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【そびえる太陽王、朕は国家なり】絶対王政のフランス ルイ14世

2020/02/20
 
ヴェルサイユ宮殿を建てた男 太陽王と呼ばれたルイ14世
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

そびえる太陽王、朕は国家なり絶対君主の最盛期を築いたのは、わずか4歳でフランス国王に即位したルイ14世です。在位はヨーロッパ史上最長の72年。(ちなみに現役の英国女王エリザベスの在位は68年) さぞや暴君だったのであろうと思いきや、そうなるまでの努力なるや、並大抵のものではなかったといいます。今日はこの太陽王、ルイ14世の波乱にみちた人生をひもといていきたいとおもいます。

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ルイ14世の生い立ちと結婚

左からリシュリュー枢機卿、父ルイ13世、幼少のルイ14世、母アンヌ・ドートリッシュ(左からリシュリュー枢機卿、父ルイ13世、幼少のルイ14世、母アンヌ・ドートリッシュ)

真ん中にうつるのがルイ14世。左が父のルイ13世、右が母アンです。1643514日に父の後を継いだのは、わずか48ヶ月のときでした。ルイ14世は4歳にして1900万人の臣民と多大な財産の主人となりました。

「目に見える神」と敬礼されてはいましたが、召使たちに世話を焼かれた子供であったといわれています。彼は池で溺れ死にかけたことがあり、怠慢の責任を感じたアンは彼に「わたしは神に対してなんたる冒涜を…」と、一種の恐れをいだいたといいます。

 

フロンドの乱、王の宰相マザランに対して貴族と民衆が蜂起

ジュール・マザラン Pierre Louis Bouchart画 (ジュール・マザラン 画: Pierre Louis Bouchart)

まだ幼いルイ14世には「国王の力を強くするため」国政の手助けとして宰相マザランがついていましたその政治に不満がつのり起こったのがフロンドの乱です。マザランへの憎悪に駆られた貴族たちが民衆とともに蜂起したのです。

 (Episode of the Fronde at the Faubourg Saint-Antoine by the Walls of the Bastille.)

パリはたちまち無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンはパリを脱出します。1648年ルイは貧困、不運、恐怖、屈辱、寒さ、飢えなどに苦しみました。この大事件は「絶対王政」を作り上げたルイ14世の根本を作り上げたといっても過言ではなく、性格、行動、思考に多く影響を及ぼしたといいます。彼はパリに住む貴族も庶民のこともけして許さなかったといいます。

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小柄な王はカツラとハイヒールでお洒落、威厳さをアピール

ヴェルサイユ宮殿を建てた男 太陽王と呼ばれたルイ14世 (ルイ14世の肖像画 足元に目をむけると、赤いハイヒールをはいているのがわかる)

1661年宰相マザランが亡くなり、ついに政治の舵をルイ14世が握るようになります。そう、あの名言「朕は国家なり」がようやく目覚めるときです。 「国の得はボクの得であり、ボクの損は国の損」(ちょっと俺様すぎてなにいってるかよくわからないですが) として国政を牛耳りました。ただ生きた偶像として自分を常に国内外へアピールするのですから、肉体的にも精神的にもタフだったことは確かだったようです。

ゴッドフリー・ネラーによるピーター1世の肖像 (参考記事:【ロシアの美しい変革者】ペテルブルクを開拓した、ピョートル大帝)

ロシアのピョートル大帝 (身長2メートル) はいるだけで周りの者を威圧する力があったといいますが、ルイ14世は身の丈160センチそこそこ…7-8cmほど身長をかさ上げできるハイヒールを履き、まだ足りないということであの「かつら」が誕生します。ちなみにただのかつらではなく20cmもかさ上げしたもので、外出時はさらに羽飾りの帽子までかぶっていたそうです。ちなみにロシアにとっては憧れの国「フランス」ですからそんな作られた王の姿も最新のファッションだと見られていたのかもしれませんが…。ちなみに寝るときのかつらをとる姿を決して臣下には見せなかったそうです。

 

名家のプリンセスを正妻に迎えるも、王は寵姫に夢中

Detail of Marie Thérèse d'Autriche by Nocret (Detail of Marie Thérèse d’Autriche by Nocret)

