【エドワード8世とウォリス夫人】愛のために王室を離脱した英国王の末路

イギリスの歴史

ヘンリー王子とメーガン妃の王室離脱が批判を呼ぶなか、記憶に蘇るのが同じく恋人をとって王室を離れたエドワード8世です。

エリザベス女王の伯父にあたる彼は、1936年ウィンザー朝の2代目の国王として即位するも、アメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために国王を退位しました。この記事では、王室より愛する女性を選んだ国王エドワード8世がその後どうなったのかをまとめていきます。

この記事のポイント
  • 愛する女性との恋をとって王位を放棄したエドワード8世
  • ナチスとの癒着や、様々な厄介ごとを理由としてイギリスから遠ざけられた
  • 祖国には戻れずとも好きな土地で自由に生き、最後は王室墓地へ埋葬された
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王室家系図でみるエドワード8世

エドワード8世ことアルバート・エドワード王子は1894年、ジョージ5世とメアリー王妃の長男として生まれました。父親はヴィクトリア女王の孫にあたるジョージ5世です。

ザクラウン (エドワード8世と家系図)

エドワード8世は、父ジョージ5世の死後42歳で英国王となりましたが、恋人のウォリス・シンプソンと結婚するためわずか1年で王位を退位。その後王位は弟のジョージ6世へわたり、エドワード王子はウィンザー公の称号を名乗ることとなりました。

王冠をかけた恋

エドワード8世は英国王室の人気者であり、正当な王位継承者でした。1931年、当時皇太子として知られていたエドワードは、米国の社会主義者ウォリス・シンプソンと出会います。フューネス夫人主催のパーティで出会った彼女は洗練されたカリスマ的なアメリカ人女性で、彼女はすぐにエドワード王子の心をつかみました

この頃ウォリスは結婚しており、夫とともにロンドンへ移住したばかりでした。エドワード王子はやがて彼に夢中になり、2人は不倫関係になります。その後、王子はシンプソン夫婦がまだ婚姻関係にあるにもかかわらず、外遊にはウォリスを同伴させ、高価な宝石も好きなだけ買い与え、ついには王太子の邸宅で同棲するにまで至ったのでした。

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『エドワード8世』の即位

父ジョージ5世の死後、長男であった彼は『エドワード8世』として即位します。まだウォリス夫人はアーネストと婚姻関係にあったのですが、即位式にはウォリスが立会人として付き添いました。

しかし王室側が彼女を「ただの友人」扱いをしたためエドワード8世は激昂。まるで見せつけのように「愛は募るばかりだ」といった熱いラブレターを送ったり、これ見よがしに夫人と出かけたり、しまいにはスタンリー首相らも出席するパーティの席上で、ウォリスの夫に対して「さっさと離婚しろ」などと恫喝し暴行を加えるなど国王とは思えない振る舞いが続きました。さらには機密文書を夫人に見せるなどしたため、内閣も国王に秘密事項を渡すことをためらうようになっていきました。

愛する女性のために王室を離脱

イギリス王室は離婚経歴のあるウォリスとの結婚を認めませんでした。結果エドワード8世は、1年足らずで国王を退位することを決めます。エドワード8世はBBCのニュースでこう宣言し、王位は弟のジョージ6世 (エリザベス女王の父)  へと渡りました。

愛する女性の助けと援助なしには、重い責任を背負い、王としての義務を果たすことはできません。

その後、エドワードはウィンザー公の称号を与えられ、1937年にフランスでウォリスとささやかな結婚式をあげました在位日数はわずか325日、1483年のエドワード5世以来453年振りに未戴冠のまま退位した国王となりました。

イギリスへの裏切り

ウィンザー公夫妻はパリに住み、ほとんどの時間を国際ジェット機での買い物やパーティーに費やしました。しかし色恋沙汰に加え、1937年10月にはナチス・ドイツへの訪問を行い、アドルフ・ヒトラーの支持者としての彼の評判を悪化させる結果となります。

