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【フランスの恐怖政治】血塗られた革命者 ロベスピエール

2020/05/05
 
ロベスピエール
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

フランス革命が勃発してから5年後、革命政府は『革命の敵』と疑われる者に対しては、聖職者・貴族・平民身分を問わず厳しい措置をとりました。パリではロベスピエールの指揮のもと、次々と人々がギロチンにかけられましたし、地方では監視委員によって静粛がはかられました

フランス革命 (年表)

フランスを恐怖をもって支配したロベスピエールの治世。この記事では、国王ルイ16世が処刑され、革命政府が主導権を握った時代の『恐怖政治』をみていきたいとおもいます。

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フランス革命での恐怖政治

事実上の独裁者となった、ロベスピエール

ロベスピエール

フランス革命で王が処刑され混沌するなか、ロベスピエール派により行われた恐怖政治。革命反対派、穏健派、過激派など、反対派の人物が次々と処刑されていきました。ダントン、カミーユ・デムーラン、エベール、ラヴォアジェ、リュシル・デュプレシなど、処刑された人物は、数知れず、フランス国民を恐怖にいたらしめました

 

裁判にかけることなく、次々と処刑

ロベスピエール

恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では2万人あまりが処刑されました。ギロチンによる処刑が多かったのですが、銃殺もありました。プレリアール22日法の制定によって司法手続きが大きく簡略化されたため、『正統な裁判』を通さない死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるといわれています。

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混乱にわくフランス

地方にも反革命派の静粛の波が

ロベスピエール

中央のパリでロベスピエール率いるジャコバン派が主導権をとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所がありました。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清をはかりました。これに対する反革命派の抵抗によりフランス全土は内戦状態に陥ります….

ヴァンデの反乱

内戦により、ヴァンデ、リヨン、トゥーロンでは、革命軍による虐殺が起きました1793年3月、30万人募兵令に反発する農民たちの蜂起、国民公会を危機に陥れたヴァンデの反乱は同月の終わりまでにほぼ鎮圧され、生き残ったのは、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうちわずか4、5千人であったといわれています。

 

革命政府に暗雲が立ち込め….

Maximilien_Robespierre(ロベス・ピエール)

1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行ないました。矛先はまずダントン派に向けられました。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚(インド会社事件)、1794年1月13日、詩人ファーブル・デグランティーヌは逮捕され、外国人から収賄している議員の名前が暴露されましたこれにより議員や銀行家、投機家が逮捕され、革命派の中でも殺し合いが起こっていくのでした。

おの

翌月ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という演説を行い、革命政府を擁護しました。2月末から3月初め、サン・ジュストが、民衆運動を味方につけようと反革命派の土地を没収し貧困者に無償で配分する、ヴァントーズ法を提案を提案それに異議を唱えたエベールなどの過激派は、3月23日外国人と通謀したなどの罪で処刑されました。

エベールらの処刑を図解

サン・ジュスト

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革命政府内の争い

ダルトン、ロベスピエールと対立

 

ジョルジュ・ダルトン (ジョルジュ・ダルトンの肖像画)

同じく革命の山岳派を率いてきたジョルジュ・ダントン。ジロンド派追放後の1793年以降はダントン派(穏健派)を結成し、恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放を呼びかけてきましたが、1794年1月にロベスピエールが激怒したインド会社事件 (横領事件) にダントン派に属する議員がかかわってきたことで出鼻を挫かれてしまいます。その後、ロベスピエールは盟友のダントンを排除することを決定し、国民公会でダントンの逮捕が決定され、3月30日にダントンはカミーユ・デムーランらと共に逮捕されました

 

ロベルピエール、次はお前の番だ

ダントンは裁判でも持ち前の雄弁をふるい判事も無罪に傾きかけたのですが、妨害などの圧力がかかり死刑判決がくだりました。ロベスピエールの家の前を通りかかると「次はお前の番だ」と叫び、最後まで堂々とした態度で処刑されました。ときにダントン34歳。最後の言葉は俺の頭を民衆によく見せてやれ、これだけの頭は滅多にないぞだったそうです。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、首切り役人(死刑執行人)は、言われた通りダントンの首を高々と差し上げて群集に示しました。

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恐怖政治の終焉

革命政府内のたえない争い

ロベスピエール

一向に自由にならないし、争いばかりで落ち着く気配もない、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていました1794年春にエベール派とダントン派が粛清されるとジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようとしました。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員も、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策しており、革命政府は二進も三進も行かない状況に陥っていたのです。

 

ロベスピエールの処刑

ロベスピエールの処刑 (ロベス・ピエールの処刑を描いた図)

ロベスピエールに対する批判はふくれあがっていき、翌7月28日、革命裁判所の検事アントワーヌはロベスピエールらに死刑の求刑を求め裁判長より死刑判決が下されました。皮肉にも彼は、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた人物でありました。そして1794年7月28日、ロベスピエールの死刑執行をもって10ヶ月に及んだ恐怖政治はようやく終了したのでした。

あとがきにかえて

フランス革命

テルミドールとは、革命時制定されたフランス革命暦で「熱月」を意味します。この事件により実質的に一連のフランス革命は終焉したとされ、市民革命は終わりを告げました。ちなみに、革命暦は後にナポレオン・ボナパルトにより廃止されています。戦術に長けたこの若き将校は国民一致の投票をもって、フランスの頂点に君臨することになります。

もしロベスピエールが胸に理想を描き、国民のために力を尽くそうとしていたときに出会えたらいい友達になれたかもしれない、ナポレオンはいったそうです。最初は自由と友愛を平等にするためにはじめた革命、しかしいつの日か力は暴走し多くの人の命が結果として奪われました力を持ったときこそ、人はより慎重に動かなければならないのかもしれません、その先に良い結果を求めるのならば尚更。革命についてはこちらの記事 (【フランス革命とは何だったのか】わかりやすい世界史) に詳しくまとめております。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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