【ディエゴベラスケス】 スペインハプスブルク家の悲劇を記録した宮廷画家

ディエゴ・ベラスケスハプスブルク家

スペインハプスブルク家に存在した至高の宮廷画家、ディエゴ・ベラスケス王フェリペ4世の寵愛をうけ、その類稀なる才能で王家の絵画を多く描き、名を知らしめた画家のなかの画家

彼がいなかったら、スペインハプスブルク家の悲劇はここまで語り継がれることはなかったのかもしれません。この記事では、大作『ラス・メニーナス』を描いたベラスケスをご紹介します。

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ディエゴ・ベラスケスとは

彼(ベラスケス)は、画家の中の画家なのです

19世紀に活躍した印象派画家エドゥアール・マネは、マドリットでベラスケスの描いた作品を見て、友人への手紙へこうしたためたといいます。

ベラスケスとマネ

芸術の庇護者といわれる国王フェリペ4世に寵愛されたベラスケスは1599年、スペイン南部のセビリアに生まれました。この地で画家フランシスコ・バチェーコに師事し、同じくセビリア出身の、王の寵臣オリバーレス公伯爵のつてを頼って1622年はじめて王の肖像画を描きました

フェリペ4世に寵愛された宮廷画家

ディエゴ・ベラスケス

仕上がりにめっぽう満足したスペイン王以後、王家の肖像画はすべてディエゴ・ベラスケスにのみ描かせよう」と言うほどの気に入りようでした。若き青年は24歳にして宮廷画家となり王の画家の称号を得のです。1628年にはマドリッドを訪れたフランドルのルーベンスと親しくなり、翌年にはイタリアへも赴きました。

ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像

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画家としてでなく、スペイン宮廷で重用されて

ディエゴ・ベラスケス

帰国するとベラスケスは、王宮の地下にアトリエを授かりましたフェリペ4世とは公私ともに親しくなり27歳のときにすでに王の私室取次ぎ役』になり、さらに『宮廷内警備』『国王の装飾係と重役を与えられていきました

ベラスケスに対する国王の信頼はあつく、45歳のときには『王の臣下にして友人』と評されるほどで、王の私室にも自由に入れるよう鍵を渡されていたといいます。53歳になるとベラスケス『王室配祀室長』に任命され画家としてでなく王室まわりの重要な役割を担いました

最大の名誉を獲得して

ラス・メニーナス (ディエゴ・ベラスケス)

さらに死の前年には念願かなって「サンティエゴ騎士団」の一員となりました。これは貴族の中でもっとも権威のある称号で、祖にコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)をもつベラスケスには並大抵のことではありませんでした

なかなか書類が揃わずに死の間際となったものの、フェリペ4世の力添えがあったといわれています。彼の代表作『ラス・メニーナス』に描きこまれたベラスケスの胸にある赤い十字は、王が付け加えたものであるという説も残っています。

1610年、王女マリー・テレーズとフランス王ルイ14世の結婚式を見事に取り仕切り成功させたベラスケス。しかし帰国した翌月、過労のために亡くなってしまいます享年、61歳でありました。

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まとめ

フェリペ4世の娘 マリー・テレーズ

手を使う仕事 (職人) の身分は当時高くはなく、身分制度が厳しく、しかもその最たる宮廷のなかで、職人が名をあげのぼりつめることは並大抵のことではありませんでした。

画家の中の画家と呼ばれ、筆を持って王に仕えた従者。ベラスケスはまさに、スペイン宮廷が生んだ至宝といえるでしょう。ベラスケスがいたからこそ、スペインハプスブルク家の名は、後世にこんなにも残り続けているのかもしれません。

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