幾年たとうとも、人々を魅了してやまないナポレオン・ボナパルト。国民の英雄と呼ばれ、皇帝になり栄華を極めるも、引きずり下ろされ島流し。まさかの復活を果たしてパリへ凱旋、恋人愛人は数えきれず、と思いきや、またもや失脚、セント=ヘレナ島で無念の死を遂げた伝説の君主です。この記事では、彼の波乱な人生と、魅力を追っていきたいとおもいます。
ナポレオンが英雄と呼ばれるに到るまで
26歳の若き最高司令官は「容貌、態度、身なりともにパッとせず」
(23歳のナポレオン 画 アンリ・フェリックス)
辺境の地で貧乏貴族の子供に生まれたナポレオン。(こっそり知られているように)背は低く容姿はイマイチ、差別もうけ、また学業成績はふるわず、とくにパッとしない人物であったといいます。当時26歳で最高司令官であったナポレオンの印象を、従軍した兵はこう書き残しています。
(16歳のナポレオン(1785年) 容貌、態度、身なりのいずれをとってもわれわれを惹きつけるものがない。(中略)… 小柄、貧弱、蒼白な顔、大きな黒い目、痩せこけた頬 (中略….) 要するに、イタリア遠征軍の指揮を執り始めたころのブオナパルテは、だれからも行為ある目で見られていなかった
フランス革命のゴタゴタを避けマルセイユへ
(『バスティーユ襲撃』(“La Prise de la Bastille”) Jean-Pierre Louis Laurent Houel)
しかし天才的な軍事の才に恵まれたナポレオン、1785年には砲兵士官になりました。1789年フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていましたが、当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心でした。1792年には実家が親仏派であったこともあり、親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下され、軍人ナポレオンと家族はコルシカ島から追放され、船で脱出しマルセイユへ移住。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンはクラリー家の末娘・デジレと恋仲となり婚約します。
(兄の婚約者ジュリー(左)とナポレオンの婚約者デジレ(右))
若き英雄、ナポレオンの誕生
(ヴァンデミエールの反乱 サントノレ通りのサン=ロック教会界隈)
1795年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起ります。このときに国民公会軍司令官となったポール・バラスは、知り合いのナポレオンを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶぶどう弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功します。
(近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用したナポレオン)
これによってナポレオンは師団陸将(中将相当)に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとったのでした。
才長けた若者、軍人としての活躍
(『第一統領ボナパルト』アントワーヌ=ジャン・グロ)
1793年原隊に復帰したナポレオンは、”貴族士官の亡命”という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンは(フランス軍の中でもおもに王党派蜂起の鎮圧を行っていた)カルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征します。
(トゥーロン攻囲戦でのナポレオン 画: エドゥアール・ディテール)
前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり少佐に昇格、あれよあれよという間に出世していくナポレオン。当時の欧州情勢としては
の図式があり、港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていました。
トゥーロン攻囲戦での、ナポレオンの活躍
(画:トゥーロンでのフランス艦隊の破壊)
革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害を被っているような状況でした。ここでナポレオンは、「まずは港を見下ろす2つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする」という作戦を進言します。
(画:トゥーロン包囲網)
次の次の司令官はこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだのです。ナポレオン自身は足を負傷しましたが、この功績により当時24歳の彼は一挙に旅団陸将に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられたのです。
皇帝ナポレオンの誕生
(500人評議会のメンバーに囲まれたボナパルト将軍 画:フランソワ・ブシュ)
天才的な軍事の才に恵まれたナポレオン。その後も連戦連勝を重ね、ローマのモデルに基づいた帝国システムの作成を正当化。そしてついに、1804年11月に開催されたフランス憲法国民投票にて、ほぼ全一致で、ナポレオンは「フランス皇帝」に選出されたのでした。この国民投票には約360万人が参加したというのですから、彼の人気度合いが伝わってきます。
ボナパルトの絶対的権力への熱心な観察者であるレムサット夫人は「革命の混乱に疲れ果てた男性は有能な支配者の支配を求めた」「皇帝は権威を行使し、いまの無政府状態の危険を脱してくれることでしょう」という言葉を残しています。
ナポレオンの戴冠式にみえるもの
ナポレオンの戴冠式 画:ジャック=ルイ・ダビッド(1804)
1840年12月2日のパリ ノートルダム大聖堂、35歳のナポレオンは豪華絢爛な戴冠式を挙行します。ブルボン家の後継者と見放されるのを嫌い、ナポレオンは「王」ではなく、「フランス人民」の皇帝を名乗ったといいます。強権によって名をとどろかせた君主は誰も例外なく、自己演出に長けているといわれています。ナポレオンは「稀代の英雄」の自己演出に長けた人物でもありました。ナポレオンの身長は数センチも嵩上げあれ、肥満の影もなく、堂々たる美丈夫ぶりは、したたかな画家ダヴィットのなせる技です。
ナポレオンと、愛妻ジョセフィーヌ
(ナポレオンの戴冠式に描かれたナポレオンとジョセフィーヌ)
ナポレオンは金とダイヤでデザインされた月桂冠を被り、端正な横顔をみせています。その前に跪くのは愛妻ジョゼフィーヌ、この時41歳。エキゾティックな美貌でたちまち彼を虜にしたこの年上の女性は、いまやフランス王妃。
そして後ろに描かれているのは、苦い顔をした教皇ピウス7世。戴冠というのは本来権威者が行うものですが、ナポレオンは教皇が帝冠を手に取るより早くそれを奪い取り、自分自身で戴冠。「自分の方がえらいものである」という力の誇示に、式に参列した各国代表や貴顕の面々も驚いたことでしょう。
フランス皇帝となったナポレオンのその後
