【首飾り事件とは何だったのか】陥れられたマリーアントワネットと本当の首謀者

悲劇の王妃

革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。陥れられたのは王妃マリー・アントワネット、市民の周囲の不満を爆発させるキッカケとなった世紀の大事件です。この記事では、王妃の評判を決定的に貶めた「首飾り事件」とは何だったのかを紐解いていきます。

この記事のポイント
  • 王妃の名を使った悪質な詐欺『首飾り事件』
  • これが契機となり、高等法院と貧困に喘ぐ国民の怒りが国王夫妻へ向く
  • アントワネットは被害者であったが、国民や廷臣の信頼は取り戻せず悪い方向へ向かった
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首飾り事件とは

Marie-Antoinette

マリー・アントワネットの首飾り事件とは、

  • ある伯爵夫人が王妃の親友を名乗り
  • 王室御用達の宝石商から日本円で約129億円相当の首飾りを
  • (王妃に嫌われているが取り入ろうと必死な) ロアン枢機卿に購入させ、
  • 王妃に渡すと見せかけて、伯爵夫人が騙し取った

というなんともずる賢い詐欺事件です。

この件に関しては王妃はまるっきり被害者でしたが、王妃の常日頃の贅沢ぶりに積年の恨みや怒りをつのらせていた民衆の「王妃叩き」を助長させる結果となりました。結果マリー・アントワネットの信用を地の底まで落とし、フランス革命のきっかけの一つになった事件のひとつです。

元々はルイ15世に起因

時は、先王ルイ15世の時代にさかのぼります女好きで有名なルイ15世は「大小540個のダイヤモンドからなる首飾り」を愛妾デュ・バリー夫人のために作らせました

王室御用達の宝石商シャルル・ベーマーが完成させたこの高価な首飾りは、デュ・バリー夫人に送られるはずだったのですが、ルイ15世の突然の崩御により夫人も凋落これにより129億円相当の高額な首飾りは行く先を失ってしまったのでした。

困った宝石商

首飾り事件 (王妃のネックレスのレプリカ)

焦った宝石商は買い手を求めて、異国の王族や貴族をあたりましたしかし買い手が見つからず、マリー・アントワネットの元へも売り込みにやってきたのです。しかしその首飾りは元々ヴェルサイユ宮殿で大きな顔をしていたデュ・バリー夫人のためのものです。

輿入れの際散々揉めたントワネットにとっては、必要のない物で何度も断りをいれていました。しかし、そんなアントワネットの元にある日宝石商から『見に覚えのない手紙』が届いたのです。

王妃様、誠に恐悦至極に存じます。

当店の最高のお品が、この世で最高の女性を飾ることができるとは、身に余る幸せです。このたびのお申し出につきましても、謹んでお受けさせていただきます。

内容がとんとわからない、マリー・アントワネットはキョトンとします。断ったはずの首飾りについてなぜ手紙がくるのか、身に覚えがなかったからです。

犯人はラ・モット伯爵夫人

裏で糸を引いていたのは、王妃の友人を名乗る『ラ・モット伯爵夫人』でありました彼女は偽の王妃を仕立てて、宮廷司祭長の地位にあったロアン枢機卿に取り入ることを考えたのです。彼は野心家であり、王妃に取り入って宰相になることを狙っていた人物でありました。

ラ・モット伯爵夫人はその野心を利用し、

王妃様にお会いできる場をセッティングしましょう

と持ちかけ、偽王妃 (正体は娼婦マリー) に謁見させたのでした。ロアン枢機卿はそれが偽王妃であるとは夢にも思いませんでした。「念願の王妃との謁見をかなえてくれた人物」として、ラ・モット伯爵夫人を完全に信用するようになっていきます。

ことの運び

ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿へ、

マリー・アントワネット様のご要望です

この高級首飾りを、代わりに購入してください

持ちかけましたロアン枢機卿は伯爵夫人にすっかり騙されて購入し、ラ・モット夫人へその首飾りを渡したのです。その後すぐに首飾りはバラバラにされて、伯爵夫人の夫であるラ・モット伯爵(及び計画の加担者達)によりロンドンで売られてしまうとは夢にも思わなかったことでしょう。

宝石商の懇願

しばらくすると、『首飾りの代金が支払われない』ことに業を煮やした宝石商が宮廷へやってきました宝石商は、王妃マリー・アントワネットの側近にたいしてこう嘆いたといいます。

あの件でございますが、私どもは契約通り、2月1日にロアン枢機卿の館に王妃様がご依頼されたという首飾りを届けました。枢機卿は「すぐに王妃様へお渡しします」とおっしゃっておりました。

 

なのに7月になるとラ・モット夫人からの手紙を持って来て、「王妃様はいま自由になるお金をお持ちでない」とおっしゃるのです。お支払いいただけなければわたしは破滅です、どうしてもお支払いをいただきたい旨をどうか王妃様にお伝えください。

 

