【本当は怖い寵姫の世界】危うい立場なれど贅の極みを尽くした愛人達の存在

世界史奇談

日本に大奥があったように、中世フランスには国王お気に入りの娘「寵姫」が存在しました。中でも「公式寵姫」となった女性は宮廷内外で公的存在と認められ、国王夫妻との食事を許されたり、政治に口を出すなど特別な扱いを受けることができたのです。ルイ14世の寵姫モンテスパン夫人は宮廷の女性陣の中で最も幅を聞かせていましたし、ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人は裏で政治を牛耳っていました。

しかし王妃と違い自由ではありましたがその地位は不安定なもので、寵愛してくれた国王が崩御したり、温情がなくなると全てが崩れ去るような危険な立ち位置でもありました。この記事では、中世フランスに存在した「寵姫」の世界をご紹介します。

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宮廷に存在した寵姫制度とは

町民の娘から公式寵姫に上り詰めた、ポンパドゥール夫人

公式寵姫は、影どころか、ある意味で王妃よりも力をもった存在でした。地位はもちろん王妃の方が上で、「公式寵姫」の座にいつまでいられるか保証もありませんでしたが、宮廷で事実上権力をふるい大きな顔をしているのは寵姫の方でした。『公式寵姫』であれば、彼女は公的存在として国内外から認めてもらうこともできました。

様々な催しの席にも呼ばれ国王や王妃とともに参列しますし、各国大使に謁見したり大臣を任命したり、戦場へ同行したり、政治に口を出すことまであったそうです。

夜だけじゃない、公式寵姫に求められたもの

公式寵姫 (フランス宮廷)

寵姫というと、女性的な魅力や美貌が思い浮かびますが、それだけで『公式寵姫』となれるわけではありません。芸術や文学やファッションを保護したりすることもありましたから、美しさだけではなく才智も求められました。夜はもちろん、国務や宮廷生活で辟易としている国王を楽しい気持ちにしてあげるというのが大きな役割でした。

つまるところ、公式寵姫の仕事は「つねに国王を楽しませること」だったのです。機知や機転のきいた会話で場をなごませたり、珍しい音楽家を招いたり、多岐にわたる気晴らしを考え出し、国王が退屈しないよう気を配り続ける必要がありました。

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国王の『公式寵姫』になるには

公式寵姫 (フランス宮廷)

婚外子が認められていないとはいえ、国王の愛人(寵姫)は数多いたわけですが、『公式寵姫』となり宮廷内外で認められるためには「お披露目式」を通る必要がありました。宮廷へのお披露目は、君主の愛人として最も重要なことでした。

これなしでは彼女の立ち位置は仮のものでしかなく、寵姫の座にいる女性が少なくとも請求できたという慰謝料さえ請求できなかったといいます。ではこの儀式何かというと、寵姫はこの『お披露目式』で、寵姫は王族や主人だった貴族たちへ紹介してもらい、宮廷での地位をようやく得ることができるのです。この儀式には、王族と親戚関係にあたる「紹介役」が必要でした。

GUILLAUME SEIGNAC (1870-1924, FRANCE)(【今更聞けない、ポンパドゥール夫人とは】可憐にみえて闇深い寵姫の世界

)

ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人は町人出身でしたから、紹介役には誰もなりたがらなかったのです。最終的に国王のたっての願いにより、借金で首の回らなかった未亡人のコンティ公夫人が引き受けました。

寵姫たちの裏事情

公式寵姫 (フランス宮廷)

公式寵姫の座についても、いつまで続くかは女性の腕次第でした。国王が別の女性に夢中になり宮廷を追い出されたり、はたまたモンテスパンの夫人のように闇魔術に手を出し自滅していく女性もいたそうです。

ベルサイユのモンテスパン夫人 アンナ・ブリュース(【モンテスパン夫人】闇に身を落としたルイ14世の元寵姫)

ポンパドゥール夫人にいたっては、夜を共にすることが厳しくなると国王のために自らハーレムを作りました。「鹿の園」と呼ばれる場所に娘達をあつめ、国王が1人の女性に執着しないよう裏工作をして「公式寵姫」として居座り続けたのです。美貌を兼ね備えているだけでは、この地位に座続けることはできなかったのです。

妻を差し出すかわりに、夫が受け取った見返り

公式寵姫 (フランス宮廷)

国王の寵姫の多くが「人妻」でした。

夫さえ目を潰れば国王と人妻の不倫関係は合法化されたわけですが、モンテスパン夫人の夫にいたっては激情し「俺の妻は死んだ」と棺桶が空の状態でお葬式まで行ったそうです。しかし大抵は妻を奪った国王に文句をいうどころか、理不尽な奪いに黙って耐えて、代わりに国王から贈られた多額の見返りを受け取りました。

「公式寵姫」の座はとても危ういものでしたが、うまく国王を転がせればかなり自由に贅沢三昧な生活ができました。王妃のように「世継ぎ (男児)」を求められプレッシャーをかけ続けられることもなく、王妃のように厄介な儀式云々に雁字搦めにされることもなかったからです。

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まとめ

フランス国王の寵姫たち

王妃として嫁ぐのは原則として身分の高い王族や大貴族の家に生まれた娘達ですが、町娘のポンパドゥール夫人がルイ15世の寵姫となったように出自はそれほど重視されず、また、寵姫はそこまで背負うものもありませんでした。

かのマリー・アントワネットが王妃となるまで、フランス王妃はカトリーヌ・ド・メディシスをはじめぱっとせず、奥まった存在でした。それだけでなく、「妻を愛するなんてかっこ悪い」と、愛人を持つことがかっこいいとされた時代だったのです。

フランスアンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、夫の教育係 (兼愛人)であったディアーヌ・ド・ポワチエがいたために、「幸せな日は1日もなかった」というほど悲惨な宮廷生活を送りました。ときに王妃より大きな顔をして、宮廷を我が物で歩いた公式寵姫たち。ディアーヌやポンパドゥール夫人など、良い生活を生涯送った女性が知られている裏で、歴史の中に抹消された女性がどれほどいるのか、そこは謎に包まれたままなのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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