【ラスプーチンの死因】不死身といわれた怪僧はどうやって殺されたのか

ロシアの歴史

ロマノフ王朝の行く末を心配したユスポフ公によって、暗殺の舞台へとあげられたグリゴリー・ラスプーチン。そのユスポフ公の回録には、死に至るまでの生々しいやり取りが記載されていました。

青酸カリ入りの食事をたやすく平げ、胸に銃弾を受けても尚死なず、死因は凍ったネヴァ川に投げ入れられたことによる「低体温症」だったとされています。この記事では、不死身と揶揄されるラスプーチンがどうやって殺されたのかその生々しい記録をご紹介します。(※ この記事はユスポフ公による回想を元にしたもので、死因については諸説あります)

ラスプーチンの台頭

1869年、シベリアの農家で生まれたグリゴリー・ラスプーチン。とくに目立たない存在であり、早くから宗教にはあまり傾倒していたわけではありませんでした。

しかし、23歳で修道院を訪れた後に覚醒します。彼は決して聖令を受けたわけではありませんでしたが、「神秘的な宗教家」として頭角を現していきました。ロシア正教の司祭というよりも、旧約聖書の預言者に近い存在だったといいます。

汚れた僧侶の法衣をまとい、衛生に無頓着だったラスプーチン。サンクトペテルブルクの上流階級に招待されるようにはみえなかったのですが、当時のロシア帝国の首都では特異な存在でありました。不思議な力 (催眠術にかかっていると言う人もいれば、何か暗く邪悪な魔法を使っていると考える人もいる) を使って、ラスプーチンは社会的地位を急速に上昇させていきました

ラスプーチンは上流階級で皇帝に繋がりのある人物を魅了した後、これらのコネを利用してニコライ皇帝一家の元へ取り入りました。これはやがてロマノフ王朝の滅亡へと繋がる「おわりのはじまり」でもありました。

皇后の弱みに取り入って

ラスプーチンがなぜロマノフ家に取り入れたのか、それは皇太子が抱えていた「恐ろしい病」のためでありました。ただひとりの皇太子アレクセイは「血友病」という重い病気を患っていたのです。

血友病は、当時治療法がない大病でありました。今日に至るまで、ラスプーチンがアレクセイを治療するために何をしたかは誰もわかっていません。民間療法であれ、催眠術であれ、何らかのプラシーボ効果であれ、確かにラスプーチンのそれには効果があるように見えていました。アレクセイの病状は治りませんでしたが、ラスプーチンだけが、少年の症状を緩和することができたのです。

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政治への介入

やがてラスプーチンは、ロマノフ王朝にとって欠かせない存在となっていきました。それを知っていたラスプーチンは自分の立場を利用して、ロマノフ王朝を支配しようと考えたのです。

当時の皇帝であるニコライ2世と、皇后アレクサンドラは心を奪われていましたが、国民や近臣はそうではありませんでした。あらゆる災難を、ラスプーチンの策謀だと非難したのです。実際ラスプーチンは国政の良し悪しを知らず、ロマノフ家に与えた助言はまるで宗教的な指示であるかのように忠実に守られたが、それは大抵大失敗に終わっていました。

ラスプーチンの暗殺計画

ほどなくして、「ラスプーチンは皇后の恋人であり、何らかの闇の魔術でロマノフ家を操っている」という噂がマスコミへ流れました。やがて、皇帝の義理の甥であるフェリックス・ユスポフ公は、「ラスプーチンの死」のみがロマノフ朝の混乱を終わらせ、彼の行動によって急速に崩壊しつつあったロシア君主制の正当性を回復するという結論に達しました

ユスポフ公は、ニコライ2世の従兄弟であるディミトリ・パヴロヴィチ大公、ロシアの(無力な)立法機関であったドゥーマの副長官であるウラジーミル・プリシュケヴィチら他の著名な君主主義者と共謀し、ラスプーチンを殺害してロシアの君主制を崩壊から救おうとしました

暗殺への招待

ユスポフ公は、事件から何年も経った後に書かれた回想録の中で、サンクトペテルブルクにある屋敷で暗殺を計画するも失敗しかけたことを、目を見張るような体験談で伝えています。