ルイ14世が王妃として迎えたのは、名門スペインハプスブルク家のプリンセス、マリー・テレーズあの有名な青いドレスの王女 マルガリータの腹違いのお姉さん) です。しかし彼女の結婚は決して幸せではなかったといいます。マリーはフランス語を上手に話すことができず、スペイン訛りのフランス語は周囲をいらつかせ、宮廷人からは良い対応を受けられなかったといいます。

 (Detail of Marie Thérèse d'Autriche by Nocret) (王の寵姫 モンテスパン夫人の肖像画)

「正妃を愛すなんてかっこ悪い」という風潮もあってからか、王はたくさんの愛人や公妾をつくり、事後に耳に入ってくる。さらに王の寵姫だったモンテスパン夫人が王に「もっと大事にしてさしあげて」と忠告したほどだというのですから、マリーの屈辱と心の痛みははかりしれません彼女は王妃になって以来、幸せな日はたった1日しかなかった最期に死の床でこうつぶやいたといいます。3男3女を授かりますが、息子一人を残して早逝。スペインハプスブルク家は血族結婚を繰り返していたため、遺伝的なものだったのかもしれません。(参考記事:【ハプスブルク家と高貴な青い血| 顎と下唇にみえる禁断の歴史】)

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豪華絢爛、ヴェルサイユ宮殿をつくり政治の中心に

18世紀 ヴェルサイユ宮殿の驚きの衛生事情

ルイ14世はヴェルサイユ宮殿をつくり、貴族や優秀な人物を招集することによりフランス貴族に対する支配力を強化しました。宮殿にはルイ14世をはじめとした王族とその臣下が共に住み、生活のすべてが「絶対王政の実現」のために利用され、その結果さまざまなルールやエチケット、マナーが生まれていきました

18世紀 ヴェルサイユ宮殿の驚きの衛生事情(ヴェルサイユ宮殿に備えられた住居)

精巧な裁判所の儀式がつくられ王は誰が法廷で彼に出席し、誰が不在だったかを見ることができ、その後の好意と地位の分配をしていったといいます。政府と王に対する本音や思惑を知るために手紙の開封もいとわなかったとか……

王の部屋The gilded cabinet of Marie-Antoinette  王妃の間 ヴェルサイユ宮殿 (ヴェルサイユ宮殿、王の間 etc..)

 

ヴェルサイユ宮殿の裏の顔

ヴェルサイユ宮殿 舞踏会の様子 (ヴェルサイユ宮殿の舞踏会)

ルイ14世への贈り物は「アフリカゾウ」だったなどという贅沢なエピソードも残されていますし、たしかに豪華絢爛ではありました。しかし通気性が悪く入浴が習慣化されていなかった当時は、空気はよどみ、またトイレなどの施設もちゃんとしておらず、舞踏会では携帯式の便器が多用され、また窓から外に糞尿を捨てるのも普通だったので、衛生的にはお世辞にも綺麗とはいえなかったそうです。(ちなみにルイ14世は当時の水洗トイレを使っていたとか….)

(参考記事:【ヴェルサイユ宮殿の裏の顔】18世紀の驚きの衛生事情)

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ルイ14世 「絶対君主」終わりのはじまり

ルイ14世の時代のヴェルサイユ宮殿 (1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間での平和の署名)

最終的に首をしめることになったのは宗教改修と、4つの対外戦争です。「カトリックにみな改修せよ」というおふれをだしたルイ14。「とてもそんなのは受け入れられない」と、フランスを活気づけていた商品や業者がいっきに国外へ逃亡。結果として、フランス産業は衰退の道へとはいっていくのでした。

 

命取りとなった、4つの対外戦争

帰属戦争におけるルイ14世。 シャルル・ルブラン画、1667年 (帰属戦争におけるルイ14世 シャルル・ルブラン画 1667年)

ルイ14世は自然国境説 (海、川、山などわかりやすい自然のラインをもとに国境を決めようという提案)を持ち出し、ちゃっかりネーデルランドを自分の領地にするために戦争を仕掛けます。その他、領地を拡大するためにむやみやたらと戦争をおこない、

