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【マリー・アントワネット最後の覚悟】逝くならフランス王妃のままで

2020/04/29
 
【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

名門スペインハプスブルク家の末娘、マリー・アントワネット。運が良いのが悪いのか、いつのまにかフランス王のお妃に。ヴェルサイユ宮殿で贅沢な生活もつかの間、市民や貴族の反感をかい、フランス革命に巻き込まれ、最後は処刑されるというなんとも激しい人生

母国に亡命する選択肢もありましたが自分はフランス王妃ですから運命を受け止め夫と同じくギロチンで首を落とされた誇り高き王妃様。この記事では最も美しい悲劇と呼ばれた「マリー・アントワネット」の生涯を紐解いていきたいとおもいます。

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Contents

マリーアントワネットは、なぜフランスへ嫁ぐことになったのか

幸せの大公女、女帝マリア・テレジアの末娘

マリー・アントワネットの最後

オーストリアの国母と慕われた女帝マリア・テレジアは、1755年オーストリア首都ウィーンで可愛らしい女の子を出産しました。彼女は16人の子供を産みましたが、その末娘こそマリー・アントワネットです。

マリー・アントワネットの最後 雪のように白く、真珠のように輝きのある肌に豊かな頰。これは私のお母様に似たのね。この子にとってきっと宝物になるわ。長い顎と突き出した下唇はハプスブルク家からの贈り物物事に不満を持たず、いつも微笑んでいる子に育てましょう。そうすれば下唇が目立たずにすむわね (画像:マリア・テレジアと子供達)

ときに、マリア・テレジア38。わずか23歳で広大な領土をもつハプスブルク家の当主となり、父が死んだ時は何もわからなかった彼女ですが、逆境のなか苦難を背負い努力と信念によって、有能な政治家への道を切り開いてきました (参考:【オーストリアの国母】史上唯一の女帝、マリア・テレジア)

 

無邪気な子供時代、マリーアントワネットとモーツアルト

マリー・アントワネットの最後

マリー・アントワネットは、音楽家モーツアルトと宮廷で遊んだこともあったそうです。1762年晩秋オーストリアのザルツ・ブルクに降り立ち、離宮シェーンブルンへ訪れたモーツァルトは、臆することなく自作のメヌエットを披露したり、目隠しでピアノを演奏するなど、圧倒的な神童ぶりをみせたといいます。

マリー・アントワネットの最後

庭で遊んでいたときに滑って転んだモーツアルトに手を差し出したマリー・アントワネットそれをみたモーツアルトが「やさしいね、ありがとう。ぼくのお嫁さんにしてあげる」とプロポーズをしたという、微笑ましいエピソードも残っています。もちろんそんな将来はありませんでした、だって彼女はのちにフランス王妃になる運命なのですから。

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全ての始まりは仏蘭露の女帝3人による、ペチコート作戦

ペチコート作戦を図解 (マリー・アントワネットの最後)

オーストリアとフランス300年もの間敵対していたのですが、イギリスとプロセインが手を組んだことで形成は一気にかわります。プロセイン王国のフリードリッヒ2(女嫌い) は、自国を強国に押し上げた英雄でもありました。「敵の敵は味方」という歴史のことわりに従い、仏蘭露の女帝3人による「プロセイン包囲網 (ペチコート作戦)」がつくられることになったのです。

そしてこの付帯条件に、フランス王家とオーストリア公家の縁組が含まれていたのです。今まで争いはありましたけれども、これからは仲良くやっていきましょうという平和の証に婚姻を結ぶことを約束したのでした。(参考記事:【ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人】美貌と知性で愛人から国政へ)

 

フランス王家と、オーストリア公家の友好の証として

マリー・アントワネットの最後

婚姻にさいしてフランス側から提示されたのは国王の孫である、ルイ・オーギュスト (1754年誕生)でした。そこで母帝マリア・テレジアがオーストリア側からの花嫁候補としたのが (1755年に誕生した) マリー・アントワネット彼女の運命は1歳にも満たない時点で

  • 14歳になったらフランスへいき
  • マリー・アントワネットと呼ばれて、人生を全うすること (オーストリア読みだとマリア・アントニア)

と、ほぼ決められていたのでした。

 