(1805年、フランソワ・ジェラールによるアウステルリッツの戦いでのナポレオン)
夜明けまで国民のために働き続けた、稀代の英雄
(書斎のナポレオン1世 画:ダヴィット)
夜明けの皇帝ー「毎日3時間しか眠らず、夜中でも軍服を脱がずに国民のために働き続ける英雄」のイメージか、ダヴィットが書いた43歳のナポレオンです。執務室の時計は4時13分をさし、今しがたまで執筆をしていたかのように、羽ペンが机の端に転がっています。
そして胸に輝く勲章。軍人あがりの彼は「男の勲章好き」を熟知しており、「勲章などおもちゃと思うだろうが、そんなおもちゃが人を動かすのだ」という言葉を残しています。ちなみに3時間しか眠らないことで知られているこの英雄ですが、入浴には2時間もの時間を取っていたことも知られています。(結局のところ風呂場で寝ていたんじゃないか、とも思いますが、もはや真実はわからず)
愛妻ジョゼフィーヌと、名家の娘 マリー・ルイーズ
(ジョセフィーヌ・ド・ボーハルネ1809年頃)
フランス王妃となったジョゼフィーヌは後継を産むことができず46歳にして離縁されますが、その後もナポレポンとの仲は良好で、後妻を嫉妬させるほどで、派手な暮らしぶりも相変わらずだったといいます。ナポレオンの最期の言葉は「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ」であったことから、相当に愛しく大切な存在であったことがわかります。
マリー・ルイーズの望まぬ結婚
(ナポレオンとの結婚式 (画)ジョルジュ・ルジェ)
次第に名家との婚姻を熱望するようになったナポレオン。そこで白羽の矢が立ったのが (ハプスブルク=ロートリンゲン家の)マリー・ルイーズです。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度にわたって追い出されており、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた女性でした。
(ナポレオンとの結婚式画: ジョルジュ・ルジェ)
ナポレオンと結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時、マリーは泣き続けたといいます。しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、自分に対してとても優しかったため、マリー=ルイーズは心を許し、ナポレオンを愛するようになっていったといいます。
ナポレオンが大切にした、ハプスブルク家のプリンセス
(二番目の妻 マリ・ルイーズ ナポレオン2世とともに (画)ジョゼフ=ボニファス・フランク)
ナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、彼女の機嫌を損ねないように必死だったようです。マリーはハプスブルク家の皇女といってもつつましく育てられたため、おしゃれにも特に関心がなく、服はジョゼフィーヌと比べると少ししか注文しなかったし、宝石にいたってはほとんど欲しがらなかったマリー。ただジョゼフィーヌが皇后だった時代に大儲けをした商人たちの間では、マリー=ルイーズはすこぶる評判が悪く、また、ナポレオンの妹たちとも打ち解けられずにいたともいわれています。
敗け知らずだった英雄の転落
(1812年9月にモスクワの火を見ているナポレオン)
ナポレオンが、皇帝の座にいられたのはわずか10年でした。1812年、ナポレオンはロシアへ攻め込みます。過去2度とも楽勝したロシア軍相手の戦いに自信満々だったナポレオンですが、相手の将軍が「クトゥーゾフ」に変わって相手の戦略は激変。モスクワまでたどり着きながら惨めに敗走することになるのでした。ロシア側はナポレオンの舞台をロシアの奥へ奥へと誘いこみ、焦土のどこにも食べ物を残さず、ナポレオンの部隊は栄養失調や病気で次々と倒れていきます。65万の大軍農地生きてフランスへもどれた兵士の数は、わずか3万ほど。ロシアの広大な広さと、極寒の地において「地の利」を相手に完全に取られた形でもありました。
ナポレオンの失脚と、エルバ島への追放
(エルバ島のナポレオン)
1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化をしました。フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられたのです。3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落、ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したのですが….しかしマルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ、エルバ島の小領主として追放されてしまったのでした。
追放からの再起、パリに戻って復位
(1815年2月26日にエルバを出るナポレオンボナパルト)
1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げます。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みますが、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいくのでした。そして緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなります(実際は95日間…..)。
(セントヘレナのナポレオン)
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えましたが、港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降しました。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されました。
英雄ナポレオンの最期
(ナポレオンの死を描いた1826年の絵画)
まさかの2度目の島流し、送られた先はセントヘレナ島でした。しかしそこでの待遇はとても良いものとはいえず。心労も重なって病状は進行し、ナポレオンは1821年5月、51歳にてその人生を終えたのでした。英雄と呼ばれ国民の信頼を勝ち得て皇帝となり、惚れた女性を愛し豪華絢爛な生活を送るも敗戦。最後は引きずり降ろされそれでも再燃復帰して、また島流しというなんともドラマチックな人生でありました。
あとがきにかえて
(ナポレオンのロシアからの撤退 画:アドルフ・ノーセン)
こちらの絵画にみえるのは、ロシアで大敗したときのナポレオン部隊です。運を味方につけるもの、正面からぶつかり玉砕する者。その後神の定めた運命を、自分ひとりの力で変え得ると傲慢にも過信したナポレオンと、運命を受け入れはするが、流れの有利な時にはそれにのり、不利なときにはできる限り傷を浅くすべく努力するクトゥーゾフ。ロシア側が運を味方につけたことに感服する一方、正々堂々と運命に立ち向かい玉砕したナポレオン、功罪を別として、いまだに人々を魅了し続ける理由はここにあるのかもしれませんね。
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