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【ロマノフ王朝の始まり】玉座に翻弄された者たちの皮肉な運命

2020/09/13
 
イワン雷帝と愛妻アナスターシャ
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ハプスブルク家の源流がオーストリアではなくスイス一豪族だったように、ロマノフ家の始祖もまたロシアうまれではなく、その正体はドイツ貴族のコブライ家でした。300年以上続いたロマノフ王朝のはじまりが、「王位を望まぬ気弱な青年」であったことはあまり知られていません。今日は数奇な運命を背負った幾人かをご紹介しながら、ロマノフ王朝のはじまりに迫っていきたいとおもいます。

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ロマノフ王朝の源流

ロマノフ王朝 双頭の鷲

14世紀初頭プロセインからロシアへ移住したドイツ貴族のコブライ家こそ、その300年以上にわたりロシアを支配することとなる『ロマノフ王朝』の源流です。途中でも名前の改変がありましたが、5代目ロマン・ユーリエヴィチが自らを元にロマノフ家へと改姓しました。

 

まるでシンデレラ、娘がロシア皇帝の妃に

イヴァン4世とオプリーチニキの首領スクラートフ (イヴァン4世とオプリーチニキの首領スクラートフア)

ときの皇帝ことツァーリは「イワン雷帝」の時代。ロシア領土を北は北極海、東は旧シベリア、南はカスピ海と飛躍的に拡大した凄腕の人物です。ロシア皇帝イワンの王妃を決めるにいたり、まるでシンデレラのごとく国内各地から貴族の娘が舞踏会へ招かれました。

イワン雷帝の愛妻 あナスターシャ (ツァーリナ・アナスタシアと新生児のツァレヴィッチ・イヴァン)

その中から妃として選ばれたのが、ロマン・ユーリエヴィチの娘アナスターシャです。かくしてロマノフ家は、一弱小貴族からいっきにロシア政治の中枢へはいっていくことになります。

 

仲睦まじく、夫婦には2人の跡取り息子がうまれた

イワン雷帝と愛妻 アナスターシア (愛妻 アナスターシャの肖像画)

怜悧なイワンと、賢明で美しいアナスターシャ2人は稀に見る相性のよさで、穏やかな家庭を築き、跡取り息子 (イワンと、フョードル) にも恵まれます

子供

しかし14年後のある日アナスターシャが急死し、穏やかな生活は途絶えました。権力争いを目論む貴族の陰謀が渦巻いていましたので毒殺」の可能性もありました。

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愛妻の死と、冷酷な雷帝の誕生

イワン雷帝と愛妻 アナスターシア (イワン雷帝の肖像画)

「妃」の座は有力貴族ならば誰もが望むところ……. 実母も同じように殺されていたイワンは、怒り狂いました。そして疑惑を向けられた重臣や関係者を、ろくに調べもしないまま尽く血祭りにあげたのでした。

斧

  • 粛清という恐怖の支配する世界
  • おびただしい数の亡命者
  • あらゆる理不尽と惨劇

は彼が「雷帝」と呼ばれた所以であり、後世ではスターリン時代とかなさるものがあるといわれます。

 

アナスターシャの忘れ形見 息子イワンの死

『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』(イリヤ・レーピン画)『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』(イリヤ・レーピン画)

タカがはずれたように恐怖の雷帝っぷりを発揮するイワン、気に入らないことがあると、王杖でそばにいるものを打ち付けたといいます。しかし運命は残酷な結末を用意していました。ある日息子のイワンの妃の服装に腹を立てた雷帝は、妃に杖をふるい、彼女の子供を流産させてしまったのです。

痛む女性

賢明で高い知性と教養を持ち合わせた息子イワンもさすがに怒り、父のいる部屋へ乗り込みます。そこで父は逆上、暴れまわり怒りが冷めたとき、彼の前には虫の息のイワンが倒れていたのでした。

『自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン4世』(ヴャチェスラフ・シュワルツ(英語版)画)『自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン4世』(ヴャチェスラフ・シュワルツ画)

 

安定させた王弟の危機を、皇帝自ら招く

Maria Nagaya (最後に妃となったマリヤ Maria Nagaya)

安定させたはずの王朝、有望な跡取り息子…. やっと手に入れたはずの世継ぎを自ら殺してしまったイワン雷帝は、53歳にして新たな男児を作るべく奔走します。正確にはアナスターシャの忘れ形見である男児、フョードルがいたのですが、心身ともに病弱で、跡を継がせるには心もとなく…..

