Wise man learns from History.

【ルイ14世の生涯】太陽王と呼ばれ、絶対王政を築いたフランス国王

2020/09/06
 
Louis XIV
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

そびえる太陽王、朕は国家なり絶対君主の最盛期を築いたのは、わずか4歳でフランス国王に即位したルイ14世です。在位はヨーロッパ史上最長の72年。(ちなみに現役の英国女王エリザベスの在位は68年) さぞや暴君だったのであろうと思いきや、そうなるまでの努力なるや、並大抵のものではなかったといいます。今日はこの太陽王、ルイ14世の波乱にみちた人生をひもといていきたいとおもいます。

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ルイ14世の生い立ちと結婚

わずか4歳にて王位を相続

左からリシュリュー枢機卿、父ルイ13世、幼少のルイ14世、母アンヌ・ドートリッシュ(左からリシュリュー枢機卿、父ルイ13世、幼少のルイ14世、母アンヌ・ドートリッシュ)

真ん中にうつるのがルイ14世1643514日に父の後を継いだのは、わずか48ヶ月のときでした。ルイ14世は4歳にして1900万人の臣民と多大な財産を手にしたのです。

将来太陽王と自分のことを呼ばせただけあり「目に見える神」と敬礼されてはいましたが、召使たちに世話を焼かれた子供だったといわれています。彼は池で溺れ死にかけたことがあり、怠慢の責任を感じたアンは彼に「わたしは神に対してなんたる冒涜を…」と一種の恐れをいだいたといいます。

 

フロンドの乱で、貴族に襲われる

ジュール・マザラン Pierre Louis Bouchart画 (ジュール・マザラン 画: Pierre Louis Bouchart)

まだ幼いルイ14世には国政はできず、実情は母アンが摂政をつとめその補佐として宰相マザランがついていましたその政治に不満がつのり、起こったのがフロンドの乱です。三十年戦争への資金調達を目的として、重税を課そうとした枢機卿マザランへの憎悪に駆られた貴族たちが民衆とともに蜂起したのです。

 (フロンドの乱を描いた絵画)

パリはたちまち無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンはパリを脱出せざるをえなくなりました。1648年ルイは状況が飲み込めないまま、貧困、不運、恐怖、屈辱、寒さ、飢えなどにひどく苦しみました。この大事件は、一生消えない貴族たちの行動への恐れと怒りを生み出し「絶対王政」を作り上げるキッカケとなりました。またこの出来事は、ルイ14世の格や行動、思考などにも多く影響を及ぼしたといいます。彼はパリに住む貴族も庶民のこともけして許しませんでした。

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異常なまでの権力誇示、「陳は国家なり」

国の得はボクの得であり、ボクの損は国の損

ヴェルサイユ宮殿を建てた男 太陽王と呼ばれたルイ14世 (ルイ14世の肖像画 足元に目をむけると、赤いハイヒールをはいているのがわかる)

1661年宰相マザランが亡くなると、ルイ14世はついに政治の舵をにぎるようになりました。そう、あの名言「朕は国家なり」がようやく目覚めるときです。 「国の得はボクの得であり、ボクの損は国の損」として国政を牛耳りました。(ちょっと俺様すぎてなにいってるかよくわからないですが) ただ生きた偶像として自分を常に国内外へアピールするのですから、肉体的にも精神的にもタフだったことは確かだったようです。

sun king Louis XIV

ときに太陽神アポロンに扮してバレエを踊り、自身が留守のときですら『ルイ14世の肖像画』に背を向けることは許されなかったそうです。

 

ウィッグとハイヒールでセンスと威厳さをアピール

ゴッドフリー・ネラーによるピーター1世の肖像 (参考:【ロシアの美しい変革者】ペテルブルクを開拓した、ピョートル大帝)

ロシアのピョートル大帝は、身長が2メートル以上あり、いるだけで周りの者を威圧する力があったといいますが、ルイ14世は160センチそこそこ…7センチほど身長をかさ上げできるハイヒールを履き、まだ足りないとウィッグまでも身に付けました

