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【逝くならフランス王妃のままで】マリーアントワネットの最期の覚悟

2020/02/20
 
【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

名門スペインハプスブルク家の末娘、マリー・アントワネット。運が良いのが悪いのか、いつのまにかフランス王のお妃に。ヴェルサイユ宮殿で贅沢な生活を送ったのもつかの間、遊び癖から宮廷内外の反感をかい、フランス革命に巻き込まれ、最期は処刑されるというなんとも激しい人生母国に亡命するという選択肢もありましたが「自分はフランス王妃ですから」と運命を受け止め、最期は夫と同じくギロチンで首を落とされた誇り高き王妃様今日はこの「マリー・アントワネット」の生涯をひもといていきたいとおもいます。

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Contents

マリーアントワネットは、なぜフランスへ嫁ぐことになったのか

幸せの大公女、女帝マリア・テレジアの末娘

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (マリー・アントワネットの母 マリア・テレジア 少女の頃の肖像画)

オーストリアの国母と慕われた女帝マリア・テレジアは、1755年オーストリア首都ウィーンで可愛らしい女の子を出産しました。彼女は16人の子供を産みましたが、その末娘こそマリー・アントワネットです。

マリア・テレジアと子供達 雪のように白く、真珠のように輝きのある肌に豊かな頰。これは私のお母様に似たのね。この子にとってきっと宝物になるわ。長い顎と突き出した下唇はハプスブルク家からの贈り物よ物事に不満を持たず、いつも微笑んでいる子に育てましょう。そうすれば下唇が目立たずにすむわね (画像:マリア・テレジアと子供達)

ときにマリア・テレジアは38。わずか23歳で広大な領土をもつハプスブルク家の当主となり、父が死んだ時は何もわからなかったは、逆境のなか苦難を背負い、努力と信念によって「有能な政治家」への道を切り開いてきました (参考:【オーストリアの国母】史上唯一の女帝、マリア・テレジア)

 

無邪気な子供時代、マリーアントワネットとモーツアルト

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ピンクのドレスを着ているのがマリー・アントワネット)

幼少期のマリー・アントワネットは音楽家モーツアルトともかかわりがありました1762年晩秋オーストリアのザルツ・ブルクに降り立ち、離宮シェーンブルンへ訪れたモーツァルトは、臆することなく自作のメヌエットを披露したり、目隠しをしたままピアノを演奏するなど、圧倒的な神童ぶりをみせたといいます。

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (少年時代のモーツアルト) (少年時代のモーツァルト)

庭で遊んでいたときに滑って転んだモーツアルトに手を差し出したマリー・アントワネット。それをみたモーツアルトがやさしいね、ありがとう。ぼくのお嫁さんにしてあげるとプロポーズをしたという、うそかほんとか微笑ましいエピソードも残っています。もちろんアントワネットが音楽家の「お嫁さん」になることはありませんでした、だって彼女はのちにフランス王妃になる運命なのですから。

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全ての始まりは仏蘭露の女帝3人による、ペチコート作戦

ペチコート作戦とは

オーストリアとフランスは300年もの間敵対していたのですが、イギリスとプロセインが手を組んだことで形成は一気にかわります。プロセイン王国のフリードリッヒ2(女嫌い) は、自国を強国に押し上げた英雄でもありました。「敵の敵は味方」という歴史のことわりに従い、仏蘭露の女帝3人による「プロセイン包囲網 (ペチコート作戦)」がつくられることになったのです。

そしてこの付帯条件に、フランス王家とオーストリア公家の縁組が含まれていたのです。今まで争いはありましたけれども、これからは仲良くやっていきましょうという平和の証に婚姻を結ぶことを約束したのでした。(参考記事:【ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人】美貌と知性で愛人から国政へ)

 

フランス王家と、オーストリア公家の友好の証として

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (少年時代のモーツアルト)

婚姻にさいしてフランス側から提示されたのは国王の孫である、ルイ・オーギュスト (1754年誕生)でした。そこで母帝マリア・テレジアがオーストリア側からの花嫁候補としたのが1755年に誕生したマリー・アントワネット。彼女の運命は、

  • 14歳になったらフランスにいき
  • それからはフランス語を使って生きていく
  • マリー・アントワネットと呼ばれること  (オーストリア読みだとマリア・アントニア)

と、1歳にも満たない時点でほぼ決められていたのでした。

 

