【ジョージ3世】狂気の老人と呼ばれ、ウィンザー城に幽閉された国王

イギリス王室

ジョージ3世は、ハノーヴァー家第3代目のイギリス国王。王妃シャーロットを愛し多くの子供に恵まれ一見順調にみえた彼の人生ですが、晩年は精神に異常をきたし、廃人同然ですごし狂気のジョージとも呼ばれました。この記事では、ときに恨まれときに愛され「農夫のジョージ」と親しまれたイングランド王の人生をみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 幼少時代はまじめで勤勉、非常に利発な子供だった
  • 実親としても君主としても、善意のもとであれどその支配は過剰なものだった
  • 晩年は精神病に苦しみ「狂気の老人」と呼ばれ、ウィンザー城に幽閉されてしまった
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ジョージ3世

1738年に英国ロンドンでうまれたジョージ3世は、控えめで内気な子供でした。健康に成長し、弟のエドワードとともに家庭教師から教育を受けました

家族の手紙によるとジョージは8歳には英語とドイツ語で読み書きでき、当時の政治事件にコメントすることができる利発な子供だったそうです。また彼は科学を系統的に勉強した初のイギリス国王でもありました。

いきなり王座へ

1760年に前王ジョージ2世が急死すると、ジョージ3世が王位を継ぐことになりました。

嫁探しが急がれ、翌1761年に彼はシャーロットと結婚。2人は結婚式の日にはじめて会ったといいますが、ジョージ3世は祖父や息子と違って愛人をかかえることなく、妻のシャーロットに捧げられました2人はジョージ3世が精神疾患に悩まされるまで、幸福な結婚生活を送っていたといいます。

(戴冠式の肖像画 画像引用元:Wikipedia)

愛妻との間に15人の子供

ジョージ3世とシャーロットは子宝に恵まれ、9男6女、計15人の子供を授かりました。1762年、ジョージ3世は家族の別邸としてバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)を購入します。

彼はほかにもキュー宮殿や、ウィンザー城を所有し、セント・ジェームズ宮殿は家族用ではなく公的な仕事に使われていました。ジョージ3世は生涯を通してあまり旅行せず、一生を南イングランドで過ごしました。

(妻のシャーロット)

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過剰な支配

15人の子供をもつジョージは「大家族の父親」でありまた「英国とその植民地の父」と考えており、実親としても君主としても、善意のもとであれどその支配は過剰なものだったといいます。

多くの親がそうであるように、彼は、自分の子どもたちや、彼の支配下にある国が独立して発展するのを嫌がる傾向がありました。束縛がきついと逃げたくなるのが人の世の常。そのためにしばしば問題が生じ、結果としてイングランドは、多くの植民地を失いました。

度重なる精神病

ジョージ3世は、度重なる精神病に苦しんだことでも知られています。彼の子供たちへのしつけは厳しく、毎日朝7時から授業を受けさせたほか、宗教行事や美徳に満ちた生活をさせました。しかしやがて子供たちが成長し反抗するようになると、これもまた支配欲からきているのか、ジョージ3世は深く失望するようになったといいます

先天的なものもあったようですが病を患い、錯乱してときどき何時間も続けて喋りつづけて、喉が枯れて、口から泡を吹く結果となったり 。精神的にもおかしくなっていき、主治医たちも病因がわからず、その病状に関するデマが出回りました。そのデマには「ジョージ3世が木をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と勘違いして握手した」といったものもあったそうです。

狂気の老人

1810年末、すでに白内障とリウマチを患ってジョージ3世ですが、全盛期をむかえるか、というところで彼は最愛の末娘アミーリアを失い、それは病はさらに重くさせてしまったのでした。

アミーリア王女の看護師は王の様子を「苦痛と泣きの毎日は、形容できないほどの狂気である」書き残していたそうです。王がそんな状態ですから、年からは、王太子ジョージ (のちのジョージ4世) 残りにおいて摂政を務めました

ジョージ3世の最期

ジョージ3世は、1811年初夏にいったん回復の兆しがみえますが、年末には完全な狂気に陥り、死ぬまでウィンザー城に幽閉されてしまいます。認知症を患い、全盲になり、耳がだんだんと遠くなり、1818年にあれだけ愛した王妃シャーロットが死去したときですら、彼女が亡くなったことを理解できなかったといいます。

1819年のクリスマスには58時間もの間無意味な言葉をしゃべり続け、死の直前の数週間には歩けなくなったそうです。彼は四男のケント公が亡くなった6日後、81年の生涯を閉じたのでした。

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まとめ

ジョージ3世の在位は60年、エリザベス女王、もといヴィクトリア女王に次ぐ第2位の長さでした。ジョージ3世は「農夫ジョージ」と呼ばれることもありました。はじめはジョージ3世が政治より平凡なものに趣味を持ったことを風刺した呼び名でしたが、後に息子たちと対比して性格が家庭的であり、人民に近しい王であるという愛称にかわります。

(質素な食事、埃除けの白布をかけた椅子、絵のない額縁などが描かれたジョージ3世の倹約ぶり ギルレイ画 1792年)

ジョージ3世が王となったとき、それはイギリス農業革命はその頂点に達し、科学や工業といった分野が大きな進歩を遂げた時代でした。王はあまり旅行はせず、イギリスに留まってばかりだったといいます。病気に侵され、苦しみながらも、奮闘しながらときに恨まれときに愛され「農夫のジョージ」とあだ名された王は、やはり自国をいちばん愛していたのかもしれません

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