【シャルル=アンリ・サンソン】ギロチンで何千人も処刑した王室死刑執行人

フランスの歴史

死刑執行方法が、剣からギロチンに変わった18世紀のフランス。ギロチンの誕生により、多くの死刑が簡単に行われるようになりました。王室死刑執行人であったシャルル=アンリ・サンソンは、その血まみれの生涯で約3000人を殺害したといわれています。この記事では、そんな奇妙な役割を全うすることになったサンソンについてみていきたいとおもいます。

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サンソンとは

(Charles-Henri Sanson)

サンソンは、フランス革命期の死刑執行人でした。

1739年2月15日にパリで誕生したシャルル=アンリ・サンソン。サンソン家は3世代にわたってフランス王室の死刑執行人を務めている家系でありました。当時、キャリアを選択できるような時代ではなく、相続されるのが常でした。それ故、サンソンもこの役目を引き継ぐことになったのです。

1754年、サンソンが10代のうちに父親のシャルルは病気を患い、半身不随となって生涯を終えます。若きサンソンに仕事が渡るのは残忍なことでありましたが、1778年に父親が亡くなると「死刑執行人」としての仕事を正式に引き受けていくことになります。

階級による処刑方法の違い

数世紀の間、フランスの司法制度は、独自の階級制度を持っていました。

重い罪を犯した貴族は、斧よりもきれいで苦痛が少ないとして、通常は剣で首を落とされました。一般庶民は絞首刑に処されるのですが、その過程には予想以上に多くの計算が必要でした。人間の首を効果的に切断するための正しいロープの長さを見つけるには、かなり複雑な計算が必要なのです。

一方、無法者や他の山賊、社会政治的秩序に反する非常に重大な犯罪を犯した者たちは、「慈悲の一撃」に処されました。胸を強打して殺されるか、あるいは鳥に生きたまま食べられて死ぬかのどちらかになる前に、外輪の車輪の上に手足を伸ばし、大きなハンマーで手足を打ち砕かれました。

(The breaking wheel)

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ムッシュ・ド・パリの立場

シャルル=アンリ・サンソンが公式に名乗っていたように、高技術をもった執行人になるためには、あらゆる技術的側面に加えて、その演劇的な要素について精通していることも必要した。

「ムッシュ・ド・パリ (フランスの死刑執行人の頭領を表す称号)」は公の場に出る際、他の男性とは別であることを示す赤いマントを羽織っていなければなりませんでした。死刑が執行された後、病気になった人々が死刑執行人の手に触れ、その治癒力を追い求めて名乗り出ることは珍しくなかったといわれています 。まだ血がついているなら尚更でした。

その地位は「威厳のある」 側面を持っていたにもかかわらず、一般市民は死刑執行人を尊敬する以上に恐れていました。零細貴族だったサンソン家は、地元の市場で商品の10分の1を手に入れる権利がありましたが、汚染が広がらないようにこの 「税金」 を手で受け取ることはできませんでした。教会では、彼らは「自分の座席」を与えられ、死刑執行人が通り過ぎると唾を吐く人も珍しくありませんでした。 (とはいえ、嫌悪感というよりは迷信によるものかもしれない) 。

彼ら処刑人は、社会秩序を維持する上でとても大事な役割を担っていましたが、サンソン家はある意味では別世界の貧者でありました。

革命の噂とギロチンの到来

革命の嵐が吹き荒れたフランス。

サンソン家は暴徒の怒りから逃れますが、彼らが支持する体制はそうではありませんでした。フランス革命の初期段階にあって、「憲法制定議会」と呼ばれる議会では既に国の統治体制の変更が議論されており、公開処刑の状況と死刑執行人についても議論がされました。

1789年、死刑執行人に与えられた特権と偏見を非合法化した後、政府はすべての人々の唯一の処刑手段である「斬首」を提案し、社会階級の平等に関する啓蒙思想を論理的な結論に導きました。しかし、このアイデアは (少なくとも比較的) 慈悲深いものではありましたが、その実装には、シャルル=アンリ・サンソンにしか見えないような問題がありました。

サンソンは経験から、たとえ刀であっても、きれいな斬首は容易なことではないことを知っていたのです。恥ずべきことに、彼はかつて、父親のかつての友人で非難されていたラリー伯爵を、一撃で首を切断することに失敗し、意図せず苦しめることになった過去がありました。全国の死刑執行人が一貫して刑を執行できるか疑問に思ったサンソンは、ジョゼフ=イグナス・ギロタン博士が提案した斬首刑マシンの初期の支持者となったのです。彼はそのテストと開発にも尽力しました。

(The guillotine)

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出来上がった処刑マシン

何ヶ月もの間、サンソン、ギヨタン、そして王立外科医のアントン・ルイス博士は、この処刑マシンの設計と機構に苦心しました。サンソンの友人であり音楽の協力者でもあるドイツのトビアス・シュミットがこの機械の本体を完成させ、最終版を組み立てたとされています。

機械に興味があり、自分で錠前を作るのが好きだったルイ16世は、このマシンを承認しましたが、重量をよりよく分散させるために、刃の形状を平らな包丁のデザインから傾斜した刃に変更することを推奨しました。最後に、干し草の俵や豚、羊、人間の死体を使った練習を経て、処刑マシン「ギロチン」が完成したのでした。