甘えん坊で自由奔放な、マリー・アントワネット

マリー・アントワネットの最後

しかしそんなことは知らぬとばかりに、幼いマリーは自由奔放に、のびのび育っていきます養育係をごまかして宿題をやらず、他人を意のままに動かすお姫様っぷり

生涯1冊の本も読み通したことがない、といわれる彼女ですが、筆記は苦手で、父に似たのか訛りの強いドイツ語をつかっていました。さらに「私はフランスでなくてもドイツ語が話せるところなら、どこでもいいわ。楽しく過ごせればどこでもいいの」というなんとも能天気な発想。

 

なんといっても、15番目の子供

マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟

気が散りやすいのは能力の問題ではなく、環境にあるのではといわれています。姉が次々と繰り出す遊びに気を取られ、命令に従わされあっちへこっちへいくのはっ子の宿命でしょうか…..環境の力は大きく、集中力がかけやすく勉強の成果がでない。これ幸いといいますか唯一得意だったのはフランス史だったといいます。

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母の不安、マリーに王妃がつとまるのか

マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟

そんな伸び伸びしたマリーをみて、母マリア・テレジアは頭を悩ませていました

「なぜフランスがわざわざオーストリアから嫁をもらうのですか。300年も敵国ですし、色々恨みもありますのに」、とフランス王太子妃であるマリー・ジョセフは、この婚姻に大反対。さらにいままでマリア・テレジアが婚姻の話しをしてきたポンパドゥール夫人が過労で亡くなりさあ困ったことに…

マリー・アントワネットの最後 (ルイ16世)

この時点でルイ・オーギュス(のちのルイ16世)は、王位継承権2位でしたつまり次のフランス王候補です、フランス側が花嫁選びに慎重になるのも、最もだったのかもしれません。

 

とはいえ、フランス王妃までは予期していなかった

マリー・アントワネットの最後

一時はどうなるかと思われた婚姻ですが、ついに1769年フランスから、婚約申し込みが届きました。母マリア・テレジア「娘が王家に嫁ぐ」ことは画策はしていましたが、娘がフランス王太子妃になることは想像していませんでした。

あれこれ外交した彼女の努力で婚姻は確実なものになりましたが、「この子に果たして王妃がつとまるのか、国を支える力があるのか」マリア・テレジアは母として不安になりますが、もうここまできたら戻ることはできない準備は着々と進んでいったのでした。

 

母マリア・テレジアから娘への忠告

マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟 

婚約が決まるまでに時間を要し、色々な不安もありましたが、結果として婚約は順調に進み、母マリア・テレジアは安堵したといいます。そして今後の懸念にそなえ、娘アントワネットを寝室に呼んで、

  • この結婚がヨーロッパの安定上、いかに大切か
  • つい最近まで敵国だったということを忘れず、
  • 宮廷内にいる「反ハプスブルク勢力」を刺激してはならないこと

反感をかわないよう慎ましく生きていくことがいかに大切か、を懇懇と説いたといいます。輿入れ前も、フランス宮廷へはいったあとも手紙のやりとりにて、母はずっと娘へ「立ち位置をわきまえ、しっかりするのですよ」と言い続けたといいます。

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マリー・アントワネット ついにフランスへ

マリー・アントワネットの最後

1770年、14歳にして花嫁となったマリー・アントワネット花嫁の引き渡しは、オーストリアとフランスの中間地点 国境を流れるライン川の中州で行われました中洲にはそのためだけに、簡易宮殿が作られました。そしてなんとこれをドイツの文豪ゲーテが目撃していました。

 

ドイツの文豪ゲーテがみたマリーの引き渡し場面

マリー・アントワネットの最後

簡易宮殿の壁にかけられたゴブラン織の布、絵の題材はギリシャ神話の王女メディアでした。それは『王女メディアが、自分を裏切った夫との間の子供、新妻をも殺してしまうという禍々しいストーリー』。おそらく無知な役人が「ただ布の大きさがちょうどいい」というだけで選んだのだと思われますが、なんという不吉な絵を壁にかけるのかそれを見たゲーテは思わず、

ゲーテの肖像画 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟)これはひどい。若い皇女がお輿入れなさろうとするときに、戦慄すべき結婚の例をお目にかけるとは。絵が感情や感覚にうったえ、予感を引き起こすものとは知らないのか  ( 画像:ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画))

と叫んだといいます。一方で役人たちは身体の不自由なものや病人は花嫁行列の通る道に姿を見せぬようと国中にせっせとおふれを出していたというんですから、ちゃんちゃらおかしいといいますか、それはゲーテが呆れるのも無理がありません。

 

