『王室の愛人』の称号は何千前からありますが、歴史書にその存在が記載されることはありません。壮絶なドラマやスキャンダルが愛妾たちをとりかこみ、ときにその渦のなかに周りの人たちも巻き込まれていきました。王室の愛人や恋人は、その地でもっとも高い地位にあったからです。
ただ一歩間違えれば王の機嫌を損ね首をはねられるという意味で、とても不安定なものでもありました。にもかかわらず、多くの男女がそれを得るために必死になった「愛人」の地位、今日はしたたかに時代を生き抜き歴史のページに名を刻んだ3人の女性をご紹介します。
大統領の秘された愛人、サリー
奴隷との娘 サラ・ヘミングス
サラ・ヘミングズは、アメリカ合衆国建国の父トーマス・ジェファーソンの愛人だったとされている女性です。サラ (通称サリー) は、イギリス人船長のヘミングスとアフリカから連れてきた黒人奴隷女性ベティの間に生まれた娘でした。まもなくしてヘミングスが亡くなり、残された家族のほんどは彼の娘マーサに託されました。ちなみにマーサは第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンの妻、託されたといっても奴隷としてであり、親と他の兄弟と共にモンティチェロの農園にたどり着きました。マーサとサリーはどちらもジョン・ウェイルズを父とする異母姉妹だったといわれています。
サリーと彼女の兄弟は、ヨーロッパ系であるにもかかわらず奴隷でした。といっても上のほうであり、彼らは畑仕事をせずに、芸術や家事のための訓練を受けました。ジェファーソン夫妻は彼女をよく育てましたが、マーサは1782年に死亡。サリーたちは、トマス・ジェファーソンの元に属することとなりました。
主人と奴隷の疑惑のカンケイ
この時代白人奴隷の所有者は、奴隷と関係を持つのが普通でした。したがって、ジェファーソンもこの慣習を利用したと考えても不思議ではなく、サリーはモンティチェロに住んでいた間に6人の子どもを産みました。(成人したのはうち3人のみ)子供たちが生まれた時から、ジェファーソンが父親であるとの噂がありましたが、なかなかのスキャンダルのため真実は秘されておりました。
しかし1998年、DNA鑑定によりジェファーソンとサリーの息子イーストンの遺伝子が適合していることがようやく確認されました。この問題についてはまだ議論の余地がありますが、トーマスジェファーソン財団はこれらの発見を支持しており、ジェファーソンが実際にサリーの子供をもうけたという理論を受け入れました。ただ彼は他の奴隷たちに、このような猶予を与えることはなかった、といわれています。
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暴君でお騒がせの、ヘンリー8世の愛人
美しすぎる侍女、ベッシー・ブラント
中世のイングランドに生まれたベッシー・ブラント。評判の美少女で、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として宮廷入りしました。イングランド王ヘンリー8世の手付きとなったのは1514年ないし1515年頃のことで、秘密の関係は約8年ほど続いたといわれています。
王妃を取っ替え引っ替え、好色だったヘンリー8世とエリザベスの関係は、他の女性たちとの情事に較べると長く続いたそうです。彼女の初期については謎ですが、美人であることこの上なく、明らかに王の興味を惹く存在だったことは確かです。
庶子だが、男児を産んでいた…
彼女は妊娠し、1519年に男の子を出産しました。ヘンリーという名前の息子です。しかしそのときヘンリー8世には王妃キャサリンがおり、ベッシーは王の公式の愛人でも王妃でもなかったので、彼女の子供の正当性は議論の的となりました。男児が欲しかったヘンリー8世は、「息子は自分のものだ」と主張しましたが、その王位継承権が認められることはありませんでした。そして王の愛情も、息子の誕生後すぐにメアリー・ブーリン (悲劇の王妃アン・ブーリンの姉) にうつっていきました。
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イングランド王族の愛人、キャサリン
騎士と結婚するも未亡人となり、ランカスター家へ
キャサリン・スウィンフォードも、歴史書に重要な足跡を残した女性です。1350年に貴族の家にうまれ、のちにイングランド王族のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの愛人となり、後に3番目の妻となりました。とても美しい女性だったといわれており、16歳のときにヒュー・オットス・スウィンフォードと初婚。この結婚はスウィンフォードが騎士で身分が高いという点で彼女にとっては有利であり、キャサリンは夫が赤痢で死亡する前に3人の子どもを産みました。しかしまもなく夫は大陸にて、戦死… 未亡人となったキャサリンは、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの邸宅へ家庭教師 (ガバナー) として入りました
イングランド統治における、華麗なる血統の始祖
偶然にも、ジョンはイングランド王の3男でありました。ジョンの2番目の妻が亡くなったあと、彼はキャサリンを引き取り、正式に結婚する前に2人の間には4人の子どもが生まれています。2人は1396年についに結婚したのですが、ジョンはわずか3年ほどで亡くなってしまいました。
ひょんなことから王家にはいったキャサリンでしたが、彼らの子供たちは、歴史を変えるほど大きな存在となっていきます。子供達の血統はすべて正当化され、これがボーフォート血統の始まりであり、それがスチュアート家と数世紀にわたってイングランドを統治するテューダー朝をもたらすことになるのです。
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まとめ
愛人ときいてまっさきに思い浮かぶのは、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人です。その美貌と才覚から、ベッドの上でフランス政治を牛耳ったとも言われる彼女。晩年には王と床をともにすることはなくなりましたが、新しい愛人ができても何のその、自分の代りはいないとして堂々たる毅然さを誇っていました。時代のファッションリーダー的な存在でもあり、それでも秩序を気にして身分をわきまえ王族以外はヴェルサイユで死んではならない」という掟を死の床でも気にしていたそうです。フランスでは「妻に愛情を注ぐなんて格好悪い」とされていた時代ですから、彼女の存在は一際目立つ物でした。
(マリー・アントワネットとダンの息子(1777年)
逆にルイ16世は愛妾をもたず、王妃マリー・アントワネットだけ。愛妾は本来国民にとって王族への不満のはけ口でもありましたが、アントワネットの場合は怒りを全て受ける形になってしましました。そう考えると、ある意味『愛人』という存在も重要だったのかもしれません。当時はやっかみもひがみも嫌がらせも多かったかもしれませんが、彼女らの人生はたしかに先へ爪痕を残しているわけで。こういったものを紐解いていくのも、後世から歴史をみたときのおもしろみかもしれません。
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