【マリーアントワネットの生い立ち】名門ハプスブルク家に生まれた王女の宿命

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯悲劇の王妃
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名門スペインハプスブルク家の末娘マリー・アントワネット。散財と贅沢な生活に愛想を尽かされギロチンで首を落とされたイメージが強いのですが、我儘は元々の性格だったのでしょうかこの記事では、あまり知られていないマリー・アントワネットの生い立ちをご紹介します。

この記事のポイント
  • マリー・アントワネットは、元々は名門ハプスブルク家の王女
  • マリアテレジアの16番目の子供、末っ子ゆえに自由奔放な性格に育った
  • 元々自由な王女が、オーストリアとフランスの友好の証としての政略結婚にあてがわれた
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幸せの大公女

オーストリアの国母と慕われた女帝マリア・テレジアが、1755年ウィーンで出産した女の子がマリー・アントワネットです。ハプスブルク家は多産で知られている家系で、マリア・テレジアは16人の子供を産みましたが、マリーは末娘でありました。フランス王妃として知られる彼女ですが、元々王家に生まれており、母の愛を受け大切に育てられた王女様だったのです。

 

母は有能な女性君主

マリー・アントワネットが生まれた時、母のマリア・テレジアは38でありました。わずか23歳で広大な領土をもつハプスブルク家の当主となり、父が死んだ時は何もわからなかったといいますが、逆境のなか苦難を背負い努力と信念によって、有能な政治家への道を切り開いてきた女性でありました。マリア・テレジアは有能な女性君主であり、また夫を愛して家族にも愛情を注ぐ良い母でありました。

マリー・アントワネットの最後

 

無邪気な子供時代

マリー・アントワネットが住む宮廷には、幼いモーツアルトも出入りしていました。庭でモーツアルトが滑って転んでしまったときには、マリー・アントワネットは手を差し出したといいます。それをうけてモーツアルトが、「やさしいね、ありがとう。ぼくのお嫁さんにしてあげる」とプロポーズをしという微笑ましいエピソードも残っています。

マリー・アントワネットの最後

 

すべての始まりはペチコート作戦?

オーストリアとフランスは300年もの間敵対していたのですが、イギリスとプロセインが手を組んだことで形成は一気にかわります。プロセイン王国のフリードリッヒ2(女嫌い) は、自国を強国に押し上げた英雄でもありました。「敵の敵は味方」という歴史のことわりに従い、仏蘭露の女帝3人による「プロセイン包囲網 (ペチコート作戦)がつくられることになったのです。

ペチコート作戦を図解 (マリー・アントワネットの最後)

 

条件となった政略結婚

そして、先ほどのペチコート作戦の付帯条件に、フランス王家とオーストリア公家の縁組が含まれていたのです。オーストリアとフランスは、今まで争いはありましたけれども、これからは仲良くやっていきましょうという平和の証に婚姻を結ぶことを約束したのでした。フランス側から提示されたのは国王の孫であるルイ・オーギュスト (後のルイ16世、1754年誕生)でした。そこでオーストリア側の花嫁候補とされたのが、ルイの1年後に誕生したマリー・アントワネットだったのです。

マリー・アントワネットの最後

 

仏蘭公家の友好の証

1歳にも満たない時点で、マリー・アントワネットの人生は「14歳になったらフランスへいき、マリー・アントワネットと呼ばれて人生を全うする」と決められていたのでした。ちなみに彼女は、オーストリアではマリア・アントニアと呼ばれていました。しかしそんなことは知らない幼いマリーは自由奔放にのびのびと育っていきました。養育係をごまかして宿題をやらず、他人を意のままに動かすお姫様っぷりを発揮していたそうです。

マリー・アントワネットの最後

 

甘えん坊で自由奔放な、マリー・アントワネット

生涯1冊の本も読み通したことがないといわれる彼女ですが、筆記は苦手で、父に似たのか訛りの強いドイツ語をつかっていました。ちなみに、気が散りやすいのは能力の問題ではなく、環境に要因があった可能性があります。兄姉が次々と繰り出す遊びに気を取られ、命令に従わされあっちへこっちへ環境の力は大きく、集中力がかけやすく勉強の成果もでない、幸いにも唯一得意だったのはフランス史だったといいます。

マリーアントワネット

 

マリーに王妃がつとまるのか

そんなマリーをみて、頭を悩ませたのは母マリア・テレジアです。さらにフランスの王太子妃であったマリー・ジョセフは「なぜフランスがわざわざオーストリアから嫁をもらうのか」とこの婚姻に大反対。さらに、マリア・テレジアが婚姻の話しをしてきたポンパドゥール夫人過労で亡くなり、オーストリアは肝を冷やすことになります。ちなみにこの時点でルイ・オーギュス(のちのルイ16世)は、王位継承権2でありました。つまり、嫁いでくる妃は、将来フランス王妃になることがほぼ確定していたのです。

マリー・アントワネットの最後 (ルイ16世)

 

マリーの婚約

逝くならフランス王妃のままで、マリーアントワネットの最期の覚悟

一時はどうなるかと思われた婚姻でしたが、1769年、フランスから婚約申し込みが届きました。実際に婚姻が約束されたとき、マリア・テレジアは「娘が王家に嫁ぐ」ことは画策はしていましたが、娘がフランス王太子妃になることは想像していませんでした。外交政策で婚姻は確実なものになりましたが、果たしてマリーに役目が務まるのか一抹の不安が残っていました。しかし後戻りできるわけもなく、準備は着々と進められていったのでした。

 

母からの忠告

マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟 

結果として婚約は順調に進み、母マリア・テレジアは安堵したといいます。そして今後の懸念に備えて、娘アントワネットを寝室に呼び忠告をしました。「この結婚がヨーロッパの安定上いかに大切か」、「つい最近まで敵国だったということを忘れず、宮廷内にいる「反ハプスブルク勢力」を刺激してはならない」「反感をかわないよう慎ましく生きていくことがいかに大切か」を懇懇と説き、フランスへと送り出したのでした。

 

あとがきにかえて

逝くならフランス王妃のままで、マリーアントワネットの最期の覚悟

マリー・アントワネットがフランス宮廷へはいったあとも手紙のやりとりにて、母は娘へ「立ち位置をわきまえ、しっかりするのですよ」と言い続けたといいます。結果はご存知の通り、若くして嫁いだアントワネットは華やかなフランス宮廷に甘んじて贅沢放題。しかしそれも、世継ぎを望まれるも、ルイ16世の方に原因があり長い間子供ができなかったことが原因だといわれています。

はたちを過ぎて子供を授かる頃には彼女の散財癖も落ち着いていたといいますが、結局市民の印象を変えることはできませんでした。オーストリア公家の末っ子王女として生まれ、幼いうちから婚姻が決められていた人生。元々自由奔放だった彼女に、贅の極みを尽くしたフランス宮廷は危険な組み合わせだったのかもしれず、他に嫁いでいたならばこんなにも悲惨な最期は訪れなかったのかもしれません。

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参考文献

 

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