【今更聞けないポンパドゥール夫人とは】ベッドから国政を牛耳ったしたたかな女性

フランスの歴史

美王と呼ばれたフランス王ルイ15世の寵姫、生まれ持った美貌と才覚でのし上がったポンパドゥール夫人。愛人としてお金を湯水のように使いながらも、国政に参加するなど今までの寵姫としては別格の存在でした。今日はルイ15世の愛としてヴェルサイユ宮殿に君臨した、影の実力者ポンパドゥール夫人の人生をみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • ルイ15世の公妾であったポンパドゥール夫人
  • ベッドの手腕だけでなく政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るった
  • 42歳になり結核で亡くなる最後まで、ルイ15世の特別であり続けた
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ポンパドゥール夫人とは何者か

Madame de Pompadour by François Boucher, 1758

さて、「ポンパドゥール夫人」とは一体何者なのでしょうか彼女はルイ15世の公妾 (公式な王の愛人)でした。 またその立場を利用してフランスの政治にも大きく干渉した女性でもあります。1721年パリの銀行家の娘として生まれ、平民という身分ながらブルジョワ階級の娘として、貴族の子女以上の教育を受けて育ち、成績は非常に優秀だったといいます。

彼女は結婚し、それがきっかけとなり超一流サロンにも出入りしていました。そんな時ルイ15世の目に留まった彼女は『ポンパドゥール侯爵夫人』の称号を与えられ、夫と別居し1745年正式に公妾となったのです。

公妾とは

公妾(こうしょう)は、簡単に言ってしまえば王の愛人のことです。側室制度が許されなかったキリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世につくられた制度で、彼女たちが生活するための費用は、公式に王廷費からの支出として認められていました。また単なる王の個人的な愛人としてでなく社交界へも出席し、重要な廷臣として政治にも参画した例もあります。この先例をつくったのが、このフランス18世紀のルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人ですね。

ちなみに一説によると、公妾は国民や宮廷人の批難を浴びる役割も担っていた、といいます。のちにかの有名なマリー・アントワネットがルイ16世の元へ嫁ぐことになり、フランス国民から恨みをかうわけですが、それはアントワネットの夫ルイが公妾をもっておらず、王妃に批難が集中したため、ともいわれています

影の実力者

Portrait of the Marquise de Pompadour (1721-1764)

フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使い、あちこちに邸宅を建てさせ、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになります。ポンパドゥール夫人に推されて1758年に外務大臣となったリベラル派のエティエンヌは戦争大臣なども兼務し、およそ10年にわたって事実上の宰相となりますし、フランスの重農学派フランソワ・ケネーも夫人の主治医でした。

ベッドの上でフランスの政治を牛耳った影の実力者、ポンパドゥール夫人の有名な言葉は『私の時代が来た』だったそう。ど直球ですが、核心をついていますね。

夫人の功績

やり方はどうあれ 1756年には、オーストリアのマリア・テレジアロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成したりと、実績をしっかり残しているところがポンパドュール夫人の手腕であり、すごいところです。これは3人の女性による包囲網ペチコート作戦」と呼ばれ広く知られました。

マリアテレジアのペチコート作戦とは(参考:【賢明で愛くるしいロココ風の女帝】エリザヴェータが歩いた茨の道 )

特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほどの功績で、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐことになった契機を作り出すこととなりました。

宿敵があらわれても

ルイ15世と、ポンパドュール夫人とオミュルフィ(フランソワ・ブーシェの描いたオミュルフィ)

そんななか、ポンパドゥール夫人に宿敵「オミュルフィ嬢」があらわれます。宮廷画家ブーシェは1752年にオミュルフィの裸体を描いていますが、赤子のようにすべすべしたバラ色の肌の彼女は、豪華な寝椅子にうつぶせになり自由奔放に振る舞う様子が伝わってきます。

ポンパドゥール夫人

かわって知的溢れるこちらの絵画の主人公はパンポドュール夫人その美貌と才覚と、何より強烈な野心でのし上がってきたポンパドゥール夫人が持つ艶やかとオーラは全く別物。無能と呼ばれた王を影であやつり、充分なお金をも得て、国政をも牛耳ってきた彼女。

いくら天使のようで若い愛人があらわれようと、ルイ15世にとって「ポンパドゥール夫人」は、誰にも替えられない存在なのはたしかでした。なんたる格の違い、夫人は知らぬフリでいつのまにかオミュルフィ嬢はいなくなっていたといいます。

王に愛された彼女の潔い最期

過労から死病にとりつかれ、医者に絶対安静を命じられたポンパドゥール夫人。どこまでも伝統を重んじる誇り高き女性、彼女がなにより気にしたのは「王家と王族以外は、ヴェルサイユ宮殿で死んではいけない」という掟だったといいます。

最終的にはルイ15世の恩恵があって、ヴェルサイユ宮殿の寝室で最期を迎えました。1764年、42歳の彼女の最期の言葉は、

ではこのへんで、わたしをひとりにしてください。さようなら

だったとか。実に潔い、やることはやったのでといった覚悟が感じられる言葉です。

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まとめ

ポンパドゥール夫人の時代は、フランスを中心に優雅なロココ様式が発達した時代でした。ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく、学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結び、また芸術の熱心な愛好家パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流したそうです。

30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなりましたが、代わりに自分の息のかかった女性を紹介することもあったとか。女遊びが激しく取っ替え引っ替えしていたルイ15世ですが、ポンパドゥール夫人は別格であり、42歳でヴェルサイユで亡くなるまで寵愛し続けたといいます。

貴族生まれでない女性が自らの美貌と才覚でのし上がり、やがて国政を牛耳り、寿命がきたら潔く運命を受け入れる。それにしてもこの肖像画の数々の美しいこと。フランスに存在した彼女は、世界でいちばん賢く、美しい愛人だったのかもしれません。

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