かくして、水面下が進められていた詐欺事件が、いよいよ公けになったのです。

詐欺事件の発覚

事の次第を知ったマリー・アントワネットは動転しました

ラ・モット伯爵夫人など知りませんし、ロアン枢機卿と私は何の関係もありません。それに首飾りなど貰っていないのです。

しかし王妃のダイヤモンド好きはフランス中の誰もが知る所でありました。女官は万が一のことを思い、「まずは陛下へご相談しては」と進言します。

それもその筈、若い頃と比べ王妃の浪費癖は落ち着いていたものの、陛下に内緒で宝石を注文することも、代金を払えなくなりルイに懇願することもあったのです。マリー・アントワネットの言いなりであったルイ16世あなたがいつか、ダイヤモンドのために身を滅ぼすのではないかと心配だ」という程でありました。

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巻き込まれた枢機卿

 (ロアン枢機卿の肖像聖職としての義務よりも華やかな暮らしを好んだ)

ロアン枢機卿は、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら大変な放蕩ぶりでも知られていました。ロアン枢機卿は1777年にサヴェルヌの城を火事で消失し、莫大な財産を失っていました。しかし贅沢な生活をやめられず、多額の借金を抱え込んでいるとの噂もあったのです。

マリー・アントワネットも彼のことを嫌悪していたため、これはアン枢機卿がしくんだ罠に違いないとして、夫ルイ16世にすべてを告げました。

明らかになった全貌

ロアン枢機卿は事の経緯を宮廷より聞いて青ざめ、ラ・モット夫人とのやりとりを打ち明けました。それにより「首飾り事件」の全貌が明らかになっていったのです。ロアン枢機卿が「王妃と交わした手紙」という手紙をみたルイ16世は、これは王妃の字ではない、と声を荒げたといいます。

しかしロアン枢機卿も騙された身。聖職者の衣装に身をつつみ哀願する彼を前に、ルイ16世は「私もあなたのことを信じたいが..」と怯みました。しかしそれを許さなかったのが、汚名を着せられたマリー・アントワネットでした。

枢機卿らの逮捕

 (バスティーユの内部 フラゴナール画 1785年)

王妃の言葉によりルイ16世は戸惑いながらも、ロアン枢機卿を逮捕しました。

高位聖職者の逮捕は異例のことです。そして8月には首謀犯のラ・モット夫人が逮捕されました。そして王妃の替え玉となった売春婦マリー・ニコル・ルゲイ・デイジーと、マリーアントワネットの手紙を偽造した元憲兵も逮捕。

事件に関わった人たちは、ロアンの後を追うように全員がバスティーユに投獄されたのでした。ルイ16世は「首謀者はラ・モット伯爵夫人で、 自分の司祭長であるロアン枢機卿ではなかった」と知って心底ほっとしたといいます。

事件の収束

 (パリの旧高等法院での正義の座席)

本心では事を大きくしたくはなかったルイ16世。しかし、アントワネットは自分の身の潔白を証明するたに、国民の目に触れる、等法院での裁判を望みました。自分とロアン枢機卿が愛人関係にあったなどと誤解されたくないという気持ちからです。

しかし反旗を翻したのは国民と高等法院の方でした。高等法院はフランスの最高司法機関です。「高等法院は必ずしも王家の味方ではない」として、とルイ16世は心配しますが、マリー・アントワネットの気持ちは収まらず、事件は高等法院へ持ち込まれたのでした。

夫人は逮捕されるも

(ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人)

翌年5月から裁判がはじまり、バスティーユに勾留中の関係者が呼び出され喚問が行われました。ラ・モット夫人は罪人の証拠であるV(※)を両肩に焼き印されて投獄されることとなったのでした。しかし翌1787年6月に、ラ・モット夫人は何者かの手助けにより、さっさと脱獄してしまいます。

マリー・アントワネットの願いで、ロアン枢機卿はやむなく人里離れた山奥の修道院へ蟄居されたのでした。衝撃を受けたのは、ロアン家と遙か前から宮廷にいた貴族たちです。「そこまですることはない」と憤り、官僚たちも次々と宮殿を後にする事態へと陥ることになったのでした。

王妃の評判はガタ落ち

その後、宮廷費がどう使われているかが暴露され、王族の生活ぶりとその経費が一般国民に知れ渡ることになります。「労働者や農民は食べることさえ必死なのに、なぜ王族は贅沢三昧できるのか」、不平不満はマリー・アントワネットに集中します。

アントワネットには愛くるしい子供もできダイアモンドへの執着も、遊びも昔ほどではありませんでした。それにしても時すでにおそし、マリー・アントワネットは「赤字夫人」と呼ばれ、評判はこれ以上落ちようがないところまで落ちていたのでありました。

まとめ

王妃の名を使った悪質な詐欺『首飾り事件』。これが契機となり、高等法院と貧困に喘ぐ国民の怒りが国王夫妻へ一気に向かっていくこととなります。アントワネットは被害者でありましたが、国民や廷臣の信頼は取り戻せず、1789年、ついにフランス革命へと突していくこととなったのでした。

ちょっとした悪意がきっかけで国中の怒りを逆撫ですることになったこの事件真実を叫んだとて、普段の行いが伴っていなければ信じてもらえないという、まるで教訓のような事件だったのでした。アントワネットの最後についてはこちらの記事 (【マリーアントワネットのギロチン処刑】絵画でみるフランス王妃の最後)にまとめております。

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