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【陥れられた王妃】マリー・アントワネットの首飾り事件

2020/04/28
 
マリー・アントワネットの首飾り
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。陥れられたのは王妃マリー・アントワネット。彼女は被害者だったのですが「王妃の浪費グセ」は誰もがしるところ。結局市民の周囲の不満を爆発させるキッカケとなってしまいました。この記事では王妃の評判を決定的に貶めた「首飾り事件」とは何だったのか、紐解いていきたいとおもいます。

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首飾り事件とは

マリー・アントワネットの首飾り

マリー・アントワネットの首飾り事件とは、

  • ある伯爵夫人が王妃の親友を名乗り
  • 王室御用達の宝石商から日本円で約129億円相当の首飾りを
  • (王妃に嫌われているが取り入ろうと必死な) ロアン枢機卿に購入させ、
  • 王妃に渡すと見せかけて、伯爵夫人が騙し取った

というなんともスキャンダラスな詐欺事件です。

この件に関しては王妃はまるっきり被害者でしたが、王妃の常日頃の贅沢ぶりに積年の恨みや怒りをつのらせていた民衆の「王妃叩き」を助長させ結果マリー・アントワネットの信用を地の底まで落とし、のちのフランス革命のきっかけのひとつとなりました。

王妃の名を使った悪質な詐欺『首飾り事件』

行き場を失った、高価な首飾り

マリー・アントワネットの首飾り事件 (ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人)

ときは、先王ルイ15世の時代にさかのぼります女好きで有名なルイ15世は「大小540個のダイヤモンドからなる首飾り」を愛妾デュ・バリー夫人のために作らせました

マリー・アントワネットの首飾り (マリー・アントワネットの首飾り レプリカ)

王室御用達の宝石商シャルル・ベーマーが完成させたこの高価な首飾りはデュ・バリー夫人に送られるはずだったのですが…..ルイ15世の突然の崩御により、夫人も凋落これにより(129億円相当の) 高額な首飾りは行く先を失ってしまったのでした。

 

困ったのは、制作した宝石商

kubikazari.jiken.to.MarieAntoinette (王妃のネックレスのレプリカ(フランス、ブルトイユ城所蔵)

誰かに買ってもらえなければ私は破産だ焦った宝石商は買い手をもとめて、異国の王族や貴族をあたりました。しかし欲しいという者は見つからず、マリー・アントワネットにもしつこく売り込みにやってきます。しかしその首飾りは元々ヴェルサイユ宮殿で大きな顔をしていたデュ・バリー夫人のためのもの。

輿入れの際散々揉めたアントワネットにとっては、必要のないものであり何度も断りをいれていましたしかし、そんな彼女の元に、ある日いきなり宝石商から見に覚えのない手紙が届いたのです。

 

お買い上げいただき、ありがとうございます

マリー・アントワネットの首飾り王妃様、誠に恐悦至極に存じます。当店の最高のお品が、この世で最高の女性を飾ることができるとは、身に余る幸せですこのたびのお申し出につきましても、謹んでお受けさせていただきます

内容がとんとわからない、マリー・アントワネットはキョトンとします。「最高のお品“というのは、宝石商が散々しつこく売りつけようとしてきた首飾りでしょうか。わたしはお断りしたはずですが」。このときのアントワネットは、この後に何が待ち構えているかを知るよしもありませんでした。

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裏ではなにが起こっていたのか

偽物のマリー・アントワネット

マリー・アントワネットの首飾り事件

首謀者は (自称) 王妃の親しい友人 のラ・モット伯爵夫人」彼女は「偽王妃 (その正体は娼婦マリー)を仕立てて、宮廷司祭長の地位にあったロアン枢機卿に取り入ることを考えました。

そして野心家であり王妃に取り入って宰相になることを狙っていたロアン枢機卿に「王妃様にお会いできる場をセッティングしましょう」と持ちかけ、偽王妃に謁見させたのでした。ロアンはそれが偽王妃であるとは夢にも思わず、「念願の王妃との謁見をかなえてくれた人物」として、ラ・モット伯爵夫人を完全に信用するようになったのです。

 

首飾り事件を図解してみると

マリー・アントワネットの首飾り

ラ・モット伯爵夫人こそ、この首飾りの詐欺を計画した首謀犯

1785年1月、伯爵夫人は「マリー・アントワネット様のご要望ですから」と、ロアン枢機卿にこの『高級首飾り』を代わりに購入してくれるよう話しを持ちかけます

ロアン枢機卿は「念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物」として、伯爵夫人を完全に信用していました。そしてすっかり騙されて購入し、ラ・モット夫人へその首飾りを渡したのです。そのあとすぐに首飾りはバラバラにされて伯爵夫人の夫であるラ・モット伯爵(及び計画の加担者達)によりロンドンで売られてしまうとは知らずに……