末っ子で甘えん坊、自由奔放なマリー・アントワネット

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (少年時代のモーツアルト) (少女時代のマリア・アントニア = マリー・アントワネット)

しかしそんなことは知らぬとばかりに、幼いマリーは自由奔放にのびのびと育っていきます養育係をごまかして宿題をやらず、他人を意のままに動かすお姫様っぷり。生涯1冊の本も読み通したことがない、といわれる彼女ですが、筆記は苦手で、父に似たのか訛りの強いドイツ語をつかっていました。さらに「私はフランスでなくてもドイツ語が話せるところなら、どこでもいいわ。楽しく過ごせればどこでもいいの」というなんとも能天気な発想。

マリア・テレジアと家族たち (マリア・テレジアと家族たち)

気が散りやすいのはけして能力がないわけではなく、兄姉が次々と繰り出す遊びに気を取られ、命令に従わされたり翻弄された幼少期に影響されているといわれています。環境の力は大きく、集中力がかけやすく勉強の成果がでない。これ幸いといいますか、唯一得意だったのは、フランス史でした。

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母の不安、マリーに王妃がつとまるのか

マリア・テレジア (マリア・テレジアの肖像画)

そんな伸び伸びしたマリーをみて、母マリア・テレジアは頭を悩ませていましたフランス王太子妃であるマリー・ジョセフは「なぜフランスがわざわざオーストリアから嫁をもらうのですか。300年も敵国ですし、色々恨みもありますからとこの婚姻に大反対。さらにいままでマリア・テレジアが話しをしてきたポンパドゥール夫人が過労で亡くなってしまい、さあ困ったことに。

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (右にうつるのが幼い頃のルイ・オーギュス マリーの婚約者候補であり、のちのルイ16世)

さらにルイの兄が亡くなったことで、なんと父に続き、ルイ・オーギュスは王位継承権2位の保持者 (つまり次の王様候補)となったのでした。

 

とはいえ、フランス王妃までは予期していなかった

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス)(狩猟服を着たマリー・アントワネット、彼女の母親が大好きな娘の肖像画の一つ(Joseph Krantzinger,1771年))

1769年ついにフランス国王ルイ15世から、マリア・テレジアに「婚約を申し込む」旨の連絡が届きます。「王家に嫁ぐ」ことは考えていましたが、まさか彼女も娘が「フランス王妃」になることは想像していませんでした。あれこれ外交した彼女の努力で婚姻は確実なものになりましたが、「この子に果たして、王妃がつとまるのか、国を支えるだけの力があるのか」。マリア・テレジアは母として不安になりますが、もうここまできたら戻ることはできません。準備は着々と進んでいったのでした。

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敏腕政治家 母マリア・テレジアからの忠告

マリアテレジア Maria Theresa in 1762, by Jean-Étienne Liotard (マリア・テレジアの肖像画 Maria Theresa in 1762, by Jean-Étienne Liotard) 

時間を要したし大きな不安もありましたが、無事結婚申し込みの外交文書が届き、母マリア・テレジアは安堵したといいます。そして今後の大きな波を予想して、娘と寝室をともにし、

  • この結婚がヨーロッパの安定上、いかに大切なものか
  • 宮廷内にいる「反ハプスブルク勢力」を刺激してはならないこと
  • つい最近まで敵国だったということ
  • 反感をかわないよう慎ましく生きていくこと

「いかにこれが重要で大変なことか」を懇懇と説いたといいます。輿入れ前も、フランス宮廷へはいったあともマリア・テレジアは口すっぱく言い続けたといいます。

 

マリー・アントワネット ついにフランスへ

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス)

1770年、14歳の花嫁はオーストリアとフランスの中間地点 国境を流れるライン川の中州で引き渡されました。簡易的に作られた宮殿、そしてこれを目撃したのがまさかのドイツの文豪ゲーテです。

 

ドイツの文豪ゲーテがみたマリーの引き渡し場面

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (ギリシャ神話の王女メディア)

ライン川につくられた簡易宮殿の壁にかけられたゴブラン織の布、絵の題材はギリシャ神話の王女メディア。どういう話しかといいますと、『裏切った夫との間の子供達を殺し、夫の新妻すらも殺してしまうという禍々しいストーリー』です。おそらく無知な役人が「ただ布の大きさがちょうどいい」というだけで選んだのだと思われますが、なんという不吉な絵。それを見たゲーテは思わず、

ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)これはひどい。若い皇女がお輿入れなさろうとするときに、戦慄すべき結婚の例をお目にかけるとは。絵が感情や感覚にうったえ、予感を引き起こすものとは知らないのか ( 画像:ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画))

と叫んだといいます。一方で役人たちは「身体の不自由なものや病人は花嫁行列の通る道に姿を見せぬよう」と国中にせっせとおふれを出していたというんですから、ちゃんちゃらおかしいといいますか、ゲーテが呆れるのも無理がありません。

 

マリー・アントワネットのなんとも不吉な結婚式

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (マリー・アントワネットの結婚式とされる絵画)

これからの未来を暗示するように、結婚式でも縁起のわるい出来事が続いたといいます。ヴェルサイユの礼拝堂における式で、アントワネットは結婚契約書にサインをしましたが、ぽたりとインクをたらし名前の上に大きな染みを作ってしまい、

マリーアントワネットの結婚署名 (筆記が得意でなかったのもあり、右下にさがっているのがわかる)

夜には史上最大の花火が打ち上げられる予定だったのに、晴れた空にいきなり暗雲がたちこめ雷鳴轟くという始末。改めて日を変え花火の祭典が行われると群衆があふれかえり、混乱で100人以上の死者がでたのでした。

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フランス国民の歓迎

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (フランスにて手厚い歓迎をうけるマリー・アントワネット)

一般的に浪費癖と、恨みつらみで残酷な最期を迎えた悲劇の王妃として知られている彼女ですが、マリー・アントワネットが『未来の王妃』としてフランスへ嫁いだ時、国民の大多数は平和の象徴として大歓迎したといいます。というのも、

  • アントワネットは卵形の顔立ちで、なめらかな白い肌
  • 生き生きした瞳と貴族的な鷲鼻をもち
  • ハプスブルク家特徴の受け口も彼女の場合「かわいい」とされたのです

(ハプスブルクの下唇と顎の歴史についてはこちら:【ハプスブルク家と高貴な青い血| 顎と下唇にみえる禁断の歴史】)

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス)(1775年 オーストリアのマクシミリアン・フランシス大公がマリー・アントワネットとルイ十六世をムエット城で訪問)

なにより引き締まった身体と、軽やかな身のこなし、生まれついての女王たる態度は、粗探しの得意な宮廷人たちをも感服させとほどだったといいます。もちろん母帝からは「調子に乗らぬよう」忠告がはいっていたのでしょうがさて、どうなるやら。

 

母帝の忠告をすっかり忘れて、舞い上がるマリー

1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)(1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)

散々母マリア・テレジアに「慎ましく。フランス語をきちんと話し、反ハプスブルク家派を刺激しないよう」といわれてきたアントワネットでしたが、「とくに努力をせずとも、自分の存在自体がどうやら人々に満足を与えるらしい」と思うやいなや、もともとの怠け癖に身を任せ、

  • 窮屈な宮廷儀式を無視して遊びほうけ
  • 芝居に、仮想舞踏会
  • 豪華な衣装に宝石にうつつを抜かし、

と敵も味方もどこへやら。

「世継ぎ」をのぞまれるが子はできず、エネルギーを持て余していたのでしょう。

 

子ができず、時間を持て余したマリーは散財の道へ

王妃となったアントワネット (1775年) (王妃となったアントワネット (1775年))

ただこれは単にマリー・アントワネットのせいだけではなく、多産 (母は16人の子供を授かった) 家系であること、健康な肉体をバックにもち「早く世継ぎをつくってくれ」という周囲のプレッシャー。そもそもマリーのせいではなく、子ができないのは夫ルイ16世の肉体的欠陥のせいであったといいます。手術をすればすぐに治るものでしたが恐れのあまり先延ばしにし、王が勇気を持って手術を受けたのは7年後。そしてうやく2人の間に子供が産まれます。

マリーアントワネットと子供達 (マリー・アントワネットとその子供達)

こちらはマリーとその子供たちを描いた絵画「マリー・アントワネットと子供達」です。女盛りをむかえた王妃のうつくしさと子供達の愛らしいしぐさ、スカートに毛皮やレースの繊細な描写何も知らない人からみれば、”やさしく我が子を抱く家庭的な王妃”ですが、市民にとってはこれはただの見せかけにすぎません。

