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【ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人】美貌と知性で愛人から国政へ

2020/02/20
 
ルイ15世とポンパドュール夫人 摂政フィリップ
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

美王と呼ばれたフランス王ルイ15その寵姫こそ、生まれ持った美貌と才覚でのし上がった才女、ポンパドゥール夫人です。実際に国政にも参加し実績も残した彼女の最期の言葉は「ではこのへんで」ーと潔くとても美しくかっこいい女性でした。今日はルイ15世の愛人としてヴェルサイユ宮殿に君臨した、影の実力者ポンパドゥール夫人の人生をみていきたいとおもいます。

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ルイ15世とは

ルイ15世とポンパドュール夫人(Louis XV France by Louis-Michel van Loo 002)

ルイ15世は、ブルボン朝第4代のフランス国王。わずか5歳にて即位したルイ15世ですが、とても幼く当然政治に手はつけられません。1723年に彼が13歳の誕生日を迎えるまで、ルイ14の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が摂政として政務を行なっていました。

ルイ15世とポンパドュール夫人 摂政フィリップ (摂政フィリップ)

 

美王だったルイ15世、モテるわりにポンコツ

『ルイ15世』モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール画、1748年( ルイ15世 画:モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール)

戦争により多額の金を失い、1789年のフランス革命を引き起こすきっかけをつくったルイ15世、彼の治世はあまりよく評価されていません。まず彼はポーランド継承戦争に参戦して領土を得る…そこまではいいのですが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政状態は悪化。7年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招きました。晩年になってショワズール公、次いで大法官モプーを起用して改革を行い王権の強化を図りましたが、1774年に天然痘により64歳で亡くなります。

 

「大いに愛される王」になりたい

『ルイ15世』イアサント・リゴー作、1730年、(ヴェルサイユ宮殿蔵)(ルイ15世 画イアサント・リゴー 1730年)

ルイ15世は多くの愛人を持ち私生活は奔放極まりなく、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれ、特に公妾となったポンパドゥール夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えました。ちなみに最愛王とは、「多いに愛される王」という意味ではなく(本人はそうでありたかったらしいが)、実際はベッド相手に困らないほど「多いに愛する王」だったからだといわれています。王妃はもちろん特別扱いの寵姫ポンパドゥール夫人がいるにもかかわらず、その他の恋人愛人は数しれず、ひそかな隠れ家にて若い娘やら、人妻やらをとっかえひっかえし遊んでいたといいます。

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ポンパドゥール夫人とは何者か

Madame de Pompadour by François Boucher, 1758 ( Madame de Pompadour by François Boucher, 1758 )

さて、先ほどから出てくる「ポンパドゥール夫人」とは一体何者なのでしょうか彼女はルイ15世の公妾 (公式な王の愛人)でした。 またその立場を利用してフランスの政治にも大きく干渉した女性です。1721年パリの銀行家の娘として生まれ、平民という身分ながらブルジョワ階級の娘として、貴族の子女以上の教育を受けて育ち、成績は非常に優秀だったといいます。

彼女は結婚し、それがきっかけとなり超一流サロンにも出入りしていました。そんなときルイ15世の目に留まった彼女は『ポンパドゥール侯爵夫人』の称号を与えられ、夫と別居し1745年正式に公妾となったのです。

 

公妾 (公式な王の愛人)とは

Portrait of the Marquise de Pompadour (1721-1764)(Portrait of the Marquise de Pompadour (1721-1764))

公妾(こうしょう)は、簡単に言ってしまえば王の愛人のこと。側室制度が許されなかったキリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世につくられた制度です。彼女たちが生活するための費用は、公式に王廷費からの支出として認められていましたまた単なる王の個人的な愛人としてでなく社交界へも出席し、重要な廷臣として政治にも参画した例もありますこの先例をつくったのが、このフランス18世紀のルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人ですね。

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ベッドの上でフランスの政治を牛耳った、影の実力者

Madame de Pompadour as Diana the Huntress, portrait by Jean-Marc Nattier(Madame de Pompadour as Diana the Huntress, portrait by Jean-Marc Nattier)

フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使い、あちこちに邸宅を建てさせ、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになります。ポンパドゥール夫人に推されて1758年に外務大臣となったリベラル派のエティエンヌは戦争大臣なども兼務し、およそ10年にわたって事実上の宰相となりますし、フランスの重農学派フランソワ・ケネーも夫人の主治医でした。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」、ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。あまりにど直球ですが核心をついていますね。

 

マリーアントワネットがフランスに嫁いだ影にも彼女が

マリー・アントワネット(マリー・アントワネット)

やり方はどうあれ 1756年には、オーストリアのマリア・テレジアロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成したりと、実績をしっかり残しているところがポンパドュール夫人の手腕であり、すごいところです。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれ広く知られました。

マリアテレジアのペチコート作戦とは(引用元:【逝くならフランス王妃のままで】マリーアントワネットの最期の覚悟 )

特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほどの功績でありました。和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐことになったのですから。

末っ子だったマリー・アントワネットは、これまた美女帝で才覚溢れる母・マリア・テレジアにフランスに嫁ぐことの大変さをとんとんと説かれたといいます。そもそも身分が大違いではあれど、夫人と、マリア・テレジアにはどこか似たものもかんじますね(参考記事:【マリーアントワネットの美母】史上唯一の女帝マリア・テレジア)

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ポンパドゥール夫人に、宿敵あらわる

ルイ15世と、ポンパドュール夫人とオミュルフィ(フランソワ・ブーシェの描いたオミュルフィ)

そんななか、ポンパドゥール夫人に宿敵オミュルフィ嬢があらわれます。宮廷画家ブーシェは1752年にオミュルフィの裸体を描いていますが、赤子のようにすべすべしたバラ色の肌の彼女は、豪華な寝椅子にうつぶせになり自由奔放に振る舞う様子が伝わってきます。

ポンパドゥール夫人

かわって知的溢れるこちらの絵画の主人公はパンポドュール夫人その美貌と才覚と、何より強烈な野心でのし上がってきたポンパドゥール夫人が持つ艶やかとオーラは全く別物。無能と呼ばれた王を(影で)あやつり、充分なお金をも得て、国政をも牛耳ってきた。いくら天使のようで若い愛人があらわれようと、ルイ15世にとって「ポンパドゥール夫人」は、誰にも替えられない存在なのはたしかでした。なんたる格の違い、夫人は知らぬフリでいつのまにかオミュルフィ嬢はいなくなっていたといいます。

 

潔い、最期を

Francois Boucher allows the onlooker to glimpse Madame de Pompadour as she prepares to go out, hat in one hand and a pearl bracelet with a portrait of the king in the other, c. 1750Francois Boucher allows the onlooker to glimpse Madame de Pompadour as she prepares to go out, hat in one hand and a pearl bracelet with a portrait of the king in the other, c. 1750

過労から死病にとりつかれ、医者に絶対安静を命じられたポンパドゥール夫人。どこまでも伝統を重んじる誇り高き女性、彼女がなにより気にしたのは「王家と王族以外は、ヴェルサイユ宮殿で死んではいけない」という掟だったといいます。

最終的にはルイ15世の恩恵があって、ヴェルサイユ宮殿の寝室で最期を迎えます。1764年、42歳の彼女の最期の言葉はではこのへんで、わたしをひとりにしてください。さようならだったとか。実に潔い、やることはやったのでといった覚悟が感じられる言葉です。

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あとがきにかえて

Her memorial portrait finished in 1764 after her death, but begun while she was alive, by her favourite portraitist, François-Hubert Drouais

ポンパドゥール夫人の時代は、フランスを中心に優雅なロココ様式が発達した時代でした。ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく、学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結び、また芸術の熱心な愛好家パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流したそうです。

François Boucher 019 (Madame de Pompadour)( François Boucher 019 (Madame de Pompadour)

30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなりましたが、代わりに自分の息のかかった女性を紹介することもあったとか…。女遊びが激しく取っ替え引っ替えしていたルイ15世ですが、ポンパドゥール夫人は別格であり、42歳でヴェルサイユで亡くなるまで寵愛し続けたといいます。貴族生まれでない女性が自らの美貌と才覚でのし上がりやがて国政を牛耳、寿命がきたら「では、さようなら」と潔く運命を受け入れる。王妃ではありませんが、こうしたたかに生きる女性もかっこいいなあとおもうのでした。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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