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【英雄 ナポレオンは何をしたのか】わかりやすい世界史

2020/09/12
 
ナポレオンボナパルト
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

余の辞書に不可能という文字はないといった名言で知られるナポレオン。勇者や勝者の象徴としても用いられ、名前はきくけど実際に何をしたのかなぜ英雄と呼ばれるのかわからない、という人も多いのではないでしょうか。この記事では、国民の英雄ナポレオンについてわかりやすくご紹介していきます。

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ナポレオン・ボナパルトとは

ナポレオンのプロフィール

夜明けの皇帝 ナポレオン (ナポレオン・ボナパルトの肖像画)

  • 職業将軍のちフランス皇帝
  • 出身地:フランス コルシカ島のアジャクシオ
  • 誕生日:1769年8月15日
  • 逝去日:1821年5月5日 (享年51歳)
  • 逝去地:イギリス セントヘレナ島
  • よく知られていること優れた軍事指揮官、ヨーロッパの大部分を征服
  • 特技3時間しか寝ずとも、激務に耐えられる
  • 好きなものお風呂 (数時間入っていたといわれている)
  • ひとこと民衆からみたら自由をくれた解放者他国から見たら恐ろしい侵略者

 

幼少期から大人になるまで

ナポレオンボナパルト (幼少期) (ナポレオン 幼少期の肖像画)

ナポレオンは、1769年8月15日にコルシカ島 (海が綺麗な街)で生まれました。かなり裕福な家庭に育ち、ナポレオンは良い学校で、高等な教育を受けることができました。そんな彼は父の意向もうけ、パリの士官学校で軍の将校になるように訓練をうけるようになります。1785年に父が死ぬと、ナポレオンは家族の問題を処理するのを手伝うためにコルシカ島に戻りました。

コルシカ島 (コルシカ島 アジャクシオ城の灯台)

コルシカに滞在中ナポレオンはパスカル・パオリという地元の革命家と関わりを持ちます。しばらくの間、彼はパオリがフランスのコルシカ占領と戦うのを助けました。しかし、後に彼は立場を変え、フランスへ戻ります。

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ナポレオンが国民的な英雄になるまで

フランス革命が勃発、パリへ戻ったナポレオン

ナポレオン (ナポレオン 青年期の肖像画)

ナポレオンがコルシカに戻っている間、パリではフランス革命が勃発しました。民衆はフランス王に反乱を起こして、王族や多くの貴族が殺されました。当時のフランス王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットが処刑されたあの有名な革命ですね。そんなご時世にフランスへ戻ったナポレオンは、彼はジャコバン派と呼ばれる革命家グループと同盟をむすびました。

 

トューロンの戦いで、優れた軍事指導をみせる

トゥーロンでのフランス艦隊の破壊(画:トゥーロンでの戦い)

ナポレオンが優秀な司令塔として台頭したのは、1793年フランスの港町トューロンでの戦争。イギリス軍により占領されていた港湾を取り戻すためにたたかった、世に言うトゥーロンの戦い』ですね。フランス海軍の強さを維持するためにも、この港だけは絶対に取り戻さなければならない要所でありました。この戦いでナポレオンは砲兵司令官の地位につきイギリスを打ち破る戦略を考え出して見事に成功させたのです。この時の軍事指導力はフランス指導部にも認められ、24歳の若さで准将に昇進しました

 

類稀なる、軍事的カリスマ性

ナポレオンボナパルト (青年期) (ナポレオン・ボナパルトの肖像 画近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した)

1796年、ナポレオンはイタリアにて、フランス軍の指揮権を与えられます。しかし彼がイタリアに到着したとき、軍隊はうまく組織されておらず、むしろオーストリア軍に追い詰められているほどでした。しかしナポレオンは野心家で聡明な将軍でありました。彼は軍隊を戦場のあちこちに素早く移動させるために優れた組織を使用するなど奇抜な作戦を用いて勝利をおさめましたナポレオンはカリスマ的な軍事指導者として、フランス民衆にも知られるようになっていきました。

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カリスマ的指導者、独裁の道へ

第一統領として、新しい政府を発足

『第一統領ボナパルト』 (第一統領 ナポレオン・ボナパルト)