1781年 マリー・アントワネット (1781年 マリー・アントワネットの肖像画)

国民が食べるものにもこと書いているのに「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない(反マリー派が流した作り話といわれる) 」と言い放つ贅沢だらけの王妃を誰が今更気にかけるのか、人々の怒りはたまっていくばかりでした。

 

マリー・アントワネットの空虚な7年

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (1778年 マリー・アントワネットの肖像画)

しかしこの7年間は、マリー・アントワネットの人生を狂わせるのに充分すぎたといえるでしょう。マリーの軽率な行動の繰り返しは周りを失望させ、市民からも冷たい目を浴びるようになりました。労働者、農民の暮らしは非常に厳しく、豪華絢爛な宮廷で世継ぎがうまれても祝賀ムードにはとてもなれませんでした。そもそも国庫は、

のおかげでいまや空に近い状態でした。課税しようとおもいひとたび口にだせば、貴族からも、市民からも大反対が起きる。だからといって王が為す術もなく手を拱いているうちに経済はさらに悪化していきます。

シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ (シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ)

なんとかせねばと施策をめぐらすカロンヌが財務総督。しかしやむなく「宮廷費の一部を高等法院に報告しなければならなくなった」のが悲劇のはじまり。王族の生活ぶりとその巨額の経費が一般に知れ渡り、怒りの矛先は赤字夫人と呼ばれたマリー・アントワネットむいたのです。

 

全ての不満はマリーとルイ16世へ

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス)

マリー・アントワネットに向けられた悪質な噂、友人をひいきして大臣へとりたてた、衣装代で国を潰すなど、根も葉も無い噂も多かったといいます。自業自得なものもありましたが、「首飾り事件 (マリーをよく思わない伯爵夫人に陥れられた) 」など、そこまでしなくてもというものもありました。

  • 7年間なりをひそめていた反オーストア派と、
  • 反ルイ16世派 (玉座をねら弟や従兄弟)
  • 反アントワネット (彼女に疎んじられた貴族たち)

に宮廷街の反王政派もいっしょになり一大勢力となって、王と王妃に襲い掛かります。決断を欠いた王と、ようやく王位継承者の母として、王妃の自覚を持ち始めたばかりのマリー。そんなとき、彼女がいちばん必要としていたときに偉大で賢明な母マリア・テレジアはすでにこの世を去っていました。宮廷の外では貧困が深刻化し、農民や労働者の食事の困窮はさらにひどくなっていきました。

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そしてフランス革命

たまりたまった国民の不満がついに爆発

マリーアントワネットとバスティーユ襲撃「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・ウーエル画)

そしてとうとう「あの日」が近づいてきます。17897月、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄の襲撃をきっかけにフランス革命が勃発します。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せました。そしてルイ16世とアントワネットはパリへ幽閉されてしまいます。(ちなみにこの事件は、ナポレオン視点でも記事にしております:【稀代の英雄ナポレオン】夢あり地獄ありのカリスマ君主)

 

 

国王の処刑と、アントワネットへの残虐な処遇

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス)(収監されたルイ16世)

1793年1月、ルイ16世は早々に処刑されてしまいます。議会の投票の結果わずか1票差で処刑がきまったそうです。さて、アントワネットと子供達はどうなったのか。マリー・テレーザは家族と引き離され、2年余り幽閉されました。人質交換で2年後に母の母国オーストリアへ戻った時には、口が聞けず、失語症のような状態になっていたといいます。ただある意味では生き残った女の子でした。

マリー・アントワネットの愛くるしい娘たち (マリー・テレーズ(アドルフ・ヴェルトミュラー作、1784年))

こんなにあどけなかった少女ですが、母親に似て美しい女性に成長します。マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うしたともいえます。

マリー・アントワネットの愛くるしい子供達

そして王位継承者であったルイ・シャルル、こちらもまだあどけない男の子です。

ルイ・シャルル (ルイ・シャルルの肖像画) 

狭い独房に閉じ込められ、放置され10歳の生涯を終えました。幼く愛くるしい彼自身がなにをしたわけではないのですが、人とは思えない扱いをむけ、処刑ではないものの、むごい最期を迎えたといわれています。

 

幽閉されたマリー・アントワネットのことば

幽閉中の王妃 【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (幽閉中の王妃 マリー・アントワネット)

