Wise man learns from History.

【絵画でみるフランス革命】ねこでもわかる世界史

 
フランス革命
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

自由のために民衆が立ち上がったのが『フランス革命』。しかしその実態は、貴族は憎しみの的になり、正義の名のもとに大虐殺が起きたりと混沌な時代であり、しばらくは喪服の人が絶えないほどに不幸が重なった時代でもありました。

フランス革命

この記事では、ランス革命の前後に描かれた絵画をもとに、関わっていた人物をわかりやすくご紹介していきます。

スポンサーリンク

贅沢の限りを尽くし、フランス王室を傾けたルイ15世

ルイ15世(フランス革命前後の絵画)

ルイ15世の肖像画は、ヴェルサイユにて保管されている中で、最も美しい肖像画のひとつといわれています。1715年に即位し、「最愛王 (もっとも愛されたがった王)」と呼ばれた若きルイ15世は1722年、父ルイ14世が亡くなって以来放置されていたヴェルサイユ宮殿に政府と王室機能を戻しました。1725年にポーランド王の娘マリー・レクザンスカと結婚し、王位継承者をもうけます。

Boucher_Marquise_de_Pompadour_1756(引用元:【肖像画でみるポンパドゥール夫人】最高に美しい影の実力者)

科学と植物学に情熱を捧げる国王は宮殿の庭園をより充実させ、愛するポンパドゥール夫人のために小トリアノンを注文したのでした。王の散財による財政圧迫は王室に深刻な影響をもたらし、そのツケがフランス革命となってまわってくるのは息子ルイ16世の治世でのことでした。

 

陽のあたらぬ王妃、マリー・レクザンスカ

マリー・レクザンスカ (フランス革命前後の絵画)

ルイ15世に嫁いだのは、フランスおよびナバラ王妃であったマリー・レクザンスカです。この絵画では「ル・サンシー」と呼ばれるダイヤモンドを身につけた姿で描かれています。失脚したポーランド王の娘であるマリーは、1725年にルイ15世と結婚しました。

しかし王は愛妾に夢中であり、王妃に光があたることは滅多にありませんでした。公務から遠ざかり宮廷で重んじられることも少なかった王妃は、貧しい少女たちの教育を行うためにヴェルサイユの街に設立した修道院に専念します。自身の息子である王太子の道徳的かつ宗教的教育に気を配りますが、王太子は1765年に彼女より3年早く他界したのでした。

スポンサーリンク

自分が手を加えたギロチンで最後を迎えたルイ16世

ルイ16世 (フランス革命前後の絵画)

ルイ16世は優柔不断といわれますが、家族思いの優しい男性だったともいいます。 革命派の指導者でもあったロベス・ピエールも「彼は悪人ではない王に生まれていなければ平和な人生を歩めたであろう」といったほどでありました。

ロブスピエール、ダントン、マラトの間の架空の会議 (ロベスピエール、ダントン、マラトの間の架空の会議)

そもそもルイ16世が若くして国王となったとき、すでにフランスの財政はガタガタでした。それに妃アントワネットが拍車をかけたのは事実ですが、ルイ16世は有能な者を大蔵大臣として、立て直しを図りましたが聖職者や貴族の猛反対にあい実現はしませんでした他の人物が玉座についていたら、果たして革命は止められたのか…ルイ16世は「絶対君主は時代遅れ」だということも感じており、体制崩壊は時間の問題であったといいます。

ルイ16世 (フランス革命)

 

財政逼迫を悪化させた、妃マリー・アントワネット

マリー・アントワネット (フランス革命前後の絵画)

赤字夫人と呼ばれたマリー・アントワネットですが、自由奔放だったのは14歳で嫁いで20になり子供ができるまでだったといわれています。子供が出来てからはプチ・トリアノン宮殿で比較的おとなしい生活を送っており、服装も落ち着いたものになっていきました。

小トリアノン宮殿 (プチ・トリアノン宮殿)

マリー・アントワネットに向けられた悪質な噂、友人をひいきして大臣へとりたてた、衣装代で国を潰すなど、根も葉も無い噂も多かったといいます。ルイ16世は愛人をもたなかったため不満の矛先がすべてフランス王妃であったマリー・アントワネットに向けられたからかもしれません。

  • 7年間なりをひそめていた反オーストア派と、
  • 反ルイ16世派 (玉座をねら弟や従兄弟)
  • 反アントワネット (彼女に疎んじられた貴族たち)

に宮廷街の反王政派もいっしょになり、王と王妃に襲い掛かったのは間も無くしてのこと。決断を欠いた王と、ようやく王位継承者の母として、王妃の自覚を持ち始めたばかりのマリーそんなとき、彼女がいちばん頼りにしていた母マリア・テレジアはすでにこの世を去っていました。