 

代金をもらえない宝石商が王妃のもとへ

マリー・アントワネットの首飾り(パリの宝石商 Les joailliers parisiens Paul Bassange et Charles Auguste Bœhmer)

しばらくすると『首飾りの代金が支払われない』ことに業を煮やした宝石商が宮廷へやってきました。

memoあの件でございますが、わたくしどもは契約通り、2月1日にロアン枢機卿の館に王妃様がご依頼されたという首飾りを届けました枢機卿は「すぐに王妃様へお渡しします」とおっしゃっておりましたなのに7月になると(枢機卿と王妃の仲介となっている)ラ・モット夫人からの手紙を持って来て、「王妃様はいま自由になるお金をお持ちでない」とおっしゃるのです。お支払いいただけなければわたしは破滅です、どうしてもお支払いをいただきたい旨をどうか王妃様にお伝えください

宝石商は、王妃マリー・アントワネットの側近にたいしてこう嘆いたといいます。

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マリー・アントワネットに仕掛けられた罠

詐欺事件の発覚

マリー・アントワネットの首飾り (マリー・アントワネットとダンの息子(1777年)

事の次第を知ったマリー・アントワネットは動転ラ・モット伯爵夫人など知りませんし、おまけにロアン枢機卿と私は何の関係もありませんそれに首飾りなどもらっていませんと女官に告げます

しかし王妃のダイヤモンド好きはフランス中のだれもが知るところ。女官は万が一のことを思い「まずは陛下へご相談を」と進言します。それもそのはず、若い頃と比べ王妃の浪費グセは落ち着いていたものの、陛下に内緒で宝石を注文することも、代金を払えなくなりルイに懇願することもあったのですから。マリー・アントワネットの言いなりであったルイ16世も「あなたがいつか、ダイヤモンドのために身を滅ぼすのではないかと心配だ」といったことがあったといいます。

 

そもそも、宝石を買わされたロアン枢機卿とは

マリー・アントワネットの首飾り (ロアン枢機卿の肖像 聖職としての義務よりも華やかな暮らしを好んだ)

宮廷司祭長の地位にあったロアン枢機卿は、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら大変な放蕩ぶりでも知られており賢母であったマリア・テレジアでさえ娘アントワネットに「あの男には気をつけなさい」という言葉を残していました

マリア・テレジア (マリーアントワネットの母 オーストリア女帝 マリア・テレジア)

ロアン枢機卿は1777年にサヴェルヌの城を火事で消失し莫大な財産を失ったものの、贅沢な生活はやまず、最近では多額の借金を抱え込んでいるとの噂もありました。王妃も彼のことを嫌悪していたため、アントワネットと女官はこれが「ロアン枢機卿がしくんだ罠である」と思い、ルイ16世にすべてを告げたのです。

 

ルイ16世の前で、首謀犯がついに発覚

王妃の首飾り ラ・モット伯爵夫人(ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人)

ロアン枢機卿は事の経緯を宮廷より聞いて青ざめ、『ラ・モット夫人』とのやりとりを、王と王妃に打ち明けました。そして彼の話によって、「首飾り事件」の全貌が明らかになっていったのです。

ロアン枢機卿が「王妃と交わした手紙」という手紙をみたルイ16世は、「これは王妃のものではない。筆跡がちがうし、王妃はフランス王妃のマリー・アントワネットなんて書き方はしない」と声をあらげたといいます。ありえないことだがロアン枢機卿もも騙された身聖職者の衣装に身をつつみ哀願する彼を前にルイは「私もあなたのことを信じたいが..」とひるんだといいます。しかしそれを許さなかったのがマリー・アントワネットでした。

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フランス王妃の名誉をお守りください

マリー・アントワネットとルイ16世 (オーストリアの肖像画家ヨーゼフ・ハウジンガーによる絵画)

王妃の言葉によりルイ16世は戸惑いながらも「ロアン枢機卿を逮捕」しました。高位聖職者の逮捕は異例のことです。そして8月には首謀犯のラ・モット夫人が逮捕されました。そして王妃の替え玉となった売春婦マリー・ニコル・ルゲイ・デイジーと、マリーアントワネットの手紙を偽造した元憲兵も逮捕。事件に関わった人たちは、ロアンの後を追うように全員がバスティーユに投獄されたのでした。

バスティーユの内部 フラゴナール画 1785年 (バスティーユの内部 フラゴナール画 1785年)