マリー・アントワネットのなんとも不吉な結婚式

マリー・アントワネットの最後

未来を暗示するかのように、結婚式でも縁起の悪いことが続いたといいます。ヴェルサイユの礼拝堂における式で、アントワネットは結婚契約書にサインをしましたが、ぽたりとインクをたらし名前の上に大きな染みを作ってしまい、

マリー・アントワネットの最後 (筆記が得意でなかったのもあり、右下にさがっているのがわかる)

夜には史上最大の花火が打ち上げられる予定だったのに、晴れた空にいきなり暗雲がたちこめ雷鳴轟くという始末。改めて日を変え行われた花火の祭典では衆があふれかえり、混乱で100人以上の死者がでたのでした。これから起こる悲劇への前兆か、はたまた偶然か…..

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フランス国民の歓迎

マリー・アントワネットの最後 (フランスにて手厚い歓迎をうけるマリー・アントワネット)

一般的に浪費癖と、恨みつらみで残酷な最期を迎えた悲劇の王妃として知られている彼女ですが、『未来の王妃』としてマリー・アントワネットがフランスへ輿入れした際、多くの国民は『平和の象徴だ』として大歓迎したといいます。というのも、

  • アントワネットは卵形の顔立ちで、なめらかな白い肌
  • 生き生きした瞳と、鷲鼻は貴族的で美しく、
  • ハプスブルク家特徴の受け口も彼女の場合「かわいい」とされたのです

マリー・アントワネットの最後

なにより引き締まった身体と、軽やかな身のこなし、生まれついての女王たる態度は、粗探しの得意な宮廷人たちをも感服させとほどだったといいます。もちろん母帝からは「調子に乗らぬよう」忠告がはいっていたのでしょうがさて、どうなるやら。

 

母帝の忠告をすっかり忘れて、舞い上がるマリー

マリー・アントワネットの最後

散々母マリア・テレジアに「フランス語をきちんと話し、反ハプスブルク家派を刺激しないように」と散々いわれてきたアントワネットでしたが、「とくに努力をせずとも、自分の存在自体がどうやら人々に満足を与えるらしい」と思うやいなや、

  • もともとの怠け癖に身を任せ、
  • 宮廷儀式を窮屈だと無視して、遊びほうけ
  • 芝居に、仮想舞踏会豪華な衣装に宝石にうつつを抜かし、敵も味方もどこへやら

「世継ぎ」をのぞまれるが子はできず、エネルギーを持て余していたのでしょう。

 

子ができず、時間を持て余したマリーは散財の道へ

マリー・アントワネットの最後 (王妃となったアントワネット (1775年))

ただこれは単にマリー・アントワネットのせいだけではなく、多産 (なんと母は16人の子供を授かった) 家系であること、健康な肉体をバックにもち「早く世継ぎを」という周囲のプレッシャーそもそもマリーのせいではなく、子ができないのは夫ルイ16世の肉体的欠陥のせいであったといいます。手術をすればすぐに治るものでしたが恐れのあまり先延ばしにし、王が勇気を持って手術を受けたのは7年後でした。そしてうやく2人の間に子供が産まれたのです。

マリー・アントワネットの最後

こちらはマリーとその子供たちを描いた絵画です。女盛りをむかえた王妃のうつくしさ、子供達の愛らしいしぐさ、スカートに毛皮やレースの繊細な描写。何も知らない人からみれば、”やさしく我が子を抱く家庭的な王妃”ですが、市民にとってはこれはただの見せかけにすぎませんでした。

マリー・アントワネットの最後

国民が食べるものに困っているのに、「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない(反マリー派が流した作り話といわれる) 」と言い放つ贅沢だらけの王妃を誰が今更気にかけるのか、人々の怒りはたまっていくばかりでした。

 

マリー・アントワネットの空虚な7年

マリー・アントワネットの最後

しかしこの7年間は、マリー・アントワネットの人生を狂わせるのに充分すぎたといえるでしょう。マリーの軽率な行動の繰り返しは周りを失望させ、市民からも冷たい目を浴びるようになりました。労働者、農民の暮らしは非常にきびしいものとなっており、豪華絢爛な生活を送る宮廷で世継ぎがうまれても、お祝いする気分にはとてもなれませんでした。そもそも国庫は、

のおかげでいまや空に近い状態でした。しかし課税しようと提案すれば、貴族からも市民からも大反対が起きる。だからといって王が為す術もなく手をこまねいているうちに、経済はさらに悪化していきます。

