エリザベス1世を生んだ悲劇の王妃【処刑されたアンブーリンの最後】

イギリスの歴史

1536519日、ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンは、ロンドン塔内で斬首刑に処されました。彼女が王妃だったのは、ほんの3年間。この記事ではアン・ブーリンの最後、この勇敢な女王がどのようにして、死を受け入れていったのかを考察していきます。

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王妃 アン・ブーリンの没落

薄れていく王の愛情

(20世紀に書かれたとされる、ヘンリー8世とアン・ブーリン)

ヘンリー8世の熱烈な求愛をうけ、先妻キャサリンを押しのけてまで王妃となったアン・ブーリン。ヘンリー8世は「わたしはアンに夢中だ、あなたしか愛せない」といった熱いラブレターをかいたり、廷臣へも「彼女を手に入れることは、何にも変えがたい安らぎである」といった手紙を残していたのですが、その気持ちはどこへやらしばらく経つとヘンリー8世は、アンの侍女であるジェーン・シーモアに心移りしてしまったのでした。

アンとは別れて、あらためてジェーンと再婚を

ジェーン・シーモアの肖像画 (ジェーン・シーモアの肖像画) 

アンはヘンリー8世との間に娘エリザベスを授かるも、他の子供は流産…。どうしても世継ぎが欲しいという焦りもあってか、王はあらたに『ジェーン・シーモアとの再婚』を模索し始めます

最初の王妃キャサリンとは「兄の元嫁をもらうことは許されることではなかった」として、カトリック教会との断絶してまで、結婚をむりやり無効化させたわけですが、さて今度はどうするかそこで思いついたのが「裁判でアンを有罪にして、王妃の権限を奪い取ること」でした。(参考記事:【ジェーンシーモア】唯一の男児を生んだヘンリー8世の寵姫)

夫である王に、冤罪をきせられたアン

アンブーリンとヘンリー8世 (アン・ブーリンの肖像画) 

さて、とはいうものの、アンに何の罪があるのだろうか。結果として、その「アン・ブーリンへの罪」は王ヘンリー8世によってでっちあげられることになりました。アンは、

  • 兄弟であるジョージ・ブーリンとの近親相姦
  • イギリス王室の廷臣たちとの不貞

など、姦通罪にあたるとして、(半ば決めつけられる形で) 告発されたのです。

ジョージ・ブーリン(右がジョージ・ブーリン 左がヘンリー・ノリス )

起訴状によると、彼女は『不貞を働いただけでなく、ヘンリー8世の殺害も凶暴した』ことも示唆されていたようです。1536515日、アンは陪審員によって大逆罪として有罪判決を受け、ロンドン塔に監禁されてしまいました。ジョージ・ブーリンとヘンリーたちも処刑されることが決まりました

なぜ、アン・ブーリンは処刑されたのか?

忠実なる廷臣からの、王への助言

アン・ブーリンの最後

実は現代における歴史家の大多数は「アン・ブーリンは無実であった」という見解を示しています。明らかにヘンリー8世は世継ぎ欲しさのために新たな妻を娶ろうと躍起になっていたからです。

一説にはどこまでもヘンリー8世に忠実であった廷臣トーマス・クロムウェルが、アン・ブーリンの処刑およびジェーンとの結婚を全面的に支持して、裁判を提案したのも彼だったといいます。彼にとってみると、アンは・ブーリンクロムウェルの修道院計画に反対たりと、いろんな面で折り合いが悪かったことも一因だったのかもしれません。

テューダー朝では、裁判にかけられたら無罪はほぼありえず

アン・ブーリンが処刑にいたるまで

テューダー朝では、被告人は「基本的に有罪」とみなされることが多く、適切な弁護をするのは信じられないほど難しかった、といわれています。いきなり裁判の舞台にあげられたものの、相手が用意した容疑や証拠がきっちり揃えられている (でっちあげられてる)ことも多く、 反論の余地がなかったのです。

イギリス大使ユースタス・チャプイ(イギリス大使ユースタス・チャプイ)

イギリス大使であったユースタス・チャプイは嫌疑をかけられた4人の男性の裁判をみて、「正当な証拠や自白などはなく、推定されたことや、特定の徴候によって非難されていた」といった言葉をのこしています

アン・ブーリンの最後(反逆罪で死刑を宣告されたときにアンブーリンが絶望的に 腕を上げる様子を描いたイラスト)

アン・ブーリンと兄弟であるジョージ対しても証人は出されず、無罪となるわけもなく、死刑が宣告されました

来たる、冤罪人たちの処刑

アン・ブーリン ロンドン塔の処刑 イメージ図

ジョージ・ブーリン、ヘンリー・ノリス、フランシス・ウェストン、ウィリアム・ブレルトン、マーク・スミートン。アン・ブーリンに関わったとされる男性は全員、1536517日にタワー・ヒルで処刑されました。男たちは絞首刑とされていましたが、国王は 「せめてもの情け」 をかけて斬首刑に減刑したといいます。

しかしここだけの話、アンが有罪判決を受ける前に、斬首人として有名だったカレーのハングマンがすでに呼ばれていた、といいます。(あれ、裁判前に結果はきまっていたのか ..?)