ちなみにそれはただのウィッグではなく20cmもかさ上げしたもので、外出時はさらに羽飾りの帽子までかぶっていたそうです。ちなみにロシアにとってフランスは憧れの国ですから、そんな作られた王の姿も、最新のファッションと見られていたのかもしれません。ちなみに、ルイ14世は寝るときのかつらをとる姿を決して臣下には見せなかったそうです。

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ヴェルサイユ宮殿のなかで

名家のプリンセスを正妻に迎えるも、寵姫に夢中

Detail of Marie Thérèse d'Autriche by Nocret (Detail of Marie Thérèse d’Autriche by Nocret)

ルイ14世が王妃として迎えたのは、名門スペインハプスブルク家のプリンセス、マリー・テレーズあの有名な青いドレスの王女 マルガリータの腹違いのお姉さん) です。しかしこの結婚は彼女にとって、とても幸せとはいえませんでした。マリーはフランス語を上手に話すことができず、スペイン訛りのフランス語は周囲をいらつかせ、宮廷人から良い対応を受けられなかったのです。王の愛はいつだって、数多くいた愛人たち、とくにはいちばんの寵姫であったモンテスパン夫人に向けられました。

 

幅を利かせるモンテスパン夫人の存在

 (Detail of Marie Thérèse d'Autriche by Nocret) (王の寵姫 モンテスパン夫人の肖像画)

「正妃を愛すなんてかっこ悪い」という風潮もあってからか、王はたくさんの愛人や公妾をつくり、マリーはその噂をただ聞いているだけでした。さらに王の寵姫だったモンテスパン夫人が王に「もっと大事にしてさしあげて」と忠告したほどだというのですから、王妃の屈辱と心の痛みははかりしれませんマリーは死の床についたとき王妃になって以来、幸せな日はたった1日しかなかったとつぶやきました

ルイ14世と王妃の間には3男3女が生まれましたが、息子ひとりを残して他の子供達は早逝しています。しかし王は、寵姫モンテスパン夫人との間には7人の子供をもうけました。そのうち何人かは正式に「王の子供」として、認知されています

 

豪華な宮殿をつくり、ヴェルサイユを政治の中心に

18世紀 ヴェルサイユ宮殿の驚きの衛生事情

ルイ14世はヴェルサイユ宮殿をつくり、貴族や優秀な人物を招集することによりフランス貴族に対する支配力を強化しました。宮殿にはルイ14世をはじめとした王族とその臣下が共に住み、生活のすべてが「絶対王政の実現」のために利用され、その結果さまざまなルールやエチケット、マナーが生まれていきました

ここで王は宮廷で誰がどのように振る舞っているかを細かに観察することができ、その後の好意と地位の分配をしていったといいます。政府と王に対する本音や思惑を知るために手紙の開封もいとわなかったとか……これがヴェルサイユが『黄金の刑務所』と呼ばれた由縁でもあります。

ヴェルサイユ宮殿 舞踏会の様子 (ヴェルサイユ宮殿の舞踏会)

ルイ14世は贈り物として「アフリカゾウ」をもらったというエピソードも残されていますし、たしかに豪華絢爛ではありました。しかし通気性が悪く入浴が習慣化されていなかった当時、空気はよどみ、またトイレなどの施設もちゃんとしておらず、舞踏会では携帯式の便器がつかれていましたまた窓から外に糞尿を捨てるのも普通だったので、衛生的にはお世辞にも綺麗とはいえなかっそうです。ちなみにルイ14世は当時の水洗トイレを使っていたとか…. (参考記事:【ヴェルサイユ宮殿の裏の顔】18世紀の驚きの衛生事情)

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「絶対君主」終わりのはじまり

命取りとなった、4つの対外戦争

ルイ14世の時代のヴェルサイユ宮殿 (1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間での平和の署名)

最終的に首をしめることになったのは宗教改修と、4つの対外戦争です。「カトリックにみな改修せよ」というおふれをだしたルイ14。「とてもそんなのは受け入れられない」と、フランスを活気づけていた商品や業者がいっきに国外へ逃亡。結果として、フランス産業は衰退の道へとはいっていくのでした。

帰属戦争におけるルイ14世。 シャルル・ルブラン画、1667年 (帰属戦争におけるルイ14世 シャルル・ルブラン画 1667年)