マリー・アントワネットの最後

なんとかせねばと施策をめぐらすカロンヌが財務総督。しかしやむなく「宮廷費の一部を高等法院に報告しなければならなくなった」のが悲劇のはじまり。王族の散財ぶりが市民へ知れ渡り、怒りの矛先は(赤字夫人と呼ばれた)マリー・アントワネットむいたのです。

 

全ての不満はマリーとルイ16世へ

マリー・アントワネットの最後

マリー・アントワネットに向けられた悪質な噂、友人をひいきして大臣へとりたてた、衣装代で国を潰すなど、根も葉も無い噂も多かったといいます。自業自得なものもあれど「首飾り事件 (マリーをよく思わない伯爵夫人に陥れられた) 」など、そこまでしなくてもというものもありました。

  • 7年間なりをひそめていた反オーストア派と、
  • 反ルイ16世派 (玉座をねら弟や従兄弟)
  • 反アントワネット (彼女に疎んじられた貴族たち)

に宮廷街の反王政派もいっしょになり、王と王妃に襲い掛かったのです。決断を欠いた王と、ようやく王位継承者の母として、王妃の自覚を持ち始めたばかりのマリー。そんなとき、彼女がいちばん必要としていたときに偉大で賢明な母マリア・テレジアはすでにこの世を去っていました。宮廷の外では貧困が深刻化し、農民や労働者の食事の困窮はさらにひどくなっていきました。

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そしてフランス革命

たまりたまった国民の不満がついに爆発

マリー・アントワネットの最後

そしてとうとう「あの日」が近づいてきます。17897月、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄の襲撃をきっかけにフランス革命が勃発します。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せました。そしてルイ16世とアントワネットはパリへ幽閉されてしまいます。

 

国王の処刑と、アントワネットへの残虐な処遇

マリー・アントワネットの最後(収監されたルイ16世)

議会の投票の結果わずか1票差で処刑がきまり、1793年1月、ルイ16世は処刑されましたさて、アントワネットと子供達はどうなったのか。

マリー・アントワネットの愛くるしい娘たち (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (マリー・テレーズ 画 アドルフ・ヴェルトミュラー)

女マリー・テレーザは家族と引き離され、2年余り幽閉されました。人質交換で2年後に母の母国オーストリアへ戻った時には、口が聞けず、失語症のような状態になっていたといいます。ただある意味では生き残った女の子でした。あどけなかった少女ですが、母親に似て美しく成長します。

マリー・アントワネットの愛くるしい子供達 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟)

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うしたともいえます。そして王位継承者であったルイ・シャルル、こちらもまだあどけない男の子です。

ルイ・シャルル (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (ルイ・シャルルの肖像画) 

狭い独房に閉じ込められ、放置され10歳の生涯を終えました。幼く愛くるしい彼自身がなにをしたわけではないのですが、人とは思えない扱いをむけ、処刑ではないものの、ある意味では処刑よりもむごい最期を迎えました。(子供たちについてはこちらに:【恐怖の監禁生活 | マリー・アントワネット】の子供はどうなったのか)

 

幽閉されたマリー・アントワネットのことば

幽閉中の王妃 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (幽閉中の王妃 マリー・アントワネット)

次々と見せつけられる身近な人たちの残酷な死、マリー・アントワネットの髪の毛は、一夜にして真っ白になったといわれています。そのときの彼女の言葉が残っています。

不幸になってはじめて、自分が何者なのか、本当にわかるものですね

彼女の母国は、オーストリア。それも名門オーストリアハプスブルク家彼女だけなら母国に帰ることもできたのでしょうが、彼女はフランスにて運命を共にすることを決めたのでした。

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マリー・アントワネットのギロチン処刑

処刑台へとむかうマリー・アントワネット (フランス王妃の最後) (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいます。乗せられたのは、「動物用の荷車」。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りにとらわれた市民からの罵倒が飛び交いました。(のちにナポレオンのお気に入りとなる) ダヴィットが最期のマリー・アントワネットの姿をスケッチしていました。

処刑前の王妃の様子のスケッチ(マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (処刑前の王妃の様子のスケッチ 画:ダヴィッド)