スポンサーリンク

処刑台へむかうアントワネット

処刑台へとむかうマリー・アントワネット (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

宮廷の外では貧困が深刻化し、農民や労働者の食事の困窮はさらにひどくなっていき、国はフランス革命へと傾向していきます。ルイ16世がギロチンにかけられるとマリー・アントワネットへも死刑宣告がくだり、1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りに突き動かされた市民から罵倒が飛び交いました。残されたのは、アントワネットの娘マリー・テレーズひとり

マリーアントワネットの子供達

叔母とも弟とも引き離され、家族が亡くなったことを彼女は独房のなかで聞くことになります。

 

マダムエリザベートと、生き残った王女マリーテレーズ

捕まって悲嘆に暮れる王妃 (悲観にくれる王妃と、子供たちをかばう叔母エリザベート)

フランス革命の最中、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家と最後まで運命をともにしたのがマダム・エリザベートです。自分にも処刑の日が迫ってきていることを知ると、彼女は姪マリー・テレーズに対して「掃除をする、部屋の中を歩いて運動する、読書をするなどしてぼーっとしないこと」など生き抜くための知恵を授けました。

あまりのストレスからか、解放されたときは失語症のような状態に陥っていたといいますが、娘マリー・テレーズは唯一生き延びた王女でありました。

スポンサーリンク

フランス革命の終焉

ロベルピエールの処刑と、革命派の逮捕

フランス革命 (テルミドール9日のクーデター)

王室が倒れたあとに、革命派が国舵取りをはじめたわけですが、もちろんそんなに簡単にうまくいくわけがありません。反抗する者、王党派は次々とギロチンにかけられ多くの死者がでました。殺害の多くは、過激な公安委員会を支配していたロベスピエールからの命令に基づいて行われました

テルミドール9日のクーデター (テルミドール9日のクーデター)

しかし彼はあまりにも人を殺しすぎるとして、あまりに残虐な彼の仕打ちは新たな憎しみと革命政府への反抗心を募らせることとなりロベスピエール本人もまたギロチンにかけられたのでした。

フランスの人々が革命派に対して「NO」を唱えた、ロベス・ピエール党派が逮捕されたこの事件は『テルミドールの反動』とよばれています。そしてテルミドールの反動を経て、フランス革命はいったん終焉にいたったのでした。

 

ナポレオン、新しい英雄の誕生

ナポレオン・ボナパルト

1793年から1794年にかけての恐怖政治が『テルミドール9日のクーデター』によって終了すると、穏健共和政の枠組みでフランス革命の収拾が図られましたが、政権はネオ・ジャコバンと王党派に揺るがされ安定しませんでした。国民も疲れ果て、そんな混沌の時代に突如あらわれたのが戦術に長けた若い将校、ナポレオン・ボナパルト

ナポレオンボナパルト

理想をかかげて内容がないまったく非効率な政治を行っていた総督政府。1799年11月9日、総督政府への不満が頂点に達したので、ナポレオンはクーデターをおこないます。ブリュメール18日のクーデターによって総裁政府は崩壊し、国民の圧倒的な支持を得てナポレオンがフランス皇帝の座に君臨したのは1804年5月でした。

スポンサーリンク

あとがきにかえて

フランス革命

誰もが知っているように、フランス革命は1789年に始まり10年間続きました。当時フランス市民は自国の制度を破壊し再建を試みたわけですが、彼らがもたらした変化もまた血にまみれたものとして強烈に人々の記憶に刻まれました。そんなフランス革命は、数え切れないほどの芸術作品に描かれていますが、王妃の寝室に飛び込んでくる暴徒に貴族から略奪を繰り返す市民と、時代は想像以上に地獄絵図だったと考えられています。

ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画 (ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画)

動乱が本当におさまるのは、ナポレオンがロシア遠征に敗れ最終的に没落した1815年のこと。そのあとにルイ16世の弟がフランス皇帝となり再びブルボン王朝が復活唯一生き残ったアントワネットの娘マリー・テレーズは皇太子妃としてフランスに返り咲きました。

『正義』に固執すると人は冷静な判断を欠くのでしょうか、正義の名のもとに虐殺が繰り返されたこの革命は一体何をもたらしたのか。だナポレオンが残した憲法は今も形をかえて残っているわけで、急激な変化には大きな痛手が伴うのかもしれません。フランス革命の流れについてはこちらの記事 (【フランス革命とは何だったのか】わかりやすい世界史) にまとめております。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

この記事を読んだ人へおすすめの記事

スポンサーリンク

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です