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【イギリス王宮の歴史】ヘンリー8世が残した、嫡子たちの運命

2020/03/27
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ヘンリー8世の嫡子として残されたのは、メアリー、エリザベス、エドワードの3人でした。いずれもイングランドを統治することになります。彼らは英国の歴史と王宮の歴史の両方で重要な役割を果たしますが、しかし彼らには子供がおらず、最後の女王エリザベスの死によってチューダー朝は終焉します。この記事では、ヘンリー8世の嫡子、3人の人生を追って見ていきましょう。

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① エドワード6世 (3番目の妃ジェーンとの息子)

  (エドワード6世 1537年生まれ 在位1547年−53年 画像引用元:Henry VIII’s children)

ハンプトン・コート宮殿で生まれ洗礼を受けたエドワードは、待ち望まれていたヘンリー8世と3番目の妻ジェーン・シーモアの息子世継ぎを待ち望んでいた王は、幼い息子を抱いて涙を流して喜んだ、といいます。

(エドワードと叔父のエドワード・シーモア 画像引用元:Wikipedia)

高い教育を受けたエドワードは13歳のころにはギリシャ語の哲学書を読めるほど、明晰な頭脳の持ち主でした。

 

わずか9歳でイギリス国王の座に

(エドワード6世像 ウィリアム・スクロッツ画 1550年 在位 1547年1月- 53年7月)

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは9歳で即位しましたが、とはいえど政治に関与するには若すぎたため、叔父のエドワード・シーモアが、摂政を行なっていました

(エドワード・シーモア 妹のジェーンがヘンリー8世の3番目の王妃となってエドワード6世を儲けたことで栄進)

エドワードの治世には、英国社会の大きな変革の1つである英国宗教改革の基礎が築かれました。しかし、病弱なこともありエドワードは16歳でこの世を去りましたわずか数年という短い治世でありました。

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② メアリー1世 (最初の妃 キャサリンとの娘)

(メアリー1世 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世と、最初の妃キャサリン・アラゴンの間に生まれた王女です。王妃との離婚が決まった後メアリーの王位継承権は剥奪されていたのですが、6番目の王妃キャサリンパーの後ろ盾により復活します。

(ヘンリー8世とメアリー 画像引用元:Wikipedia)

かわいらしく、周囲が恵まれていると羨むほどだった彼女は。父に離縁された母への想いもあり、「カトリックへの復活」を密かに心に秘めていたといいます。

 

英国最初の女王

(メアリー1世 在位 1553年7月- 58年11月 )

メアリー1世は、自らの権利で統治したイギリスの最初の女王エドワード6世はその短い治世を通じて、自らの推定相続人たるメアリーに対して「カトリックの信仰を放棄するように」と促し続けましたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶しました。

 

あだ名ブラッディ・メアリー (血に染まった女王) の由来

(メアリー1世 画像引用元:Wikipedia)

敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰しました。彼女のあだ名ブラッディ・メアリー』は、彼女がプロテスタントを迫害し、300人ちかくの女性や子供たちを処刑したたです(ちなみにいまはカクテルにもなっている)

(画像引用元:Wikipedia)

1554年、メアリーはスペインのフェリペ2世と結婚しましたが、ふたりの年齢にはひらきがあり、メアリーの方が年上で、政略結婚だったこともあり、フェリペの愛情は冷めていたといいます。メアリーは若い彼に恋をしていたといいますが、彼が彼女の元を訪れるのは稀なことでした。

フェリペ2世 (メアリー1世)(メアリー1世の夫となったフェリペ2世 肖像画はだいぶ美化されている) 

2人の間に子供はできず、メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で死去 メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われたそうです。(※メアリーの夫のフィリペ2世は、有名な絵画『ラス・メニーナス』に描かれたマルガリーターの曽祖父でもあります)

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③ エリザベス1世 (2番目の妃 アンブーリンとの娘)

(エリザベス1世 画像引用元:Wikipedia)

エリザベスはヘンリー8世とその後妻アン・ブーリンの娘です。エリザベスがまだ2歳のときに母親は不倫と反逆の罪で処刑され、彼女もまた王位継承権を失いますが、6番目の王妃キャサリンパーの援護により、メアリーとともに宮廷に戻ることを許されました。(母親についての参考記事:【アン・ブーリンの生涯】彼女は悲劇の王妃か、狡猾な魔女か)

(キャサリンパー 画像引用元:Wikipedia)

彼女は育ての親となるキャサリンにとてもなつき、「大好きなお母様」と彼女を慕っていたそうです。ヘンリー8世が統治していた晩年、3人の子供が再び王位継承者に加えられ、最終的には、エリザベスは兄のエドワードと妹のメアリーが子供を残さずに亡くなったため、女王の座を家族が引き継いだのです。

 

生涯独身を貫いた、ヴァージンクイーン

 (エリザベス1世 在位 1558年11月- 1608年3月)

ヴァージンクイーンの由来は、処女にしてイエス産んだ聖母マリアを感じさせるような服装をしていたことや、生涯独身だったことに起因しており、『処女王』は誤訳だとされています。

(エリザベス1世『虹の肖像』1600年頃 老いを知らない女王を寓意画的に表現している 画像引用元:Wikipedia)

カトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が死去すると王位を継承しました。統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であったといわれています。彼女の統治の時代は「黄金時代」と呼ばれ、イギリスの経済力が成長し、科学、哲学、文化が栄えた時期でもありました。彼女は生涯独身を貫き、子供がいなかったため、チューダー朝は彼女とともに1603年に滅ぶこととなりました。(参考記事:【ヴァージンクイーン】エリザベス1世を知るための、7つのこと

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あとがきにかえて

(ヘンリー8世(左)とカール5世(右)と教皇レオ10世(中央)、1520年 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世は、6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会との断絶 (イングランド国教会の設立) でも知られていますローマと対立して、修道院を解散し自ら国教会の首長となりますが、ローマによる破門のあとも、カトリックの教義への信仰は失わなかったようです。色々な人の運命が折り合い、混ざり合い、歴史ができていくのですね、王となり、王女となったヘンリー8世の3人の子女たちを育てあげてたのが、彼の最後の妃となったキャサリンパーです。彼女の記事についてはコチラ【ヘンリー8世の子女を育てた 優しく聡明な王妃】キャサリン・パーをご覧ください。

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