ギロチンの刃が上すべりしないようにと髪の毛を切られて、革命広場で皆があつまるなか座らされるアントワネット。いつでも美しく着飾っていたアントワネットにとって、それがどれだけ屈辱だったか。あれだけ綺麗だった王妃の顔にはシワが描かれ、一瞬惨めさが伝わってくるのですが、それと同時に “運命を引き受けた王妃の最期の覚悟” も伝わってくるのでした。

王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑)

ギロチン台の置かれた広場へつき、毅然とした態度で処刑台に上るアントワネット。その死に方は見事なものだったといわれています。(子供たちの最期についてはこちら【恐怖の監禁生活 | マリー・アントワネット】の子供はどうなったのかにまとめております)

 

なぜマリー・アントワネットに批判が集中したのか

マリー・アントワネット1788年の肖像画 (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (1788年 マリー・アントワネットの肖像画)

夫のルイ16世は歴代の王たちと違って「愛妾 (ポンパドゥール夫人のような公式な愛人) 」をもたなかったため、マリー・アントワネットが不満の受け口になってしまったのではないか、という見解もあります。愛妾は大抵、大勢いる王の相手からただひとりが選ばれ、

  • 王妃より広い居室があたえられ
  • 特別行事を除いて、宮廷の華やかさを独占し、
  • 政策の失敗、赤字が重なればアイツのせいだと叩かれる

愛妾 (王の公的な愛人)は、全ての憎悪のはけ口にもなっていたのです。

モンテスパン侯爵夫人(マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) (ルイ14世の愛妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ)

一見どうなのかと思えるこの制度が同情をひき、いろんな意味で王妃をまもってきたのかもしれません。公式寵姫がいなかったルイ16世、もちろん歴代の王の失態の積み重ねとタイミングの問題も色濃いですが、「不満の受け口」になるような存在がなく、その分のすべての感情がマリー・アントワネットに向いてしまったのかもしれません。(参考記事:【ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人】美貌と知性で愛人から国政へ)

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あとがきにかえて

マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟 (大人になったマリー・アントワネット)

マリー・アントワネットの父母は、この政略結婚時代にはめずらしく恋愛結婚でした。 父母に憧れ旦那となるベリー公の肖像画がおくられてきたときも、「まるで騎士のような方だわ」と気に入り、マリーは「自分も好きな人と結婚して、幸せになるのだ」と妄想にふけっていたといいます。それを見た母は、

1747年、皇帝夫妻とヨーゼフ (マリー・アントワネットの最後 フランス王妃の覚悟) あなたがいま考えていることは現実とはまったく違うことです。肖像画からわかるのは外見だけですよ。そして結婚においては、外見より中身の方がずっと大切なのですあれこれ想像するのをお辞めなさい。現実がみえなくなってしまいますよ (画像:1747年、マリア・テレジアとヨーゼフ夫妻)

と忠告したといいます。

はからずも主役を演じさせられることになった悲劇の、もっとも美しい例がマリー・アントワネットだといわれていますが。しルイ16世の兄が死なずに生きていたら、もし嫁いだのがマリーではなかったら、もしベリー公が早く手術をしてすぐに子供ができていたら。

本当に些細な偶然の積み重ねがこの「大きな悲劇」をうみだしてしまったのか、元々こういう運命が決められていたのか「フランス王妃のままで死にたい」と最期に決意を決めたマリー・アントワネットの強さも人々を魅了する要素なのかもしれません。(晩年の王妃への批判についてはこちらの記事:【陥れられた王妃】マリー・アントワネットの首飾り事件にまとめております)

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フランス歴史に刻まれる王たち

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

Comment

  1. ぼにぼに より:

    私もヨーロッパの歴史が好きで、小説を読み漁りました。
    各々の家系を交え簡潔に纏められていて非常に解り易かったです。
    世界史に載せて頂きたい位です。
    私もマリーアントワネットの生涯から世界史に興味を持ち、ブログ様の仰る事に至極同意致します。
    末っ子でなかったら。
    もう少し年齢を重ねていたら。
    16世が女性の尻に敷かれなかったら。

    お二方共、ごく普通の貴族なりであったら幸せな人生だったのではないかな。と考えてしまいます。

    • Naa より:

      ものすごく嬉しいコメント、ありがとうございます。
      ヨーロッパの歴史はハマり始めると、本当に面白いですよね、とてもお気持ちわかります。
      「お二方共、ごく普通の貴族なりであったら幸せな人生だったのではないかな」本当にその通りだとおもいます。
      もし生まれ変わりがあるのなら、今度は普通の人生を満喫していたらいいなあ、と思います : )

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