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【イギリス王宮の歴史】ヘンリー8世が残した、3人の子女たち

 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

ヘンリー8世の嫡子であるメアリー、エリザベス、エドワードの3人は、いずれもイングランドの女王または王となりました彼らは英国の歴史と王宮の歴史の両方で重要な役割を果たしますが、彼ら自身には子供がおらず、最後に王女となったエリザベスの死によってチューダー朝は終焉します。この記事では、6人の妃を娶り、他の娘と結婚するためにカトリックとの断絶まで行ったヘンリー8世の嫡子、3人の人生を追って見ていきましょう

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① エドワード6世 (3番目の妃ジェーンとの息子)

  (エドワード6世 1537年生まれ 在位1547年−53年 画像引用元:Henry VIII’s children)

ハンプトン・コート宮殿で生まれ洗礼を受けたエドワードは、待ち望まれていたヘンリー8世と3番目の妻ジェーン・シーモアの息子でした。ヘンリーは幼い息子を抱いて涙を流し、数日後に王妃が出産後の合併症で亡くなった時も再び涙を流したといいます。

(エドワードと叔父のエドワード・シーモア 画像引用元:Wikipedia)

エドワードは、進歩的な考えを持ったケンブリッジの学者たちによって、非常によく教育されていましたケンブリッジの学者たちは、王子に宗教改革への欲求を教えこんでおり、彼は10歳になる前から、エドワードはラテン語、ギリシャ語、フランス語が堪能だったそうです。

 

わずか9歳でイギリス国王の座に (在位 1547年1月- 1553年7月)

(エドワード6世像 ウィリアム・スクロッツ画 1550年 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは9歳で即位しましたが、叔父のエドワード・シーモア (サマセット公)が、1550年に王位を追われるまで摂政を行なっていました

(エドワード・シーモア 妹のジェーンがヘンリー8世の3番目の王妃となってエドワード6世を儲けたことで栄進)

エドワードの治世には、英国社会の大きな変革の1つである英国宗教改革の基礎が築かれました。しかし彼は1552年に病気になり、翌年に15歳という若さで亡くなったため、エドワードは自分の宗教的計画の多くが、うまく実現するのを見ることはできませんでした。

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② メアリー1世 (最初の妃 キャサリンとの娘)

(メアリー1世 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世と、最初の妃キャサリン・アラゴンの間に生まれた王女です。結婚期間は24年間と長いものでしたが、生き残った子どもはメアリー・テューダーただ一人でした。かわいらしく、周囲が恵まれていると羨むほどだった彼女は、カトリック教徒の母親の指導も受けて、学究的な教育を受けました

(ヘンリー8世とメアリー 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世と母キャサリンの離婚後、メアリーの王位継承権を剥奪されますが、6番目の王妃キャサリンパーの後ろ盾により復活するのでした。

 

英国最初の女王  (在位 1553年7月- 1558年11月)

(画像引用元:Wikipedia)

メアリー1世は、自らの権利で統治したイギリスの最初の女王でした。エドワード6世はその短い治世を通じて、自らの推定相続人たるメアリーに対してカトリックの信仰を放棄するよう促し続けましたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶しました。

 

あだ名ブラッディ・メアリー (血に染まった女王) の由来

(メアリー1世 画像引用元:Wikipedia)

敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰しました。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれるようになったのです。

(画像引用元:Wikipedia)

1554年、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚しましたが、2人の間に子供はできず、メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で死去しましたメアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われたそうです。(※メアリーの夫のフィリペ2世は、有名な絵画『ラス・メニーナス』に描かれたマルガリーターの曽祖父でもあります)

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③ エリザベス1世 (2番目の妃 アンブーリンとの娘)

(エリザベス1世 画像引用元:Wikipedia)

エリザベスはヘンリー8世とその後妻アン・ブーリンの一人娘です。エリザベスがまだ2歳のときに母親は不倫と反逆の罪で処刑され、彼女は「庶子」として王位継承権を失いますが、6番目の王妃キャサリンパーの援護により、メアリーとともに宮廷に戻ることを許されます。

(キャサリンパー 画像引用元:Wikipedia)

彼女は育ての親となるキャサリンにとてもなつき、「大好きなお母様」と彼女を慕っていたそうです。ヘンリー8世が統治していた晩年、3人の子供が再び王位継承者に加えられ、最終的には、エリザベスは兄のエドワードと妹のメアリーが子供を残さずに亡くなった後、女王になりました。

 

生涯独身を貫いた、ヴァージンクイーン (在位 1558年11月- 1608年3月)

(エリザベス1世 画像引用元:Wikipedia)

ヴァージンクイーンの由来は、晩年に処女にしてイエス・キリストを産んだとされる聖母マリアを感じさせるような服装をしていたことや、一生独身だったことに起因しており、処女王は誤訳だとされています

(エリザベス1世『虹の肖像』1600年頃 老いを知らない女王を寓意画的に表現している 画像引用元:Wikipedia)

カトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が死去すると王位を継承しました。統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であったといわれています。彼女の統治の時代は「黄金時代」と呼ばれ、イギリスの経済力が成長し、科学、哲学、文化が栄えた時期でもありました。彼女は生涯独身を貫き、子供がいなかったため、チューダー朝は彼女とともに1603年に滅ぶこととなりました。(参考記事:【ヴァージンクイーン】エリザベス1世を知るための、7つのこと

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あとがきにかえて

(ヘンリー8世(左)とカール5世(右)と教皇レオ10世(中央)、1520年 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世は、6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会との断絶 (イングランド国教会の設立) でも知られていますローマと対立して、修道院を解散し、自ら国教会の首長となりますが、ローマによる破門のあとも、カトリックの教義への信仰は失わなかったようです。色々な人の運命が折り合い、混ざり合い、歴史ができていくのですね、王となり、王女となったヘンリー8世の3人の子女たちを育てあげてたのが、彼の最後の妃となったキャサリンパーです。彼女の記事についてはコチラ(【ヘンリー8世の子女を育てた 優しく聡明な王妃】キャサリン・パー)をご覧ください。

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