1792 年 4 月 25 日、ギロチンは最初の犠牲者を出しました。ニコラ・ジャック・ペルティエは追いはぎで、奇妙な新しい装置に恐怖を感じたと伝えられています。

ギロチンの使用

公平に言えば、ギロチンには嫌な点がありました。

革命指導者ジャン・ポール・マラトを殺害した暗殺者シャルロッテ・コルディの処刑後、サンソンの助手の一人に平手打ちされた際、切断された彼女の頭の表情が変わったことが注目されたたのです。ギロチンはあまりにも早く首を切断することが出来るため、頭が落ちた後、数秒間は生きたままで、意識がある可能性もあるというのです。

サンソンにも、個人的な事情がありました。君主制が崩壊した直後の1792年8月27日、息子のガブリエルは首級を掲げて足場から転落死。数週間後、罪悪感に悩まされ、最近の9月の1,000人以上の囚人の虐殺に動揺したサンソンは、「これが反革命の王党派勢力を助けることになるかもしれない」と恐れ、新しい当局に辞任を申し出たのですが、断られてしまいます。そして翌年1月、ルイ16世の処刑によって、サンソンもギロチンも、歴史に名が刻まれることになるのでした。

ルイ16世の処刑

シャルル=アンリ・サンソンは、読書や庭いじり、ヴァイオリンの演奏にほとんど時間を割いていたため、男性の中で最も政治的な人物ではありませでしたが、心は「王党派」であると考えていました。ルイ16世は、サンソン家に公式に地位を与えた君主であったのです。

サンソンはいわば、闇の部分を請け負う「国王の正義」でありました。王権の後ろ盾がなければ、彼は単なる「殺人犯」と見られていたのかもしれません。サンソンの孫の回想録によると、1793年1月21日にルイ16世の処刑が予定されていた前夜、サンソン家に、国王を救う陰謀が企てられていると脅迫のメッセージが届いたといいます。しかし、計画が本物かどうかにかかわらず、救助隊は現れませんでした。

断頭台では、国王の罪状が読み上げられました。ルイ16世は「あなたの王はあなたがたのために死んでもよい。あなたがたの幸福が私の血で固められますように」 と最後の言葉を捧げ、サンソンはギロチンの刃を落としたのでした。群衆の中、自由になったばかりのフランス市民が王の血で体を洗い、ハンカチに血を集めるために押し寄せたといいます。

血生臭くなった広場

(The execution of Marie-Antoinette)

恐怖政治を執行したロベスピエールの新革命政権下では、国内の 「人民の敵」 に対する偏執症が司法制度の合理化につながり、1793年と1794年には処刑が増え続けていきました。

これは、サンソンが人生でかつてないほど多忙であったことを意味しました。フランス王妃マリー・アントワネットの処刑後、1日あたりの死刑執行数は3、4件〜10件に増え、1日に60件を超えることもあったそうです。コンコルド広場は血の悪臭がひどく、家畜すら渡るのを拒んだほどでした。

テロの悲惨な現実が日常生活の一面となったのと同時に、悪名高かったサンソンの立場も変わっていきました。以前はいつも人々が彼の後を立ち止まり、見つめ、ささやきましたが、愛情を込めて「シャーロット!」と迎えられるようになったのです。(小さなチャールズの意)彼に「人民の復讐者」という正式な称号を与えるという話も出て、彼の服装スタイル(緑色のスーツ)はファッショナブルとして革命家の間でトレンドとなりました。

息子へと引き継ぎ

40年近く (サンソンの死刑執行人としては最長の在職期間) を経て、サンソンの経験が彼にとって重荷になってきたころ、彼は悩みを日記にしるし始めました。やがて彼は、発熱にくる住むようになり、夕食時にテーブルクロスに血の斑点が見えるようになりました。

その直後、彼は 「振戦せん妄」 に襲われて倒れ、回復することのない 「暗い気分」 に陥ることになります。彼の息子は怪しげな容疑で逮捕される前に職務を引き継ぎました。処刑を繰り返していたロベスピエールにも最後の時が訪れます。「殺し過ぎである」と非難され、逮捕され、拳銃で自殺を図りますが失敗して顎を骨折し、自分を弁護することもできなくなりました。

サンソンは回復し、7月28日にロベスピエールが処刑された後、息子が跡を継ぐことができるだけの時間だけその地位にあり続けました。

サンソンの最後

サンソンの引退についてはあまり知られていません。彼は田舎に落ち着いて父親と同じ家に住み、庭の手入れをしたり、孫のアンリ=クレマンをパリ郊外で育てる手伝いをしたりして、かつての自分の地位から離れようとしました。

サンソンは勤続20年以上になるまで正式にはその称号を継承しなかったため、侮辱的な扱いで、年金を与えられることもありませんでした。1806年、3,000人近くを自ら殺した経験から、若くして亡くなったとも言われています。

しかし、ひとつだけ伝えられている逸話があります。ナポレオン1世の治世の初期、皇帝はサンソンとコンコルド広場の近くで偶然出会ったというのです。ナポレオンはサンソンを知っていたので、いざとなれば自分にも同じことをするかと尋ねました。サンソンは肯定的な回答をした、といわれていいますが、真偽のほどは定かではありません。

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まとめ

父親もギロチンの執行人であり、自身もその道を選ぶことになったシャルル=アンリ・サンソン。彼は数千人もの処刑を行い、その中にはルイ16世やマリー・アントワネットといったフランス王室のメンバーも含まれています。彼は冷酷な執行人としての評判を得たが、同時に彼の仕事は政治的な圧力や暴動の犠牲者としても悪用されました。

フランス革命の終焉後、サンソンは孤独な晩年を送り、1795年には自身も暴徒に襲われる事件がありました。彼は後に病死し、多くの人々に恐れられた一方で、彼自身も過酷な状況の中で生きた人物として歴史に名を刻んでいます。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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