さらに事態はより深刻で、第二次世界大戦中にエドワード8世がドイツのスパイのような活動をしていたことものちに明らかになりました。「エドワード8世とドイツ側が手を組み、彼の王位を復活させる」といった試みがあったことも公けになりエドワードの信頼は地の底へ落ちました。

イギリスには許可がないと入れず

ウォリス・シンプソン元:イギリス国王エドワード8世)の妻

当初ウィンザー公はフランスで数年間過ごした後、再度イギリスで生活することを仮定していましたが、国王ジョージ6世が許可を得ずに帰国するようなことがあれば、王室からの手当を打ち切ると至極当然な態度に出たため、ウィンザー公はイギリスに戻らず海外で生活することになりました。

1940年、リスボンのナチ軍から避難する途中、ウィンザー公爵と公爵夫人は、国王が公爵をバハマ諸島の総督と司令官に任命したとの知らせを受けます。皇族としてはあまり重要な仕事ではないと思われていましたが、やり甲斐を失っていたウィンザー公とってはありがたい話でした。

その後、ウィンザー公夫妻はフランスのパリへ戻り、ウィンザー公エドワードは1972年5月28日に亡くなりました。エドワード元国王はウィンザー城に、14年後ウォレス夫人はその横に埋葬されました。ふたりの恋は「王冠を捨てた恋」「王冠をかけた恋」とよばれ、現代でも最も偉大なラブストーリーの一つと見なされています。

エドワード8世の最後

1937年の結婚後、エドワードとシンプソンはフランスに住み、イングランドに戻ることはほとんどありませんでした。王室は正式な面会を拒否し関係は疎遠のままでしたが、稀にある公的行事には数回出席しています。1967年にロンドンで行われたメアリー王太后生誕100周年の式典にも、ウィンザー公は出席していました。最もメアリー王太后は、息子の勝手なふるまいに腹を立て亡くなるまで彼を許すことはなかったそうです。

写真にもお辞儀をするエドワード8世に、エリザベス女王が目を背けているシーンがうつっています。エリザベス女王は1972年にフランスを公式訪問した際に、ウィンザー公邸を訪問し、末期の食道癌で重体のウィンザー公を見舞いました。その10日後ウィンザー公は死去、地位を捨て愛を貫いた元国王の訃報は「ウィンザー公ひっそり逝く」「祖国を出て36年、世紀の恋の終焉」「枕辺に最愛のシンプソン夫人」などといった形で、世界各国で大々的に報道されました。

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まとめ

ウォリス・シンプソン元:イギリス国王エドワード8世)の妻

遺体はイギリスに帰り、死去から8日後の6月5日に葬儀が執り行われましたその際ウォリスはエリザベス女王がなだめるのを聞かないほど、取り乱して号泣していたといいます。遺体は他の王族と同様、王室墓地に埋葬されました。その後ウォリスは1986年に亡くなり、2人の間に子はおらず遺産は遺言でパスツール研究所に全額寄付されました。

ウォリスとの結婚や退位については、「もし時計の針を元に戻せても、私は同じ道を選んだでしょう」として亡くなるまで一度も後悔したことはなかったといいます。

エリザベス女王の若い頃 (若き日のエリザベス2世)

エドワード8世の退位により苦労したのは残された王室の人々であり、急に王位継承が間近になったエリザベス2世ドイツとの癒着による祖国への裏切り実父ジョージ6世を苦しめた伯父をなんとか許そうと心を痛めていたといいます。

自分の決めた道を進み続けたエドワード8世、その末路は割と安定しており祖国に戻れない屈辱はあれど比較的平和なものだったとされています。国王としての振る舞いが欠如していたことを考えると弟に王位を譲ったことは正解であり、リスに半世紀以上の安寧をもたらしたエリザベス女王が王位についたのも至極必然だったのかもしれません。

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