Wise man learns from History.

マリー・アントワネットがギロチンにかけられるまで

2020/09/07
 
マリーアントワネット
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ルイ16世を処刑されてから数カ月後の1793年8月、起訴されたマリー・アントワネットは「長く苦しませないでほしい」と求めましたしかし実際はどうかというと、死刑執行まで2カ月以上もみじめな暮らしを続けることになりました。この記事では、マリー・アントワネットがギロチン処刑にかけられるまでの最後の日々をおっていきます

スポンサーリンク

マリー・アントワネットの最後の日々

幽閉中のマリー・アントワネット

私は女王だった。あなたは私の王冠を奪った。あなたは私の夫を殺した。あなたはわたしから子供たちを奪った。残っているのはわたしの血だけ。それも取ってもかまわない、でも私を長く苦しませないで。I was a queen, and you took away my crown; a wife, and you killed my husband; a mother, and you deprived me of my children. My blood alone remains: take it, but do not make me suffer long (quote by Marie Antoinette)

この言葉は、検察官が起訴状を読んだ後のマリー・アントワネットが口にしたものだと報告されています。しかし元王妃はこのあとパイプの煙やネズミの尿劣悪な衛生設備の臭いがする騒々しいかびた地下牢で裁判と処刑の2カ月半前を過ごすことをまだ知りませんでした。

 

タンプル塔での牢獄生活

幽閉中のマリー・アントワネット

マリー・アントワネットは娘のマリー・テレーズと義理妹エリザベートから引き離され、パリのタンプル塔の牢獄にいれられました。夫ルイ16世は早くに処刑され、王太子ルイ・シャルルは1ヶ月も前に連れて行かれたままで、元王妃の独房は中庭より下に位置していました。煉瓦タイルの床は泥だらけのぬめりで覆われていて、塔がセーヌ川に近いせいで壁からは水が滴り落ちていました

幽閉中のマリー・アントワネット

女王はむきだしの壁を見つめ、ベッドに足を伸ばしました。地下牢にはベッド用の藁の束がいくつか用意されていましたが、彼女の部屋にあるのは折り畳み式の簡易ベッドで、看守は「それすらお前にはもったいない」と言い放ったそうです。

スポンサーリンク

元王妃が閉じ込められた部屋

幽閉中のマリー・アントワネット

しかし当時の刑務所長であるトゥーサンとマリー・アン・リチャードは、慈悲深いことでで知られており囚人にも敬意と配慮を示しました。彼らは大きな危険を冒してマリー・アントワネットに小さな慈悲を与えました。枕、2つの藁の椅子がある小さなテーブル、小さな木箱とポマードのブリキの鍋です。

王妃と看守はつねに監視されており、女王と2人の衛兵とを隔てるのはパーテンションだけで、彼らは一日中酒を飲み、タバコを吸いトランプをしていましたマリー・アントワネットの収監中の生活費は綿密に記録されていました。

 

脱獄を試みた、カーネーション事件

幽閉中のマリー・アントワネット

1793年8月28日、王党派シュヴァリエは、花びらにメッセージを巻いたカーネーションを女王の独房に落としましたこれはカーネーション事件として知られる事件の最初の事件で、目的は元王妃の脱獄でした。そこには「また金曜日にきます」といったメッセージが曖昧に書かれていました。元王妃はピンを使って「誰とも話せません。私はあなたを信頼しています」というメッセージを返しました。

タンプル塔

計画を実行は実行に移されますが賄賂を受け取っていた警備員が直前になって反対し計画は失敗、元王妃は独房に戻されてしまいました。以降マリー・アントワネットの扱いはさらに厳しくなりました。部屋が寒くマリー・アントワネットが毛布を求めても認められず、供給物はすべて検問を通らなければなりませんで

スポンサーリンク

迫りくる処刑の日

独房できいた死刑宣告

マリー・アントワネットの裁判

マリー・アントワネットの裁判は長く、10月14日に15時間のセッション、10月15日から16日にかけて24時間のセッションから始まりました。マリー・アントワネットは牢獄で10週間過ごすも、その生涯は刻々と終わりに近づいていました陪審の評決は肯定的で、彼女が死刑宣告を聞いたのは午前4時半。彼女は一言もしゃべらなかったといいます。

 

王妹エリザベートへの遺言

幽閉中のマリー・アントワネット

警備員がマリー・アントワネットを独房に戻した後ペンと紙を求めルイ16世の妹エリザベートへ手紙を書きました。しかしこれは看守たちにより握り潰され、彼女のもとへ届くことはありませんでした

letter and pen最後に手紙を書きます。私は、これは犯罪者が待つだけの悪名高い死ではなく、あなたの兄弟の元へいき再び加わることだと思っています。無実の彼が最後に見せたのと同じくらいの強さを見せようとおもいます。私はかわいそうな子供たちを残すことがひどく悲しいです。私はあなたと子供達がいなければ生きてはいられなかったでしょうー 私たちといるためにすべてを犠牲にしたあなたへ I write to you, my sister, for the last time. I have been condemned, not to an ignominious death – that only awaits criminals – but to go and rejoin your brother. Innocent as he, I hope to show the same firmness as he did in his last moments. I grieve bitterly at leaving my poor children; you know that I existed but for them and you – you who have by your friendship sacrificed all to be with us.

スポンサーリンク

マリー・アントワネット、処刑の日

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

翌1793年10月16日 午前11時、処刑人のサンソンが現れます。刑務所長夫人マダム・ボーは、サンソンが女王の髪を切ったこと、そして女王が後ろを振り返って死刑執行人が髪の毛をポケットに入れているのを見たことを確認しました。

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

午後12時30分、マリー・アントワネットは革命広場のギロチンに連れて行かれました

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

元王妃の頭が落ちた後、それを群衆に示し彼らは「共和国万歳!」と叫んだのでした。

スポンサーリンク

知っておきたい知識

マリーアントワネットの子供達

マリー・アントワネットルイ16世との間には2人の子供が残され、後見人もつかないまま、革命派に従うしか道は残されていませんでしたマリー・テレーズはひとりタンプル塔の部屋に閉じ込められ、弟ルイ・シャルルことルイ17世は「共和政府の考えを学びなさい」と独房へおくられました。

フランス革命から生き延びたのは、長女のマリー・テレーズだけでした。彼女は誰とも会話がないまま2年間を息抜き、最終的に国同士の交渉をへて母の故郷オーストリアへと逃げることができました。しかし王太子は革命派のいじめを受け、また衛生状態のわるいために病気にかかり幼くして亡くなってしまいます。ルイ16世マリー・アントワネット、エリザベートの死因はギロチンによる処刑、王太子は結核だったといいます。実際に彼女たちの命を奪ったのはギロチンですが、本当に彼女たちを殺したのは『革命派や市民の声』だったのかもしれません。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

参考文献

  • https://www.historyextra.com/period/georgian/the-final-days-of-marie-antoinette/
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Marie_Th%C3%A9r%C3%A8se_of_France

スポンサーリンク

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です