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【狂気のジョージ3世】は、実はまじめで平凡を愛す人物だった

 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

ジョージ3世の時代はアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争とイギリス外交にとって困難な時代が続いていました同時にその時代は一方で産業革命が進行しており、イギリスが「世界の工場」に躍進していく時代でもありました晩年は精神に異常をきたし、廃人同然ですごしたというジョージ3世この記事では彼がどんな人生を過ごしたのかを追ってみていきたいとおもいます。

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ジョージ3世は、まじめで勤勉な少年だった

(ジョージ(右)と弟ヨーク 家庭教師のフランシス・エイスコー 画像引用元;Wikipedia)

1738年に英国ロンドンでうまれたジョージ3世は、控えめで内気な子供でしたが、健康に成長し、弟のエドワードとともに家庭教師から教育を受けました家族の手紙によるとジョージは8歳には英語とドイツ語で読み書きでき、当時の政治事件にコメントすることができる利発な子供だったそうです。また、彼は科学を系統的に勉強した初のイギリス国王でもありました。

 

ジョージ2世の急死により、いきなり王座へ

(戴冠式の肖像画、アラン・ラムゼー作、1762年 画像引用元:Wikipedia)

前王ジョージ2世は1760年に急死。ジョージ3世が王位を継ぐと決まるなり、嫁探しが急がれ、翌1761年に彼はシャーロットと結婚しました。2人は結婚式の日にはじめて会ったといいますが、ジョージ3世は祖父や息子と違って愛人をかかえることなく、妻のシャーロットに捧げられました2人はジョージ3世が精神疾患に悩まされるまで、幸福な結婚生活を送っていたといいます。

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愛妻シャーロットと、バッキンガムハウス

(妻のシャーロット. 1761 画像引用元:Wikipedia)

2人は9男6女、計15人の子供に恵まれました1762年、ジョージ3世は家族の別邸としてバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)を購入します。彼はほかにもキュー宮殿や、ウィンザー城を所有し、セント・ジェームズ宮殿は家族用ではなく公的な仕事に使われていました。ジョージ3世は生涯を通してあまり旅行せず、一生を南イングランドで過ごしました。

(バッキンガムハウス(1710年)画像引用元:Wikipedia)

 

マッド・キング ジョージの過剰な支配

(バッキンガムハウス(1710年)画像引用元:Wikipedia)

15人の子供をもつジョージは「大家族の父親で」あり、また「英国とその植民地の父である」と考えていおり、実親としても、君主としても、善意のもとであれど、その支配は過剰だったといいます。多くの親がそうであるように、彼は、自分の子どもたちや、彼の支配下にある国が独立して発展するのを嫌がる傾向がありました。そのためにしばしば問題が生じ、結果として英国は、多くの植民地を失うことになるのでした。

Born and educated in this country, I glory in the name of Briton
この国でうまれて、教育を受けた私は、英国人の名において栄光をささげる

George III (ジョージ3世)

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ジョージ3世を次第にかえていく、精神病の存在

(国王ジョージ3世の3人の末娘 ジョン・シングルトン・コプリー1785年頃 画像引用元:Wikipedia)

ジョージ3世は、度重なる精神病に苦しんだことでも知られています。彼の子供たちの躾は厳しく、毎日朝7時から授業を受けさせたほか、宗教行事や美徳に満ちた生活をさせますが、やがて子供たちが成長し、反抗するようになると、ジョージ3世は深く失望したといいます 先天的なものもあったようですが、病を患い、錯乱してときどき何時間も続けて喋りつづけて、喉が枯れて、口から泡を吹く結果となったり精神的にもおかしくなっていき、主治医たちも病因がわからず、その病状に関するデマが出回りました。そのデマには、「ジョージ3世が木をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と勘違いして握手した」といったものもあったそうです。

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晩年は狂気の老人となり、ウィンザー城に幽閉

(ジョージ4世  画像引用元:Wikipedia)

1810年末、ジョージ3世はその人気が最高潮になったところ、(すでに白内障とリウマチを患っていましたが)、彼は最愛の末娘アミーリアを失い、病はさらに重くなっていきました。アミーリア王女の看護師は王の様子を、「苦痛と泣きの毎日は、形容できないほどの狂気である」とのこしていますそして翌年からは、王太子ジョージ (のちのジョージ4世) 残りにおいて摂政を務めました

 

ジョージ3世の最期

(ヨハン・ツォファニーによる肖像画、1771年  画像引用元:Wikipedia)

ジョージ3世は、1811年初夏にいったん回復の兆しがみえますが、年末には完全な狂気に陥り、死ぬまでウィンザー城に幽閉されたのでした。認知症を患い、全盲になり、耳がだんだんと遠くなり、1818年に王妃が死去したときには、彼女が亡くなったことすら理解することもできなかったといいます。

(ウィンザー城 The North Terrace at sunset 1790年 Paul Sandby  画像引用元:Wikipedia)

1819年のクリスマスには58時間もの間無意味な言葉をしゃべり続け、死の直前の数週間には歩けなくなったそうです。彼は四男のケント公が亡くなった6日後の1820年1月29日に、81年の生涯を閉じたのでした。

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あとがきにかえて

(長女カルロタとカルロタ女王(1767) 画像引用元:Wikipedia)

ジョージ3世の在位は60年、イギリス史上、ヴィクトリア女王の64年に次ぐ第2位の長さでした。ジョージ3世は「農夫ジョージ」と呼ばれることがありましたはじめはジョージ3世が政治より平凡なものに趣味を持ったことを風刺した呼び名でしたが、後に息子たちと対比して性格が家庭的であり、人民に近しい王であるという愛称にかわります。

(質素な食事、埃除けの白布をかけた椅子、絵のない額縁などが描かれたジョージ3世の倹約ぶり ギルレイ画 1792年 画像引用元:Wikipedia)

ジョージ3世が王となったとき、それはイギリス農業革命はその頂点に達し、科学や工業といった分野が大きな進歩を遂げた時代でした。王はあまり旅行はせず、イギリスに留まってばかりだったといいます。病気に侵され、苦しみながらも、奮闘しながら、ときに恨まれ、ときに愛され、「農夫のジョージ」とあだ名された王は、やはり自国をいちばん愛していたのかもしれません

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