【ナポレオンってどんな人?】何をした人物なのかをわかりやすく解説

フランスの歴史

「余の辞書に不可能という文字はない」といった名言で知られるナポレオン。勇者や勝者の象徴としても用いられ、名前はきくけど実際に何をしたのか、なぜ英雄と呼ばれるのかわからない、という人も多いのではないでしょうか。

最初にいってしまうなら、彼は、民衆からみたら自由をくれた解放者、他国から見たら恐ろしい侵略者でありました。この記事では、そんなナポレオンについてわかりやすくご紹介していきます。

この記事のポイント
  • 奇抜な作戦をもち、カリスマ的指導者として脚光を浴びたナポレオン
  • 民衆の大きな支持を経て、フランス皇帝となり領土を一気に拡大した
  • しかしロシア遠征にて大敗を喫し、他国に攻め込まれ退位に追い込まれた
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ナポレオンとは

ナポレオンは1769年、フランスの田舎、コルシカ島で生まれました。比較的裕福な家庭に生まれた彼は高等な教育を受け、のちに、パリの士官学校で軍の将校になるように訓練を受けるようになります。

フランス革命が勃発したのは、ナポレオンが20歳の時でありました。ナポレオンが優秀な司令塔として台頭したのは、1793年フランスの港町トューロンでの戦争です。この時の軍事指導力はフランス指導部にも認められ、24歳の若さで准将に昇進することになりました。

カリスマ的指導者から皇帝へ

ナポレオンボナパルト (青年期) (ナポレオン・ボナパルトの肖像 画近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した)

やがて奇抜な作戦を用いて勝利を重ねるナポレオンは、カリスマ的な軍事指導者として、フランス民衆にも知られるようになっていったのです。そしてついには、1804年の国民投票にて、ほぼ全一致でナポレオンは『フランス皇帝』に選出されるまでになりました。

ナポレオンは数年間でフランスの領土を拡大しました。どのくらいすごいのかというと、1811年のフランス領土は最盛期で、スペインからロシアの国境までヨーロッパの多くを支配していたのです。(イギリスを除く)

絶頂からの大敗

ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画 (ナポレオンのロシアからの撤退 画:アドルフ・ノーセン)

しかしことはそううまく運ばず、1812年ナポレオンは、ロシアにて屈辱的な大敗を喫することになりました。この大敗を見た各国は、一斉にナポレオンに反旗をひるがえすことになったのです。

1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化、いままで散々ヨーロッパに攻め込んできた、その結果各国がまとまって攻めてきたわけです。

ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく、絶望的な戦いを強いられました。3月31日には、パリが陥落。ナポレオンは退位に追い込まれ、1814年にエルバ島に追放されました。

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ナポレオンの最後

1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げますが、これはわずか100日ほどで終わり、南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されました。そしてそこが、ナポレオンの最後の場所となりました。

享年51歳、死因は「胃癌」と発表されていますが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されています。というのも、交互に襲う睡魔と不眠、脚のむくみや体毛の欠落、肥満など、晩年のナポレオンをおそった症状は、慢性のヒ素中毒の症状とそっくりだったのです。

暗殺説についてはこちらの記事 (【ナポレオンの死因】不可解な死と暗殺説、あまりにも無念な最後に何があったのか)にまとめておりますが、事実、解剖の時に2人の医師が、遺体の肝臓が異常に肥大していることを確認しています。

血筋からみる失脚

その後時代は「ブルボン王朝」へと戻り、ルイ16世の兄弟が「国王」へと返り咲きました。ナポレオンが「国王」ではなく「皇帝」になったのは何故だと思いますか。

「血縁・血族」という由来をもつ「国王」には、ナポレオンはなれませんでした。

18世紀末、ナポレオンが台頭してくる前、フランス革命で民衆は「国王ルイ16世」と「王妃マリー・アントワネット」を殺しました。国王を失ったフランスは秩序を失い、ならず者たちが成り上がり国を血の海へと変えるに至ったのです。

正当な血筋の脅威

このならず者たちの大将となったのがナポレオンです。

ナポレオンは武運に長けていても、血統の正統性がなかったのです。ナポレオンのような田舎者が「皇帝」になれるものならば、自分もなれると思う者は後を立ちませんでした

物理的な退位の原因は「大敗」とされていますが、結局のところ、正当な血筋を持った者を上へとたてる「保守派」が巻き返したのも、自然の流れだったのかもしれません。

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まとめ

セントヘレナのナポレオン (セントヘレナでのナポレオン)

さて、ナポレオンは結局何をしたのか

軍にはいった彼は、カリスマ的指導者として脚光を浴び、

  • 奇抜な作戦を他国との戦争で決行、フランスを勝利に導く
  • 政権を立ち上げ自らを第一統領とし自由への革命をおこなう  
  • 民衆の大きな支持を経て、投票で『フランス皇帝』に選出される
  • しかしロシア遠征にて大敗、軍の殆どを失い
  • 他国がいまだと攻め込んできてフランスはピンチに…..
  • 退位に追い込まれる

して島流しにあった先で彼は、病気によりその生涯を閉じることになったのでした。他国からみれば侵略者、フランスの民衆からみれば解放者。

砲撃

力でいっきに他国へ侵略したけれど、弱ったところで皆が力をあわせて反撃にやってきた、なんともわかりやすい結果でありました。ちなみに民衆へ自由をみとめた『ナポレオン法典』は数々の修正を受けながらも、いま尚フランスで効力をもっているのでした。

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