【絵画でみるフランス革命】ツケを払うことになった国王一家の末路

フランスの歴史

自由のために民衆が立ち上がったのが『フランス革命』。しかしその実態は、貴族は憎しみの的になり、正義の名のもとに大虐殺が起きたりと混沌な時代であり、しばらくは喪服の人が絶えないほどに不幸が重なった時代でもありました。この記事では、ランス革命の前後に描かれた絵画を用いて、当時の国王一家の末路を追っていきます。

この記事のポイント
  • フランスの国庫は、ルイ15世の時代にすでに赤字となっていた
  • ルイ16世が若くして国王となったとき、すでにフランスの財政はガタガタだった
  • 結果16世夫妻は処刑され、王女マリー・テレーズだけが生き残った
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王室を傾けたルイ15世

louis15 (lois15)

ルイ15世の肖像画は、ヴェルサイユにて保管されている中でも、最も美しい肖像画の一つといわれています。1715年に即位し、「最愛王 」と呼ばれた若きルイ15世は1722年、父ルイ14世が亡くなって以来放置されていたヴェルサイユ宮殿に政府と王室機能を戻しました。1725年にポーランド王の娘マリー・レクザンスカと結婚し、王位継承者をもうけます。

科学と植物学に情熱を捧げる国王は宮殿の庭園をより充実させ、愛するポンパドゥール夫人のために小トリアノンを注文したのでした。王の散財による財政圧迫は王室に深刻な影響をもたらし、そのツケがフランス革命となってまわってくるのは息子ルイ16世の治世でのことでした。

陽のあたらぬ王妃

 (Marie Leszczyńska)

ルイ15世に嫁いだのは、フランスおよびナバラ王妃であったマリー・レクザンスカです。この絵画では「ル・サンシー」と呼ばれるダイヤモンドを身につけた姿で描かれています。失脚したポーランド王の娘であるマリーは、1725年にルイ15世と結婚しました。

しかし王は愛妾に夢中であり、王妃に光があたることは滅多にありませんでした。公務から遠ざかり宮廷で重んじられることも少なかった王妃は、貧しい少女たちの教育を行うためにヴェルサイユの街に設立した修道院に専念します。自身の息子である王太子の道徳的かつ宗教的教育に気を配りますが、王太子は1765年に彼女より3年早く他界したのでした。

悲劇のルイ16世

 (louis16)

ルイ16世は優柔不断といわれますが、家族思いの優しい男性だったともいいます。 革命派の指導者でもあったロベス・ピエールも「彼は悪人ではない王に生まれていなければ平和な人生を歩めたであろう」といったほどでありました。

そもそも、ルイ16世が若くして国王となった時、すでにフランスの財政はガタガタでした。それに妃アントワネットが拍車をかけたのは事実ですが、ルイ16世は有能な者を大蔵大臣として、立て直しを図りましたが聖職者や貴族の猛反対にあい実現はしませんでした他の人物が玉座についていたら、果たして革命は止められたのか…ルイ16世は「絶対君主は時代遅れ」だということも感じており、体制崩壊は時間の問題であったといいます。

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拍車をかけた妃

(marie antoinette)

赤字夫人と呼ばれたマリー・アントワネットですが、自由奔放だったのは14歳で嫁いで20歳になり子供ができるまでだったといわれています。子供が出来てからはプチ・トリアノン宮殿で比較的おとなしい生活を送っており、服装も落ち着いたものになっていきました。

マリー・アントワネットに向けられた悪質な噂、友人をひいきして大臣へとりたてた、衣装代で国を潰すなど、根も葉も無い噂も多かったといいます。ルイ16世は愛人をもたなかったため不満の矛先がすべてフランス王妃であったマリー・アントワネットに向けられたからかもしれません。

  • 7年間なりをひそめていた反オーストア派と、
  • 反ルイ16世派 (玉座をねら弟や従兄弟)
  • 反アントワネット (彼女に疎んじられた貴族たち)

に宮廷街の反王政派もいっしょになり、王と王妃に襲い掛かったのは間も無くしてのことでした。

処刑台へ

 (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

宮廷の外では貧困が深刻化していました。農民や労働者の食事の困窮はさらに酷くなり、国はフランス革命へと傾向していきます。ルイ16世がギロチンにかけられるとマリー・アントワネットへも死刑宣告がくだり、1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。

ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りに突き動かされた市民から罵倒が飛び交いました。残されたのは、アントワネットの娘マリー・テレーズただ一人でありました叔母とも弟とも引き離され、家族が亡くなったことを彼女は独房で聞くことになります。

 (悲観にくれる王妃と、子供たちをかばう叔母エリザベート marie antoinette))

生き残った王女

 (marie therese)

フランス革命の最中、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家と最後まで運命をともにしたのがマダム・エリザベートです。自分にも処刑の日が迫ってきていることを知ると、彼女は姪マリー・テレーズに対して「掃除をする、部屋の中を歩いて運動する、読書をするなどしてぼーっとしないこと」など生き抜くための知恵を授けました。

あまりのストレスからか、解放されたときは失語症のような状態に陥っていたといいますが、娘マリー・テレーズは唯一生き延びた王女でありました。

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まとめ

代々の国王らの散財により、すでに赤字となっていたフランスの国庫。ルイ16世が若くして国王となった時、すでにフランスの財政はガタガタだったといいます。結果としてルイ16世夫妻は処刑され、王女マリー・テレーズだけが生き残ったのでした。

フランス革命というと、やはり印象に残るのは当時の国王16世と、その妃マリー・アントワネットの処刑でしょう。しかし原因は彼らにだけあったのではなく、前王らより持ち越された負債も起因していたのでした。贅沢こそが正義だとされた宮殿生活ですうが、長く存続を願えばこそ、引き締めなければならない部分もあるのかもしれません。生き残った王女については、こちらの記事【マリーテレーズ】フランス革命を生き延びた王女にまとめております。

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