ユスポフ公は、屋敷でパンやワインをふるまうとして、ラスプーチンを自宅へ招待しました。事が行われる予定だったのは、防音されていた地下室。

地下室での食事を正当化するために、ユスポフ公の共謀者たちは、彼の妻が上階で小さなパーティーを主催していることをラスプーチンに納得させるために、メインフロアの閉ざされた部屋でレコードを流していたといいます。

この策略が功を奏し、ラスプーチンはユスポフ公につれられて、家具付きの地下室に下り、飲食しながら政治について語り合ったといいます。

ユスポフ公はラスプーチンにペストリーを差し出し、すぐにラスプーチンは青酸カリを混ぜたケーキをがつがつ食べ始めました。これはラスプーチンの好物であることを知り、食する可能性がもっとも高いとしてユスポフ公が用意させたものでした。

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青酸カリを食べても

不死身伝説がまかり通っていたラスプーチン、青酸カリを食べても様子は変わりませんでした。「通常は即死する青酸カリが効かないのではないか」と心配したユスポフ公は、ラスプーチンにマデイラをグラスで飲もうと誘い、同じく青酸カリを混ぜたグラスの1つにワインを注ぎました。

ラスプーチンは最初グラスを断りますが、ワインへの貪欲さに負け、すぐに毒入りグラスからワインを数杯飲んだといいます。ユスポフ公の共謀者の一人であった医師は、全員が1人だけでなく数人の男性を殺害するのに十分な強さを確保するために、「シアン化物」を1回分ずつ非常に慎重に準備していました。

死なない男

数十人の男性を殺すのに十分な量の青酸カリを摂取しても、ラスプーチンは一向に死ぬ気配がなく、ユスポフ公はパニックに陥り始めました。しかし次第にラスプーチンがワインを飲み込むのに苦労する様子をみせると、ユスポフ公は気遣いを装ってラスプーチンに、

気分が悪いのではないか?

と尋ねました。対して、ラスプーチンは、

はい、頭が重くて胃が焼けるような感じがします

と答えました。ユスポフ公はワインが良い薬になるだろう、ともっと飲むよう勧めたといいます。

階上の騒音を口実にユスポフ公は地下室を出て、ラスプーチンが毒物の影響を真っ向に受けなかったことにショックを受けた共謀者たちと協議しました。そして、彼らはラスプーチンを圧倒して絞め殺しにするために集団で降りることを提案しましたが、ユスポフ公は一人で戻り、代わりにラスプーチンをリボルバーで撃つことにしました。

戻ってきたユスポフ公は、椅子にもたれかかって呼吸が苦しくなっているラスプーチンを発見しましたしかし、すぐにラスプーチンは回復し、元気になったのです。

毒が効かない

ユスポフ公は「この男には毒が効かないのではないか」と恐れ、立ち上がって部屋を歩き回り、ラスプーチンを撃つために神経を働かせましたラスプーチンも立ち上がり、しかしそれは苦しんでいるからではなく、ユスポフ公が地下室に持ち込んだ調度品に感心しているようでした。

ユスポフ公が壁の水晶の十字架を見つめているのを見て、ラスプーチンは十字架についてコメントし、それから部屋の反対側にある華麗なキャビネットを見るために背を向けました。

ユスポフ公はラスプーチンに 「十字架を見て祈りを捧げる方がはるかに良いだろう」 と言いました。これを受けてラスプーチンはユスポフ公に向き直り、緊張した沈黙を何度か繰り返したといいます。

銃弾を胸に受けて

「ラスプーチンは私に近づき、私の顔をじっと見ました」 とユスポフ公は回想しました

まるで彼が私の目に何かを読み取ったかのようだった。

それは彼が予期していなかったものだった。

時が来たことに気づいた。

主よ、私は祈りました。

「すべてを終わらせる力をください」と。

ユスポフ公は拳銃を取り出して一発発射、それはラスプーチンの胸に命中しました。ラスプーチンは大声を上げて床に倒れ込み、増え続ける血の海に横たわり、動かなくなりました。