ルイ16世は「首謀者はラ・モット伯爵夫人だった (自分の司祭長であるロアン枢機卿)が首謀者ではなかった)」と知って、心底ほっとしたといいます。本心ではことを大きくしたくはなかった王ですが、マリー・アントワネットは自分の身の潔白を証明するために「全国民の前ではっきりさせましょう」と国民の目に触れる場所、高等法院での裁判を望んだのでした。「自分とロアン枢機卿が愛人関係にあったなどと誤解されたくない」「私は被害者ですから」と。

 

反旗をひるがえす国民と、高等法院

パリの旧高等法院での正義の座席 (パリの旧高等法院での正義の座席)

高等法院はフランスの最高司法機関です。今回の事件ではマリー・アントワネットはたしかに潔白であり、言い分も最もなものなのでしたが、ルイ16世は渋りましたなぜなら1614年から高等法院は、

  • 法律の登記に関する拒否権をもち、
  • 政治にも関与し、反国王派の牙城ともなっており、
  • 国民の代表機関という主張を掲げていたからです。

高等法院は必ずしも王家の味方ではないのだよとルイは心配しますが、マリー・アントワネットの気持ちはおさまらず、事件は高等法院へもちこまれたのでした。ルイが心配したとおりといいますか、これを機にいっきに王家の名誉を失墜させる裏工作がすすんでいくのです。

バスティーユ牢獄 (バスティーユ牢獄の城壁内)

翌年5月から裁判がはじまりバスティーユに勾留中の関係者が呼び出され、喚問が行われました。ラ・モット夫人は罪人の証拠であるV(Voleuseで泥棒のこと)の文字を両肩に焼き印されて投獄されました。

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無罪となったロアン枢機卿と、レズ疑惑で有罪になった王妃

マリー・アントワネットの首飾り (1781年 マリー・アントワネットの肖像画)

しかしロアン枢機卿は「無罪」となったので、王妃の怒りは増すばかり。自分の身の潔白を証明するどころか、「ダイアモンド狂い」と呼ばれアントワネットの評判は落ちるばかり。さらにラ・モット伯爵夫人が裁判であることないこと証言して場を混乱させたために、王妃にとっては屈辱なことに、『マリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係 (レズビアン関係) にあるという事実無根の噂』が広まりました(伯爵夫人はのちに、虚偽の醜聞をもとに後に本を出版し金銭を得たというオマケつき)

 

王妃の怒りは、鎮まらず

マリー・アントワネットの首飾り (マリー・アントワネットのミニチュア 1787年)

王妃とロアン枢機卿はいい仲だったんだ」「いやいや、王妃とラ・モットが組んでやったんだろう。王妃様の宝石狂いは誰もが知るところだろ」色々な解釈が街中に溢れましたが、どれもマリー・アントワネットの悪評ばかりでした。

納得いかないマリー・アントワネットは夫である陛下に「ロアン枢機卿をパリから追放してください」とお願いロアン枢機卿をやむなく人里離れた山奥の修道院へ蟄居されたのでした。

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官職についていた名家が、次々と職を辞す自体に

マリー・アントワネットの首飾り(フランスの王室 肖像画)

これで王妃の怒りもおさまり一件落着…かと思いきやそうでもなく、問題はここからでした。「裁判で無罪になったのに、この措置はなんですか」と衝撃を受けたロアン家。ロアンの従兄弟であり乳母をつとめたマルサン夫人は王妃に「わたくしに免じて、どうかこんな不名誉なことは取り消してください。そうなりましたら、わたくしも宮廷にはいられません」と懇願したといいます。しかしマリー・アントワネットは一切聞き入れませんでした。

マリー・アントワネットの首飾り (Maria Antonietta in veste di Ebe. Dipinto di François-Hubert Drouais (1774).)

それにマルサン夫人は激怒「私たちは王妃様がまだこの国の存在を知らないときから、この宮殿にいたのにと一族の怒りは爆発し、全員でヴェルサイユを出て行くことにしたのでした。またそれに便乗するように、宮殿内に住みいろいろな官職についていたロアン家、マルサン家、スービー家などの人物が自発的に宮殿を後にしたのでした。要するに宮中にいた官僚たちが、王妃を見限ったかたちです。

 

詐欺師 ラ・モット夫人に集まる同情票

マリー・アントワネットの首飾り(ラ・モット伯爵夫人の肖像画 1780年)

そもそもこれは「ラ・モット夫人による詐欺事件」なので、この首飾り事件に関してはマリー・アントワネットはまさに無関係だったのですが、いままでに積もり積もった貴族や旧臣、国民の不満がこれを機に一気に爆発してしまったのです。

