ナポレオンは思いのほか自分に優しく接してくれることに気がつきました。次第にマリー=ルイーズは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていったといいます。名家の「血」にこだわったナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、機嫌を損ねないように必死だったともいわれています。

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英雄の転落

1812年9月にモスクワの火を見ているナポレオン(1812年9月にモスクワの火を見ているナポレオン)

ナポレオンが、皇帝の座にいられたのはわずか10年でした。1812年、ナポレオンはロシアへ攻め込みます。過去2度とも楽勝したロシア軍相手の戦いに自信満々だったナポレオンですが、相手の将軍が「クトゥーゾフ」に変わって相手の戦略は激変。モスクワまでたどり着きながら惨めに敗走することになるのでした。

1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化しました。ナポレオンに恐れをなしていた各国が反撃にでたのです。プロセイン軍25万、スウェーデン軍16万、イギリス軍10万などが国境を固め大包囲網が作られました。わずか7万しか手勢のなかったナポレオン軍は絶望的な戦いを強いられることとなりました。3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落、ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したのですが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられエルバ島の小領主として追放されてしまったのでした。

追放からの再起

1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げます。

ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みますが、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいくのでした。そして緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなりま。

ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えましたが、港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降しました。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されました。

ナポレオンの最期

ナポレオンの死を描いた1826年の絵画 (ナポレオンの死を描いた1826年の絵画)

まさかの2度目の島流し、送られた先はセント=ヘレナ島でした。しかしそこでの待遇はとても良いものとはいえず、心労も重なって病状は進行し、ナポレオンは1821年5月、51歳にてその人生を終えたのでした。

ナポレオンの死因は胃癌だとされていますが、交互に襲う睡魔と不眠、脚のむくみや体毛の欠落、肥満など、晩年のナポレオンをおそった症状は、慢性のヒ素中毒の症状とそっくりだったといいいます。その真相はわかっていませんが、皇帝と祭り上げられたひとりの英雄の最後は語るにとても寂しいものであったのでした。

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あとがきにかえて

英雄と呼ばれ、国民の信頼を勝ち得て皇帝となったナポレオン。惚れた女性を愛し、豪華絢爛な生活を送るも晩年は無惨に敗戦し、最後は「皇帝位」から引きずり降ろされる始末それでも再燃復帰して、また島流しにあうというなんともドラマチックな人生でありました。

ナポレオンは何をしたのか、という問いに一言で返すのは難しいですが、「君主制を打倒した大革命後に登場した皇帝」だというのが正しいでしょうか。しかしやはり「王家」の血筋には叶わず、ナポレオン没後はルイ18世が即位し、フランスはブルボン朝へと回帰するのでした。

とはいえ正々堂々と運命に立ち向かい玉砕したナポレオン、功罪を別として、いまだに人々を魅了し続ける理由はここにあるのかもしれませんね。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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