  • オランダ戦争
  • ファルツ戦争

もおこしました。中でも痛手となったのは、スペイン継承戦争です。

アンジュー公フィリップのスペイン王位承認。1700年11月16日 フランソワ・ジェラール画、19世紀前半。 (アンジュー公フィリップのスペイン王位承認 1700年 フランソワ・ジェラール画)

どういうことか。ときはスペインハプスブルク家の断絶直後でした。ルイ14世は王妃に対して散々な態度をとっていたにもかかわらず、都合よくマリーの血統を引き合いにだします。王妃はスペイン王フェリペ4世の娘ですから、彼女と自分の間の子には、スペインの血がながれている、当然王位継承の権利がある」として、孫のフィリップをなかば無理やり王位につけたのでした。当然諸外国は快く終わらず、継承をめぐって、争いがはじまります。

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スペイン継承戦争では、お金だけ使って何も得られず

ユトレヒト条約 (ユトレヒト条約 Allegory on the Peace of Utrecht)

結果どうなったのか。フィリップはフェリペ5世として王位についたものの、「ユトレヒト条約」をもって継承戦争は終わりを告げたのでした。この条約は実に(フランスに利益がでないよう)よくできていて、

  • フェリペ5世の即位をみとめはするが (いわゆるスペイン・ブルボン王朝のはじまり)
  • フランス・スペインの合併は永久に禁止

というシビアなものでした。つまりフランスは自分たちの血を引く者をスペインの玉座につけ、領地拡大を目指したわけですが、散々戦争にお金を使った挙句、フェリペ5世とは「他人扱い」にされ、「領地合併」も認められない、多くの命とお金を失っただけ、となったのでした。ルイ14世のあとは、ルイ15世が即位するわけですから、ここから絶対王政は衰退に向かっていき、いずれフランス革命にたどり着くのでした。

 

ルイ14世の最期の言葉

晩年のルイ14世とその家族。 左から曾孫のブルターニュ公ルイと家庭教師、嫡男の王太子ルイ、ルイ14世、孫のブルゴーニュ公ルイ。 作者不明、1710年頃。(晩年のルイ14世とその家族。 左から曾孫のブルターニュ公ルイと家庭教師、嫡男の王太子ルイ、ルイ14世、孫のブルゴーニュ公ルイ。 作者不明、1710年頃)

ルイ14世は、死の床で後継者へ次のような言葉を残したそうです。

memoDo not follow the bad example which I have set you; I have often undertaken war too lightly and have sustained it for vanity. Do not imitate me, but be a peaceful prince, and may you apply yourself principally to the alleviation of the burdens of your subjects.

私が課した悪い例には従わないでほしい私はしばしば戦争を軽率に行い、虚栄心のためにそれを維持してきた。私をまねるのではなく、平和な君主になり、主に臣民の負担の専念してください

繁栄したフランスを「カトリック以外は認めない」として、結果的に有能な人を流出させ、領地を広げようと無理な戦争をけしかけたばかりに多くの人材と財を失ったルイ14世。ハイヒールにカツラに豪華絢爛な城をシンボルとし「絶対君主」を貫いた王の、最期の本音だったのかもしれません。

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あとがきにかえて

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でジェノヴァ総督の謁見を受けるルイ14世。(1685年) クロード・アレ(英語版)画、(ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でジェノヴァ総督の謁見を受けるルイ14世(1685年) クロード・アレ)

当時ヨーロッパだけでなく、ロシアまでもが、ヴェルサイユ宮殿に憧れ、軍事的および文化的な成功、権力、および洗練度でフランスを賞賛するようになりました。またフランスのマナー、価値観なども模倣されるようになり、フランス語はヨーロッパのエリートの普遍的な言語になりました。

芸術を愛用し産業を奨励し、貿易と商業を促進し海外帝国の設立を後援したルイ14世。彼は初期の改革にてフランスを中央集権化し、現代フランス国家の誕生させました。フランスをヨーロッパで卓越した地位に引き上げるのは彼のおかげでもあったともいえるでしょう。着飾り豪華な城に住まい、王妃を虐げ寵姫に翻弄された、「ハイヒールの王様」。誰にも見えない景色をみていたのだとおもいますが、何を手に入れても満足できない、というのはある意味では悲しいことなのかもしれませんね。

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