ラ・モット夫人は王妃の犠牲者ではないのか』といった噂もながれ、なぜか加害者に同情票が集まり、連日贈り物や花束が届くという理不尽さ。「ヴァロワ家の血を引く女性に、焼きゴテをおして牢獄にいれるなんて、王家に対する冒涜では」とマリー・アントワネットの友人でさえ思っていたというのですから、もうどうしようもない。夫はさっさと首飾りを解体して異国に売りさばいていたのですから、完全にクロだったの。 さらに信じられないことに翌1787年6月に、ラ・モット夫人は何者かの手助けにより、さっさと脱獄してしまったのでした。

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結果、王家になにがおこったのか

マリー・アントワネット批判はとまらず

マリー・アントワネットの首飾り(マリー・アントワネット ポール・ドラロッシュの絵画より 1857年)

その後宮廷費がどう使われているかが暴露され (正確には報告せざるをえなくなった)、王族の生活ぶりとその経費が一般国民に知れ渡ります。「労働者や農民は食べることにも事欠いているのに、なぜ王族はこんなにお金を使っているのだと非難はマリー・アントワネットに集中します。

愛くるしい子供もでき、ダイアモンドへの執着も、遊びも昔ほどではなかったにしても時すでにおそし、「赤字夫人」と呼ばれ、評判はこれ以上落ちようがないところまで落ちてしまったのでした。

 

止められなかったフランス革命、王族の逮捕

マリー・アントワネットの首飾り(フランス 王族の逮捕を描いた絵)

そして1789年、ついにあのフランス革命へと突入していきます。フランス革命とはかんたんにいえば、『ブルボン朝の絶対王政』を倒した市民革命です。国王一家はパリに連行され、パリ市民の監視下におかれることとなりました。まだ幼く愛くるしい子供達も一緒でした。

マリー・アントワネットの首飾り(マリー・アントワネットと2人の子供 連行前1785年の絵)

 

そしてフランス王は処刑へ

2年後ルイ16世とアントワネットはフランス亡命をくわだてますが (世に言うヴァレンヌ逃亡事件) 、失敗におわります。そして1792年12月にはじまったルイ16世の国民公会での裁判

  • この男は、王として統治できる人物か、それとも死すべきか
  • 共和政の樹立されるのであれば、王はいらないのではないか

少しの差で王は処刑されることが決まりました

マリー・アントワネットの首飾り (ギロチンで処刑されるルイ16 1789年の画)

 

王妃マリー・アントワネットの裁判

マリー・アントワネットの首飾り (幽閉中の王妃 マリー・アントワネット)

マリー・アントワネットは179310月革命法廷で裁かれました。元王妃の彼女であっても、弁護士の準備に一日の余裕も与えられなかったといいます。マリー・アントワネットが告発された理由は、

  • ヴェルサイユでの組織活動
  • オーストリアに何百万ドルもの国庫金を送ったこと
  • 1792年にガルデ・フランセーズ(近衛連隊)の虐殺を計画したこと
  • 息子をフランスの新王と宣言したこと
  • 息子への近親相姦

など、身に覚えのないものもありました最後の告発にいたっては「そんなこと、ありえるわけないでしょう」と部屋にいるすべての母親に訴え、そればかりは女性の同情をかったといわれています。

 

後を追うように、王妃も処刑台へ

マリー・アントワネットの首飾り (ギロチン台の王妃 マリー・アントワネット)

遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べ、白衣に白い帽子を身に着けたといいます。そして苦なく死ねるようにと、髪を短く刈り取られ両手を後ろで手に縛られました。

処刑前の王妃の様子のスケッチ (処刑前の王妃の様子のスケッチ)

1215分、ギロチンが下ろされ刑が執行されましたそれまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたといいます。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていましたが、間もなくして彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られたといいます。

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あとがきにかえて

マリー・アントワネットの首飾り(マリー・アントワネット1791年の肖像画)

当時の社会で期待される王妃像は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性でした。しかしマリー・アントワネットは個性がつよく、「高貴な出自と身分」について揺るぎない誇りをもっていたのと同時に「近代的女性」としての面も持ち合わせていたといいます。「普通の女性として」と思うままに生き、それによりさまざまな摩擦が生じていったともいわれています。

マリー・アントワネットの首飾り(王妃の二枚の肖像 1778年と1779年)

ただ一方で王太子が生まれてからは「王妃としての義務を果たさなければ」という責任感もあったといいます。それは「最後に革命から逃避するよりも、対決することを選んだ」ことにもみてとれます。その「健気な姿」が共感を誘いもしたが、積もり積もった国民の不満を鎮めることはできなかったのでしょう。フランス革命は、同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「近代資本主義社会」を完成させたともいわれていますので、もしかしたら彼女の片鱗が今の時代のどこかに、息づいているのかもしれませんね。

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