エジプトでの軍事遠征を指揮した後、ナポレオンは1799年にパリに戻りました。フランスの政治情勢は変化しており、ディレクトリ (総裁政府) と呼ばれた現存の政府もの力も弱くなっていました。そこでナポレオンは、弟リュシアンを含む同盟陣とともに統領政府と呼ばれる新しい政府をつくりました当初、政府の長には3人の領事がいましたがナポレオンは自らを初代領事 (第一統領) と称しました第一統領としての彼の権力は、本質的にフランスの独裁者を意味しました

ナポレオンの兄 リュシアン

ちなみにこちらの肖像画が、弟のリュシアン・ボナパルトです。彼は内務大臣に就任しましたが、兄とすぐに仲違いして辞めさせられてしまいました

 

ナポレオン法典をつくった

勉強

ナポレオンは事実上フランスの独裁者となり、多くの政府改革を行いました

改革のひとつはあの有名なナポレオン法典の施行です。この法の下では官職は出生や宗教ではなく彼らの資格と能力に基づいて任命されることになっていました。これはフランス政府の大きな変化でした。これ以前は王が好意と引き換えに貴族に高い地位を与えていたので、重要な地位に無能な人がついてしまうことも多かったのです。またブルジョワや、農民が期待していた「所有権の不可侵」を法的に確定させたのもポイントです。

ナポレオン (ナポレオン・ボナパルトの肖像画)

ナポレオンはまた新しい道路を建設したり事業を奨励したりして、フランス経済の改善に貢献しました。彼はカトリック教会を公式の宗教として再建しましたが、同時にカトリックではない人々に信仰の自由を認めました非宗教的な学校を設立、誰でも教育を受けることができるようにしたのです。

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ナポレオン、フランス皇帝になる

ナポレオンの戴冠式 ジャック=ルイ・ダビッド(1804) ナポレオンの戴冠式 画:ジャック=ルイ・ダビッド(1804)

ナポレオンの権力と統制は彼の改革とともに拡大し続けました。そしてついに1804年11月に開催された国民投票にて、ほぼ全一致でナポレオンは『フランス皇帝』に選出されました。戴冠式で、彼は異例にも教皇が彼の頭に王冠を置くことを許可せず、自分自身で戴冠をおこないました。彼の前に跪くのはナポレオンが死ぬまで愛したといわれるジョセフィーヌです。(ナポレオンが皇后に王冠をかぶせるのは、ただの演出。二人の奥にみえる教皇は、自分の役割を無下にしたナポレオンに怒っているようにもみえる)

 

ヨーロッパの支配と、フランス領土の拡大

地球というケーキを食べる英仏 (風刺画 地球というケーキを食べる英仏)

当初、ナポレオンはヨーロッパの平和を維持していましたがすぐにフランスはイギリスオーストリアロシアと戦争になります。トラファルガーの海戦でイギリスとの海戦に負けた後、ナポレオンの矛先はオーストリアへ。1805年のオーステルリッツの戦いでは、オーストリアとロシアの軍隊をしっかりと打ち負かし、ナポレオンは数年間でフランスの領土を拡大。1811年のフランス領土は最盛期で、スペインからロシアの国境までヨーロッパの多くを支配していました。(イギリスを除く)

トラファルガーの海戦

トラファルガーの海戦 (トラファルガーの海戦の図)

トラファルガーの海戦は、1805年10月にスペインのトラファルガー岬の沖で行なわれた海戦。ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利によりナポレオン1世の英国本土侵英の野望を打ち砕いたとされている。

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ナポレオン、栄華からの陥落

ロシア遠征での、大敗北

ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画 (ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画)

1812年ナポレオンは、ロシアにて屈辱的な大敗を経験します。ロシア侵攻を決意したナポレオンは60万もの大軍を率いてロシアに向かいましたが多くの兵士が極寒に耐えられず途中で餓死…..そして道中におかえるロシア軍との激戦の後、なんとか首都モスクワについたものに町はもぬけの殻。ロシア軍の完璧な作戦勝ちです。

 ロシアの火事 (モスクワの火事を見つめるナポレオン)

