【フランス革命を生き延びた王女】マリー・テレーズの波乱万丈な人生

フランスの歴史

ルイ16世とマリー・アントワネットの長女として誕生したマリー・テレーズ。幼少期を宮廷で過ごした彼女は、王室の中でフランス革命を生き抜いた唯一の子供でもあります。革命家たちによって死刑判決を受けましたが、父の兄弟の助けもあり母の母国オーストリアへ逃れることができました。

ナポレオン政権が終わると、1824年に王太子妃としてフランスへ帰還して生涯君主制に専念しました。苦い思いは消えなくとも、最後まで人を恨まぬよう心の限りを尽くした女性、この記事ではマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズの人生についてみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • フランス革命により逮捕されるが、家族の中で唯一処刑を免れた
  • 人質交換で母の故郷オーストリアへ渡り、いとこのルイアントワーヌと結婚
  • 皇太子妃に返り咲くが、またの革命で亡命を強いられるもおだやかな最後を迎えた
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革命に巻き込まれて

 (幼少期のマリー・テレーズ)

アントワネットの娘、マリー・テレーズは1778年にベルサイユ宮殿で生まれました。長年子供に恵まれなかった夫妻にとっては、待ち焦がれた子供でもありました。ルイ16世は愛人も作らず家族想いの優しい父でしたが、フランス財政は火の車となり、1789年フランス革命が勃発、ルイ16世は革命軍により家族もろとも逮捕されてしまいます。

ひとり獄中で

 (獄中のマリー・テレーズ )

1793年革命の最中、父ルイ16世が処刑され、間も無くして母マリー・アントワネットもギロチンにかけられました。そして一緒に行動していた叔母、エリザベスとも引き離されることとなります。マリー・テレーズは処刑を免れタンプル塔の一室にひとり投獄されていましたが、ときどき鉄格子ハメられた小さな窓から革命広場の歓声をきいていました。

母が処刑されたときもそれとは知らず、家族の死を知ったのは独房の中でした弟シャルルはひどい仕打ちをうけ10歳にして亡くなり、とうとう一人になってしまったとマリーは嘆き悲しみました。

解放された元王女

 (マリー・テレーズの肖像画)

母マリー・アントワネットの故郷、オーストリア。1795年オーストリア軍は王女の解放交渉に成功します。孤児となったマリーはオーストリア ウィーンにあるフランツ2世の宮廷に移りましたようやく解放されたマリー・テレーズですが、失語症のようになっていたといいます。

ルイ16世が「子供達を頼む」と託したのは、命でいちはやくフランスから亡命していた彼の弟 (未来のルイ18世)でした。この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は、弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙でこう記しています。

両親どちらにも似ている。身長は母親ほど高くないが軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時も涙は見せない善良で親切で優しい子だ。

 

 

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再びフランスに戻る日

 (マリー・テレーズの肖像画)

1799年にラトビアで、マリー・テレーズはいとこのルイ・アントワーヌ (アングレーム公)と結婚します。ルイ16世の弟 (シャルル10世)の息子であるルイ・アントワーヌ・ダルトワと結婚し、アングレーム公爵夫人となりました。

1814年フランスで王制が復活し、ルイ18世 が王位についたとき、彼女はようやくフランスに戻ることができました。1824年に彼が亡くなると、末弟のシャルル10世が後を継ぎ、マリーの夫ルイ・アントワーヌ・ダルトワが皇太子となりました。長年の亡命生活を経て、マリー・テレーズはようやくフランス皇太子妃となったのです。

白色のテロ

マリー・テレーズは死の間際の父から憎しみを捨てるように」と諭されていましたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわりました。彼女の憎悪は『どこの馬の骨』とも知れぬナポレオン、ナポレオンを支持する人々に向かっていきました。

その時、シャルル10世の息子ベリー公がナポレオン支持者に暗殺されてしまいます。

それで狂ってしまったシャルル10世、彼とマリー・テレーズあちこちにナポレオン支持者の弾圧を煽りました。結果として、多くの罪のない人たちがナポレオンを支持しているという理由だけで、死刑や不当な暴力によって殺されたのです。これは、白色のテロ (はくしょくのテロ)とも呼ばれています。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえますが、彼女は『復讐のためフランスに戻った王女』とも呼ばれました。

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再びの亡命生活

マリー・テレーズ宛てに、差出人不明の殺害予告文が届くこともありました。しかし、彼女を慕い訪問する人々もまた絶えませんでした。王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。しかし幸運は続かず、1830年の革命により7月王政が始まり、ルイ・フィリップ1世という名でオルレアン派の一族が王位に就くことになりました。またしても、シャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなったのです。

10月一家はエディンバラのホリールード宮殿に移りますが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズは宮殿の近くに小さな家を借りましたシャルル10世は「老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだと」たびたび口にしたそうです。

けして驕らず

ベリー公妃が不貞をはたらき、また身勝手な行動で逮捕されていたため、マリー・テレーズが母親代りとなり、ベリー公の遺児ルイーズとアンリの面倒をみることになりました。2人は伯母によくなつき、たくさんの話しをしていたそうです。マリー・テレーズは母アントワネットが自分にしてくれたように子供達にたくさんの愛情を注ぎました

彼女は後継となったルイ・フィリップを相変わらず嫌ってはいましたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちにプレゼントを贈っていました。しかしルイーズとアンリに対しては、かつて自分が母にしてもらったように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返すこともあったといいます。子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしませんでした。孫たちの様子は、シャルル10世をもあたたかい気持ちにさせるものでした。

マリー・テレーズの最後

プラハではフラドシン城を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ、生活したマリー・テレーズ彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出され、収益は恵まれない者に寄付されました。

1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居。ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居。ここで彼女は散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らしました

刺繍はオークションにかけられ、売上は貧しい者たちに寄付されました。マリー・テレーズは1851年10月19日、肺炎のために亡くなります夫との間に子が無かったため、これによってルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなりました。彼女は2人の子供のなかで、唯一天寿を全うした女性でありました。

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あとがきにかえて

(マリー・テレーズと弟ルイ・シャルル)

マリー・テレーズ弟の面倒をよくみており、優しい子だったといわれています。タンプル塔に閉じ込められた時も「ルイ・シャルルをどうか助けて欲しい」と懇願するほど、離れた弟のことをいつも気にかけていました。彼女は晩年、白色のテロ (吹聴によりナポレオン支持者が弾圧された事件) を悔やみ、恨みからは悲しいことしかうまれないこと

marie

自分が不幸だからといって、人に不幸を不幸にしていいわけではなく、悲惨な状況のなかにいても、明るく生きていける強い人間はいるのですよ

とベリー公の子供たちに説いたそうです。子供達にはまさに彼女が『その人』であると思ったでしょう。自分が幼い頃に無残な死を遂げた父と母。なんの罪もなく殺された弟のことを思うと胸が張り裂けそうに痛む。でも彼女をどん底から救ったのは、ルイ18世でありシャルル10世であり、同じく優しい父の弟たちでありました。

憎しみにとらわれていては、いつまでたっても進めない。彼女が強く優しく生きることができたのは、悲惨な状況のなかでも愛情を注いでくれた親族がいつも見守っていてくれたからかもしれません。マリーの牢獄生活についてはが閉じ込められていた頃の物語はこちら(【恐怖の監禁生活 | マリー・アントワネット】の子供はどうなったのか)にまとめております。

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