処刑を目撃した詩人の悲痛な手記

アン・ブーリンの最後

当時タワーに収監されていた詩人サー・トーマス・ワイアットは、処刑をベルタワーで目撃していました。「それは昼も夜も、私の頭の中にはりついており離れませんでした」と語り、彼は詩の中で、その「血なまぐさい日々」たちがいかに彼の心を傷つけたか、またテューダー朝の正義がどのようなものだったのか、書き綴っています

document私は学びました。いくら無実であっても、弁解したり、悪態をついたり、懇願したりすることはまるで意味がないのだと。

アン・ブーリンが処刑にいたるまで

ロンドン塔へ幽閉された王妃

ロンドン塔に幽閉されたアン

男たちの処刑と同日、トーマス・クランマー大司教は、アンとヘンリー8世の婚姻無効を宣言しました。アンの処刑は518日に予定され、ロンドン塔のホワイトタワーと現在のウォータールーブロックの間にある「下院の前」に建設される、処刑のための新しい足場の工事が始まりました

アンは「ついに」と死を覚悟しましたが、王家にとって不利な噂がたたないよう、「なぜ王妃を処刑するのか」説明を求める外交官らを遠ざけるため、いったん死刑の執行は延期となりました

アンは家族を心配するも、本当のところはわからず

ウィリアム・キングストン卿の報告によると「アンは家族のこと、父親と兄がどこにいるのか」と尋ね、病気の母が悲しみのあまり死ぬのではないかと心配していたといいます。しかし彼らは理由はどうあれ、「ジョージ・ブーリンはまだ法廷にいますよ」と嘘をついていました。

言うことすべてに、メモがとられた

アン・ブーリンの最後

獄された部屋でアンに仕えた女性たちは、アン・ブーリンの友人でも、党派でもありませんでした。また彼女たちは、アンが言ったことをすべて書き留めるように指示されていました。残酷なことに、ヘンリーは妻のことをよく知っていました監視状態でストレスを与えれば、彼女がヒステリックになりブツブツ言い出すだろうこともわかっていた、といいます。

アン・ブーリンの最後

それにくわえて、もし彼女の周りに宮廷の女性達がいたら、アンは自分の中に気品のある態度を保つことができるだろうと。実際、最後の2回の公の場では、アンはどこから見ても女王だった、といいます。

そしてむかえた、処刑の日

死装束をまとって、死刑台へ現れたアン・ブーリン

アン・ブーリンの最後斧を持った死刑執行人の前で足場にひざまずいているアン・ブーリンのイラスト

1536年5月19日の朝、キングストン卿は、アン・ブーリンが1533年の戴冠式の前に滞在したのと同じ宮殿にある彼女の部屋から、処刑台の足場まで付き添いました。アンは身だしなみに気を配り、服にはエルミンの飾りがついていて、アンのステータスを示していました。彼女の髪飾りは殉教の色である真紅。首を落とされても綺麗でいられるように、フードで髪をおおっていた、といいます。

処刑台で、アンが口にした言葉

アン・ブーリンの最後

処刑台にたったアンはこう口にしました。

善きクリスチャンの人々よ、わたしは説教をするためにここに来たのではありません。私は死ぬためにここに来ました。というのは、わたしは律法より、死刑という捌きをうけるようジャッジがくだされたからです。わたしはここに来て、人を非難したり、わたしが罪に問われて死ぬ運命にあることについて話したりはしませんが、神が王を助け、あなた方の上に長く君臨してくださるように祈っております。だれかがわたしの大義に干渉しようとするなら、わたしは彼らに最善の裁きを求めます。こうしてわたしは世とあなた方すべてから離れ、あなた方がわたしのために祈ってくださることを心から望みますGood Christian people, I have not come here to preach a sermon; I have come here to die. For according to the law and by the law I am judged to die, and therefore I will speak nothing against it. I am come hither to accuse no man, nor to speak of that whereof I am accused and condemned to die, but I pray God save the King and send him long to reign over you, for a gentler nor a more merciful prince was there never, and to me he was ever a good, a gentle, and sovereign lord. And if any person will meddle of my cause, I require them to judge the best. And thus I take my leave of the world and of you all, and I heartily desire you all to pray for me.(アン・ブーリンの言葉)

堂々たる王妃の首を、剣の一振りで

アン・ブーリンの処刑

死刑執行人は女王を彼の剣の1回のストロークで首を斬り落としました。それから彼女の仕えの女性たちはアンの遺骸を白い布で包み、それらを近くのセントピーターアドビンキュラ礼拝堂に運びました。

アン・ブーリンの最後(アンブーリンが埋葬されているロンドン塔の教区教会、セントピーターアドビンキュラの礼拝堂)

アンの頭と体は胸の中に置かれ、兄弟であるジェーン・ブーリン (ロッチフォード卿) の遺骨に近い納骨堂に埋葬されたそうです。

あとがきにかえて

アン・ブーリンの最後(タワーグリーンのガラスの記念碑)

毎年5月19日、彼女の処刑の記念日に、バラの籠が配達され、アン・ブーリン王妃の記念タイルの上に置かれるそうです。ちなみに彫刻家ブライアン・キャトリングによって書かれた記念碑には、次のような言葉が刻まれています

アン・ブーリンの最後穏やかなる訪問者よ、あなたが立ちどまったそこは死が多くの光を遮ってきた場所です。まり、死が何日もの光を遮断しました。ここでは多くの立派な人々が命を落とされました。このような不安な空の下、私たちが世代を超えて戦いと勇気の周りを歩いている間、彼らがどうか安らかに眠れますように  (Gentle visitor pause a while, where you stand death cut away the light of many days. Here jewelled names were broken from the vivid thread of life. May they rest in peace while we walk the generations around their strife and courage, under these restless skies.)

王に振り回された6人の王妃たち彼女が残した一人娘エリザベスはのちにイングランドを安泰へと導く重要な役目をはたすのでした。(アン・ブーリンが王妃となるまでの経緯は【アン・ブーリンの生涯】にまとめております)

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