ルイ14世は自然国境説 (海、川、山などわかりやすい自然のラインをもとに国境を決めようという提案)を持ち出し、ちゃっかりネーデルランドを自分の領地にするために戦争を仕掛けます。その他、領地を拡大するためにむやみやたらと戦争をおこない、オランダ戦争、ファルツ戦争などがおきました。中でも痛手となったのは、スペイン継承戦争です。

アンジュー公フィリップのスペイン王位承認。1700年11月16日 フランソワ・ジェラール画、19世紀前半。 (アンジュー公フィリップのスペイン王位承認 1700年 フランソワ・ジェラール画)

ときはスペインハプスブルク家の断絶直後でした。ルイ14世は王妃に対して散々な態度をとっていたにもかかわらず、都合よく王妃マリーの血統を引き合いにだします

彼女はスペイン王フェリペ4世の娘ですから、「彼女と自分の間の子には、スペインの血がながれている、当然王位継承の権利がある」として、孫のフィリップをなかば無理やり王位につけたのでした。当然諸外国は快く終わらず、スペイン継承をめぐって争いがはじまりました。

 

スペイン継承戦争では、お金だけ使って何も得られず

ユトレヒト条約 (ユトレヒト条約 Allegory on the Peace of Utrecht)

結果フィリップはフェリペ5世として王位につきましたが、「ユトレヒト条約」をもって継承戦争は終わりを告げたのでした。この条約は実に(フランスに利益がでないよう)よくできていて、

  • フェリペ5世の即位を認めはしますが、  (いわゆるスペイン・ブルボン王朝のはじまり)
  • フランス・スペインの合併は永久に禁止とします

というシビアなものでした。

つまりフランスは自分たちの血を引く者をスペインの玉座につけ、領地拡大を目指したわけですが、散々戦争にお金を使った挙句、フェリペ5世とは「他人扱い」にされ、「領地合併」も認められない、多くの命とお金を失っただけという結果でした。ルイ14世のあとは、ルイ15世が即位するわけですから、ここから絶対王政は衰退に向かっていき、いずれフランス革命にぶつかります。

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ルイ14世の最期の言葉

晩年のルイ14世とその家族。 左から曾孫のブルターニュ公ルイと家庭教師、嫡男の王太子ルイ、ルイ14世、孫のブルゴーニュ公ルイ。 作者不明、1710年頃。 (晩年のルイ14世とその家族 1710年頃)

ルイ14世は、死の床で後継者へ次のような言葉を残したそうです。

memoDo not follow the bad example which I have set you; I have often undertaken war too lightly and have sustained it for vanity. Do not imitate me, but be a peaceful prince, and may you apply yourself principally to the alleviation of the burdens of your subjects.

私が課した悪い例には従わないでほしい私はしばしば戦争を軽率に行い、虚栄心のためにそれを維持してきた。私をまねるのではなく、平和な君主になり、主に臣民の負担の専念してください

繁栄したフランスを「カトリック以外は認めない」として、結果的に有能な人を流出させ、領地を広げようと無理な戦争をけしかけたばかりに多くの人材と財を失ったルイ14世。ハイヒールにカツラに豪華絢爛な城をシンボルとし「絶対君主」を貫いた王の、最期の本音だったのかもしれません。

 

あとがきにかえて

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でジェノヴァ総督の謁見を受けるルイ14世。(1685年) クロード・アレ(英語版)画、 (ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でジェノヴァ総督の謁見を受けるルイ14世)

当時ヨーロッパだけでなく、ロシアまでもが、ヴェルサイユ宮殿に憧れ、軍事的および文化的な成功をフランスを賞賛するようになりました。またフランスのマナー、価値観なども模倣されるようになり言語とともに世界へひろまっていきました。

芸術を愛用し産業を奨励し、貿易と商業を促進し海外帝国の設立を後援したルイ14世。彼は初期の改革にてフランスを中央集権化し、現代のフランス国家の礎を誕生させました。フランスをヨーロッパで卓越した地位に引き上げたのは彼の功績が色濃く残っています。着飾り豪華な城に住まい、王妃を虐げ寵姫に翻弄されたハイヒールの王様。誰にも見えない景色をみていたのだとおもいますが、何を手に入れても満足できない、というのはある意味では悲しいことなのかもしれませんね。

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