火事で市内の物資も燃やされ (焦土作戦)、補給品を得ることもできなかったナポレオン軍。ロシア軍の追撃をうけ、命からがらフランスへ帰りましたが軍隊の多くが厳しい寒さのもと命を失ったのでした。

 

各国がいっきに、ナポレオンへ反撃を開始

farewell napolepn

この大敗を見た各国は、一斉にナポレオンに反旗をひるがえしました。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成。の同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットがいるスウェーデンも7月に参加しました。(つまり裏切り… )

1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東にはオーストリア・プロイセン軍25万北西にはベルナドットウェーデン軍16万南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万の大軍これだけの軍がフランス国境を固め、大包囲網を作って攻め込んできたのです。

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ナポレオン退位に追い込まれる

退位後のナポレオン (フォンテンブローで退位した後のナポレオン)

いままで散々ヨーロッパに攻め込んできた、その結果各国がまとまった攻めてきたわけです。世にいう、『ライプツィヒの戦い (諸国民の戦い)』というやつですね。

諸国民の戦い 3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した (3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した)

ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられますこのままではフランスが危うい3月31日にはフランス帝国の首都 パリが陥落。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指そうと試みましたがそうもいかず….. ナポレオンは退位に追い込まれ、1814年にエルバ島に追放されました。

 

ナポレオンの百日天下とは何だったのか

セントヘレナのナポレオン (セントヘレナのナポレオン)

1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げました。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みますが、連合国にはことごとく背をむけられてしまい結局戦争へ。初戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗しナポレオンの復位百日天下は幕を閉じることとなります(実際は95日間…..)

ナポレオンは再び退位に追い込まれアメリカへの亡命も考えましたが港の封鎖により断念最終的にイギリスの軍艦に投降しました彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されました。

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まとめ

セントヘレナのナポレオン (セントヘレナでのナポレオン)

さて、ナポレオンは結局何をしたのか

軍にはいった彼は、カリスマ的指導者として脚光を浴び、

  • 奇抜な作戦を他国との戦争で決行、フランスを勝利に導く
  • 政権を立ち上げ自らを第一統領とし自由への革命をおこなう  
  • 民衆の大きな支持を経て、投票で『フランス皇帝』に選出される
  • しかしロシア遠征にて大敗、軍の殆どを失い
  • 他国がいまだと攻め込んできてフランスはピンチに…..
  • 退位に追い込まれる

して島流しにあった先で彼は、病気によりその生涯を閉じることになったのでした。他国からみれば侵略者、フランスの民衆からみれば解放者。

砲撃

力でいっきに他国へ侵略したけれど、弱ったところで皆が力をあわせて反撃にやってきた、なんともわかりやすい結果でありました。ちなみに民衆へ自由をみとめた『ナポレオン法典』は数々の修正を受けながらも、いま尚フランスで効力をもっています。

 

国民的英雄ナポレオン、あとがきにかえて

 ナポレオン・ボナパルト (サンベルナール越えのナポレオン)

ナポレオンは、情報操作においても優れていたことで有名です。ナポレオンは言論統制をおこなったり、ダヴィットを専属の公式画家として採用し作品を有効な宣伝の手段として利用しましたナポレオンの肖像画がやたらと良い男に描かれているのも、名言が多く残っているのもこのためだと言われています。

  • 不可能とは小心者の幻影であり、卑怯者の逃避所である
  • フランス人諸君、ピラミッドの頂点から4000年の時間が諸君を見つめていると思いたまえ

旧来の身分にとらわれず、実力主義で人材を登用したナポレオン。ちなみに愛妻ジョセフィーヌとの物語についてはこちら(【稀代の英雄ナポレオン】夢あり地獄ありのカリスマ君主)にまとめております。最後は退位せざるをえず、転落とも思えた晩年でしたが、彼が英雄として語り注がれるのは、何事にも目を背けず、転んでも島流しにあっても、運命に立ち向かい続け、玉砕した人物だったからかもしれません。

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この記事をかくために参考とさせていただいた文献

  • https://www.ducksters.com/biography/world_leaders/napoleon_bonaparte.php
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Napoleon
  • https://aulazen.com/historia/codigo-napoleonico-caracteristicas-e-importancia-resumo-completo/
  • 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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