2019年オーストリアとの国交150周年を記念して『ハプスブルク展』が開かれ、600年にわたる帝国コレクションが来日しました。そのチケットに印刷されていたのが、宮廷画家ベラスケスが描いた『青いドレスの王女』。
あどけない表情で愛らしい姿をみせるのは、中世のスペインハプスブルク家にうまれたマルガリータ王女です。この記事はこの愛くるしい少女マルガリータに纏わる3つの逸話をご紹介します。
マルガリータ王女
① 国王お気に入りのプリンセス
(2歳頃のマルガリータ王女)
マルガリータは、スペイン国王フェリペ4世と、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の娘であるマリアナの間に長女として生まれました。両親は実の伯父と姪の間柄(叔姪婚)で、マリアナは6人の子供を産みましたが、成育したのはマルガリータと末息子のカルロスだけでした。
マルガリータは父王の大のお気に入りで、ディエゴ・ベラスケスらの宮廷画家たちに彼女の肖像画を多く描かせました。『マルガリータは私の喜びである』と記した手紙も残っているほどです。弟のカルロスとは違い、マルガリータには幾重にも結ばれてきた近親婚の大きな悪影響は見られませんでした。
② 異常な死亡率のなかで、生き残った王女
(白いドレスの王女 マルガリータ)
栄光の時代を築き上げた宮廷ですが、もちろんマイナスな部分もあり近親交配による健康状態の悪さは相当のものでした。事実スペインの農民の乳児死亡率は約20%でしたが、ハプスブルク王室の乳児死亡率は30%と高いものでした。
さらに王宮であれどこの時代の衛生状態は悪く、オムツをかえずに放置することがよしとされるなど今とは違った養育をしていたので、乳幼児にとってはとても過酷な環境だったといわれています。
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③ 皆に愛された『小さな天使』
(参考:ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇 )
重ねられてきた近親交配、マルガリータと5代目皇帝となる弟のカルロス2世は信じられないほどの近交係数を持っていました。マルガリータの近交係数(近親交配の度合いを表す数値)は、親子間、兄弟間ででる数値の4倍だったといいます。弟カルロス2世にはその影響が顕著にあらわれたのですが、姉マルガリータには大きな影響はありませんでした。
若くして「まるで老人のようだ」と呼ばれたカルロスに反して、誰が見ても彼女は若く美しく見えたそうです。宮廷が『男児』にこだわらなければ、もしマルガリータが嫁がず女王としてスペインに君臨していたら歴史は変わったのかもしれません。(老帝フェリペはマルガリータが王位につかせることも考えたが、奇跡的にカルロスが誕生したのでその話しはなくなった…)
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さいごに
断絶間近のスペイン・ハプスブルク家に残った2人の子供たち。カルロス2世がいつ急逝してもいいよう、マルガリータは『王位継承者』のスペアとしての役割も果たしておりました。断絶危機を知って、スペインを狙っている諸外国の存在があったので、彼女の結婚は慎重にすすめられました
最終的に彼女は、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世のもとへ嫁ぎました。彼は父のいとこであり、母方の伯父というまたなんとも濃ゆい結婚でしたが、彼女は「伯父さま」と呼び彼を慕い、政略結婚が一般的な宮廷では比較的幸せな結婚だったといわれています。
(マルガリータと子供 マリー・アントニア)
そこまで顕著な影響はなかったものの、虚弱体質だったマルガリータ。6人の子供を出産しましたが、乳児期を生き残ったのは1人だけ、そして7人目を身籠るも亡くなってしまいます。
愛くるしいマルガリータが見られるのも、フェリペ4世が採用した宮廷画家ベラスケスのおかげでもあり、「父王のお気に入り」であったマルガリータの肖像画は数多く残されており、多くはプラド美術館に飾られています。マルガリータの人生については (【本当は怖い絵画】ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇) にまとめております。
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