次々と見せつけられる身近な人たちの残酷な死マリー・アントワネットの髪の毛は一夜にして真っ白になったといわれています。そのときの彼女の言葉が残っています。

不幸になってはじめて、自分が何者なのか、本当にわかるものですね

彼女の母国は、オーストリア。それも名門オーストリアハプスブルク家。彼女だけなら母国に帰ることもできたのでしょうが、彼女はフランスにて運命を共にすることを決めたのでした。

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マリー・アントワネットのギロチン処刑

処刑台へとむかうマリー・アントワネット (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいます。乗せられたのは、「動物用の荷車」。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りにとらわれた市民からの罵倒が飛び交いました。(のちにナポレオンのお気に入りとなる) ダヴィットが最期のマリー・アントワネットの姿をスケッチしていました。

処刑前の王妃の様子のスケッチ (処刑前の王妃の様子のスケッチ 画:ダヴィッド)

ギロチンの刃が上すべりしないようにと髪の毛を切られて、革命広場で皆があつまるなか座らされるアントワネット。いつでも美しく着飾っていたアントワネットにとって、それがどれだけ屈辱だったかあれだけ綺麗だった王妃の顔にはシワが描かれ、一瞬惨めさが伝わってくるのですが、それと同時に「運命を引き受けた王妃の最期の覚悟」も伝わってくるのでした。

王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 (王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑)

ギロチン台の置かれた広場へつき、毅然とした態度で処刑台に上るアントワネット。その死に方は見事なものだったといわれています。

 

なぜマリー・アントワネットに批判が集中したのか

マリー・アントワネット1788年の肖像画 (1788年 マリー・アントワネットの肖像画)

夫のルイ16世は歴代の王たちと違って「愛妾 (ポンパドゥール夫人のような公式な愛人) 」をもたなかったため、マリー・アントワネットが不満の受け口になってしまったのではないか、という見解もあります。愛妾は大抵、大勢いる王の相手からただひとりが選ばれ、

  • 王妃より広い居室があたえられ
  • 特別行事を除いて、宮廷の華やかさを独占し、
  • 政策の失敗、赤字が重なればアイツのせいだと叩かれる

愛妾 (王の公的な愛人)は、全ての憎悪のはけ口にもなっていたのです。

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ドゥ・モルトゥマール (ルイ14世の愛妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ)

一見どうなのかと思えるこの制度が同情をひき、いろんな意味で王妃をまもってきたのかもしれません。公式寵姫がいなかったルイ16世、もちろん歴代の王の失態の積み重ねとタイミングの問題も色濃いですが、「不満の受け口」になるような存在がなく、その分のすべての感情がマリー・アントワネットに向いてしまったのかもしれません。(参考記事:【ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人】美貌と知性で愛人から国政へ)

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あとがきにかえて

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (大人になったマリー・アントワネット)

マリー・アントワネットの父母はこの政略結婚時代にはめずらしく恋愛結婚でした。 父母に憧れ旦那となるベリー公の肖像画がおくられてきたときも、「まるで騎士のような方だわ」と気に入り、マリーは「自分も好きな人と結婚して、幸せになるのだ」と妄想にふけっていたといいます。それを見た母マリアは、

1747年、皇帝夫妻とヨーゼフ あなたがいま考えていることは現実とはまったく違うことです。肖像画からわかるのは外見だけですよ。そして結婚においては、外見より中身の方がずっと大切なのですあれこれ想像するのをお辞めなさい。現実がみえなくなってしまいますよ (画像:1747年、マリア・テレジアとヨーゼフ夫妻)

と忠告したといいます。はからずも主役を演じさせられることになった悲劇のもっとも美しい例が「マリー・アントワネット」だといわれています。もしルイ16世の兄が死なずに生きていたら、もし嫁いだのがマリーではなかったら、もしベリー公が早く手術をしてすぐに子供ができていたら。本当に些細な偶然の積み重ねがこの「大きな悲劇」をうみだしてしまったのか、元々こういう運命が決められていたのか。「フランス王妃のままで死にたい」と最期に決意を決めたマリー・アントワネットの強さも人々を魅了する要素なのかもしれませんね。(晩年の王妃への批判についてはこちらの記事:【陥れられた王妃】マリー・アントワネットの首飾り事件にまとめております)

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