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【マリー・アントワネットの最後】赤字夫人と呼ばれた王妃の生涯 (輿入れ編)

 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

母マリア・テレジアの指南をうけ、友好の証にオーストリアからフランス王家へ嫁ぐことになった末娘マリー・アントワネット。自由奔放な彼女はいったん国民から歓迎されたとわかるや否や、好き放題ふるまい贅沢な宮廷生活へと溺れていったのでした。(こちらは誕生編に続く、輿入れ編です)

 

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マリー・アントワネット ついにフランスへ

マリー・アントワネットの最後

1770年、14歳にして花嫁となったマリー・アントワネット花嫁の引き渡しは、オーストリアとフランスの中間地点 国境を流れるライン川の中州で行われました中洲にはそのためだけに、簡易宮殿が作られました。そしてなんとこれをドイツの文豪ゲーテが目撃していました。

 

ドイツの文豪ゲーテがみたマリーの引き渡し場面

マリー・アントワネットの最後

簡易宮殿の壁にかけられたゴブラン織の布、絵の題材はギリシャ神話の王女メディアでした。それは『王女メディアが、自分を裏切った夫との間の子供、新妻をも殺してしまうという禍々しいストーリー』。おそらく無知な役人が「ただ布の大きさがちょうどいい」というだけで選んだのだと思われますが、なんという不吉な絵を壁にかけるのかそれを見たゲーテは思わず、

ゲーテの肖像画 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟)これはひどい。若い皇女がお輿入れなさろうとするときに、戦慄すべき結婚の例をお目にかけるとは。絵が感情や感覚にうったえ、予感を引き起こすものとは知らないのか  ( 画像:ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画))

と叫んだといいます。一方で役人たちは身体の不自由なものや病人は花嫁行列の通る道に姿を見せぬよう….と国中にせっせとおふれを出していたというんですから、ちゃんちゃらおかしいといいますか、それはゲーテが呆れるのも無理がありません。

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マリー・アントワネットのなんとも不吉な結婚式

マリー・アントワネットの最後

未来を暗示するかのように、結婚式でも縁起の悪いことが続いたといいます。ヴェルサイユの礼拝堂における式で、アントワネットは結婚契約書にサインをしましたが、ぽたりとインクをたらし名前の上に大きな染みを作ってしまい、

マリー・アントワネットの最後 (筆記が得意でなかったのもあり、右下にさがっているのがわかる)

夜には史上最大の花火が打ち上げられる予定だったのに、晴れた空にいきなり暗雲がたちこめ雷鳴轟くという始末。改めて日を変え行われた花火の祭典では群衆があふれかえり、混乱で100人以上の死者がでたのでした。

これから起こる悲劇への前兆か、はたまた偶然か…..

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フランス国民の歓迎

マリー・アントワネットの最後 (フランスにて手厚い歓迎をうけるマリー・アントワネット)

一般的に浪費癖と、恨みつらみで残酷な最期を迎えた悲劇の王妃として知られている彼女ですが、『未来の王妃』としてマリー・アントワネットがフランスへ輿入れした際、多くの国民は『平和の象徴だ』として大歓迎したといいます。というのも、

  • アントワネットは卵形の顔立ちで、なめらかな白い肌
  • 生き生きした瞳と、鷲鼻は貴族的で美しく、
  • ハプスブルク家特徴の受け口も彼女の場合「かわいい」とされたのです

マリー・アントワネットの最後

なにより引き締まった身体と、軽やかな身のこなし、生まれついての女王たる態度は、粗探しの得意な宮廷人たちをも感服させとほどだったといいます。もちろん母帝からは「調子に乗らぬよう」忠告がはいっていたのでしょうがさて、どうなるやら。

 

母帝の忠告をすっかり忘れて、舞い上がるマリー

マリー・アントワネットの最後

散々母マリア・テレジアに「フランス語をきちんと話し、反ハプスブルク家派を刺激しないように」と散々いわれてきたアントワネットでしたが、「とくに努力をせずとも、自分の存在自体がどうやら人々に満足を与えるらしい」と思うやいなや、

  • もともとの怠け癖に身を任せ、
  • 宮廷儀式を窮屈だと無視して、遊びほうけ
  • 芝居に仮想舞踏会豪華な衣装に宝石うつつを抜かし、敵も味方もどこへやら

「世継ぎ」をのぞまれるが子はできず、エネルギーを持て余していたのでしょう。

 

子ができず、時間を持て余したマリーは散財の道へ

マリー・アントワネットの最後 (王妃となったアントワネット (1775年))

ただこれは単にマリー・アントワネットのせいだけではなく、多産 (なんと母は16人の子供を授かった) 家系であること、健康な肉体をバックにもち「早く世継ぎを」という周囲のプレッシャーそもそもマリーのせいではなく、子ができないのは夫ルイ16世の肉体的欠陥のせいであったといいます。手術をすればすぐに治るものでしたが恐れのあまり先延ばしにし、王が勇気を持って手術を受けたのは7年後でした。そしてうやく2人の間に子供が産まれたのです。

マリー・アントワネットの最後

こちらはマリーとその子供たちを描いた絵画です。女盛りをむかえた王妃のうつくしさ、子供達の愛らしいしぐさ、スカートに毛皮やレースの繊細な描写。何も知らない人からみれば、”やさしく我が子を抱く家庭的な王妃”ですが、市民にとってはこれはただの見せかけにすぎませんでした。

マリー・アントワネットの最後

国民が食べるものに困っているのに、「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない(反マリー派が流した作り話といわれる) 」と言い放つ贅沢だらけの王妃を誰が今更気にかけるのか、人々の怒りはたまっていくばかりでした。

 

マリー・アントワネットの空虚な7年

マリー・アントワネットの最後

しかしこの7年間は、マリー・アントワネットの人生を狂わせるのに充分すぎたといえるでしょう。マリーの軽率な行動の繰り返しは周りを失望させ、市民からも冷たい目を浴びるようになりました。労働者、農民の暮らしは非常にきびしいものとなっており、豪華絢爛な生活を送る宮廷で世継ぎがうまれても、お祝いする気分にはとてもなれませんでした。そもそも国庫は、

のおかげでいまや空に近い状態でした。しかし課税しようと提案すれば、貴族からも市民からも大反対が起きる。だからといって王が為す術もなく手をこまねいているうちに、経済はさらに悪化していきます。

マリー・アントワネットの最後

なんとかせねばと施策をめぐらすカロンヌが財務総督。しかしやむなく「宮廷費の一部を高等法院に報告しなければならなくなった」のが悲劇のはじまり。王族の散財ぶりが市民へ知れ渡り、怒りの矛先は赤字夫人と呼ばれたマリー・アントワネットへむいたのです。

ギロチンまでの時間は、刻々と迫っていたのでした。つづく最後の物語は、処刑編をご覧ください。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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