ひよわ

重臣の娘マリヤと結婚して男児ドミトリーをもうけますしかし彼の身分は「庶子」とされ世継ぎとは認められず、まもなくして雷帝と呼ばれたイワンは、あっけなくこの世を去ったのでした。

 

雷帝没後、有力貴族のツァーリの座をめぐる戦い

王様と玉座

イワン雷帝が亡くなると、

  • アナスターシャの実家 ロマノフ家
  • 新ツァーリ フョードル妃の実家 ゴドゥノフ家

の争いがはじまり、結果として、後者のゴドゥノフ家が実権を握ることになりました。

ロマノフ王朝 家系図 (肖像画をもとに著者作成)

 

雷帝の次に実権を握った、フョードル (の妃の兄)

操り人形

争いに勝ったボリスは、新ツァーリとなったフョードルを操り人形として、

  • アナスターシャの甥を修道院へ追放するだけでなく、
  • イワン雷帝の庶子ドミトリーまでを追放

しました。依然としてイワン雷帝は民衆の間で高い人気があり、彼の実子が追放されたことに怒りの声をあげましたが、ボリスは責任転嫁をして難を逃れます。

ロマノフ王朝 家系図(肖像画をもとに著者作成)

フョードルが亡くなったあとはボリス自身がツァーリの座につき、7年間ロシアの頂点に君臨します。とここまでは順調にみえたのですが、深刻な飢饉や農民の暴動の頻発。結局ボリスは反乱分子に追い込まれ、ゴドゥノフ王朝を確実なものにできないまま病死したのでした。

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誰も座りたがらず、玉座は3年間も空位に

ドミトリーの「殺害現場」に建てられた、血の上のドミトリー皇子教会(ドミトリーの「殺害現場」に建てられた、血の上のドミトリー皇子教会)

偽ピョートルや、偽ドミトリーなど、「自称皇族」を名乗るものがあらわれ、混乱に乗じてポーランドも攻め込んでくる始末。ポーランド王がツァーリの地位を狙っていると知り、危機感を覚えた有力貴族達は、誰も玉座に近づけず、3年間もの期間、ツァーリの座は空位という危機的状況に陥ります。

 

ロマノフ王朝の始祖は、玉座に興味がなかった若き青年

ロマノフ王朝の始祖 幼い頃のミハイル(ロマノフ王朝の始祖 幼い頃のミハイル)

1612年解放軍がポーランド軍をモスクワから追い払うことができ、翌年ようやくツァーリ選定の全国会議がおこなわれました。候補者となったスウェーデン王子や、ポーランド王子、モスクワ解放に尽力したロシア軍人や貴族などを打ちやぶり、新ツァーリに選ばれたのは「ミハイル・ロマノフ」。イワン雷帝の最初の妃であり愛妻アナスターシャを大叔母にもつ16歳の青年でした。

 

ツァーリに興味を持たざる者の、皮肉な運命

ミハイル・ロマノフが王国に選出された瞬間の一つ。赤の広場のシーン。(ミハイル・ロマノフが王国に選出された瞬間の一つ。赤の広場のシーン)

戦乱も治りきらず、国土荒廃もきわまったこんな時期に「自分がツァーリになるなんてとんでもないと野心もないミハイルは、申し出を何度も断ったといいます。

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しかしヨーロッパのハプスブルク家がローマ皇帝の座についたのは、諸侯たちが「操りやすい」と思ったから、という理由と一緒で、彼はツァーリに祭り上げられたのでした。またミハイルはには英雄であるイワン雷帝の妃アナスターシャの血が流れているということもあり、「ミハイルこそがツァーリたる政党な後継者だと見なされたのです。

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臆病だからこそ作り出せた、安寧の日々

イパチェフ修道院のミハイル(1613年に16歳のマイケルがイパティエフ修道院で王冠を授与される図 )

1613年、17歳の誕生日前日に、ミハイルは (やむなく) 玉座につきました。しかし彼には臆病がゆえの賢明さがあり野心がないゆえ、ツァーリの権限を無理に拡大して反感をかうようなこともありませんでした。

ミハイルの父、総司教フィラート(ミハイルの父、総司教フィラート)

さらに戴冠から6年後にはボリスたちに追放された父フィラレートがロシアへ帰国元ツァーリのボリスと争ったほどの政治家フィラレート、モスクワ総司教として息子を力強くサポートしたのでした。

 

ロマノフ王朝の始祖、ミハイルの功績

ミハイル・フェドロビッチ、ボヤール・ドゥーマの会議で(アンドレイ・リアブシュキン、1893年)

ミハイルの治世は32年にわたり、農奴制や身分制が承認されて中央集権が強化され、ロマノフ王朝の基盤つくりあげました。

王様と玉座

彼に取っては決して望んで得た地位ではなかったし、国家再建に生涯を捧げたために苦労も多かったといいますが、暗殺されることも、国家が転覆することも、外国に支配されることもなく、色々な不安は杞憂に終わりました

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あとがきにかえて

アサンプション大聖堂での皇帝ミハイル・フェドロヴィッチ王国での結婚式(アサンプション大聖堂での皇帝ミハイル・フェドロヴィッチ王国での結婚式)

これらの治世と功績により国民はロマノフ王朝を受け入れ、ミハイル亡きあとも、その長男アレクセイが即位することに誰も異議をとなえなかったといいます。かくして様々な陰謀が渦巻くロシアに、「ロノマフ王朝」の楔が打ち込まれたのでした。王朝がこの後300年続くとはミハイル自身も想像していなかったことでしょう。それにしても「王位に執着したもの」は手に入れても悲惨な最期を迎え「望まぬ者」が国を安寧に導いたというのは不思議なものです。私利私欲に溺れないが故に冷静行方ができたのかもしれません。

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