共謀者たちは銃声に驚いて階下に駆け込みました。共謀者のひとりだった医師はラスプーチンの脈を確認しますが脈は確認されず、ラスプーチンの心臓が止まったことを確認しました

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共謀者たちはすぐにアリバイの確立に取り掛かり、2つのグループに分かれ、ユスポフ公はドゥーマ代理のプリシケビッチと共にモイカに滞在しました。しかし、やがてユスポフ公は不安を感じるようになりました。彼は言い訳をして、ラスプーチンの遺体を確認するために地下室に戻りました

彼らが置いていった場所には動かずに置かれていたが、ユスポフ公は確認したかったのです。彼はラスプーチンの体を揺さぶりましたが、そのときは生きている兆候は見られませんでした。

生き返った怪僧

しかし間も無くして、ラスプーチンのまぶたが引きつってくるのを感じました。「それから彼の両目を見た」 とユスポフ公は書いています。「彼は毒蛇の緑の目、悪魔のような憎しみの表情で私を見つめていた」 と。

ラスプーチンはユスポフ公に突進し、動物のように唸りながらユスポフ公の首に指を突っ込みました。ユスポフ公はラスプーチンと戦い、何とか食らい付いてくる彼を引き剥がすことに成功します。ユスポフ公は1階へ階段を駆け上がり、先に拳銃を渡したプリシュケヴィチに向かって「急げ急げ!奴はまだ生きている!」と叫びました。

逃げ出すラスプーチン

1階の踊り場に到着すると、拳銃を手にしたプリシケビッチが合流しました。階段を見下ろすと、ラスプーチンが四つん這いになって階段を登り、中庭に出る通用口に向かっていました。

「毒で死にかけていたこの悪魔は心臓に銃弾を受けていたが、悪の力によって死者の中から蘇ったに違いない」とユスポフ公は記しています。「彼が死ぬことを拒否したことには、何かぞっとするような恐ろしいものがありました」 と。

ラスプーチンはドアを押し開き、中庭に飛び出しました。暗殺はそもそも皇帝と皇后には内緒で行われていました。ラスプーチンが逃げ出して、起こった事ことのすべてを皇后に訴えたらどうなるかと恐れた2人は、必死で追いかけました。

息絶えるまで

最初に外に出たのはプリシケビッチで、彼はすぐに逃げるラスプーチンに2発発砲しました。外したものの、その後、プリシュケヴィチは負傷したラスプーチンを追い詰めると、すぐ近くからさらに2回発砲しました。

そのうちの1発がラスプーチンの頭に当たり、彼は地面に倒れました。

ユスポフ公は2人の忠実な使用人にラスプーチンの遺体を重い絨毯で包ませ、重い鎖で縛りました。その後、生き返るのではないかという不安を断つため、共謀者たちは遺体をネヴァ川にかかる橋に運び、下の凍っていない水域に捨てたのです。長い1日が終わった後、ラスプーチンは凍るような水の中で低体温症で亡くなりました。

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まとめ

低体温症で亡くなったとされるラスプーチン。12月19日早朝、橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体とコートが発見されました。手足を縛っていたはずのロープは解けてしまったのか、両腕は死後硬直で伸び切っていたといいます。同日夕方に行われた検死の結果では、「因は頭部を狙撃によるもの」と結論づけられたとも言われていますが、この報告書は消失したため検証が不可能だといわれています。

不都合な事実はすべて闇に葬りさられるのが常です。事件がおこったのは帝国末期であり、犯人がツァーリの親戚だとわかっては君主制が揺らぎかねないとした政府高官が事件を揉み消しに走ったのかもしれません。

引き揚げられたラスプーチンの遺体は、右目が殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けていたといわれています。時代は革命へと傾倒していき、間も無くして王朝は崩壊、ニコライ皇帝一家は無惨にも惨殺されてしまいました。今となっては真実を知る術はなく、ラスプーチンの不死身伝説と本当の死因は分からず仕舞いで、怪しい逸話だけが一人歩きしているのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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