【血まみれの王室】フェリペ2世に狙われたイングランド女王たち

フェリペ2世の肖像画 (スペインハプスブルク)イギリスの歴史

中世のスペインハプスブルク家は世界を支配していたといっても過言ではなく、「スペインが動けば世界が震える」といわれ、「スペイン人」と聞くだけで何をされるのかと恐れ震える人もいたそうです。そんなスペイン黄金時代に君臨したのがフェリペ2

しかしその黄金はインカ帝国などでの略奪やネーデルランドの弾圧によって得た、血の匂いが染み込んだ富でもありました。この記事ではそんなスペイン王 フェリペ2世と、狙われたイングランドの女王たちの運命を見ていきたいとおもいます。

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日の沈まぬ国といわれた、スペインハプスブルク家

チャールズ5世の退位時のハプスブルク家の領土

フェリペが生まれたハプスブルク家は、中世から20世紀はじめまで約650年という長きにわたりヨーロッパに君臨した名家です。そのあいだ神聖ローマ帝国の皇帝位をほぼ独占し、欧州中心部に位置し、「戦争は他の者に任せておけ、汝は結婚せよ」という教訓のとおり、他国と次々に婚姻を結んで領土を拡大してきました。まさにヨーロッパ史の核であり基底部を成していたといっても過言がない王朝です。

世界帝国を作り上げた、フェリペ2世の父

)フェリペ2世の父母 (カルロスとイザベラ)

フェリペ2世は、カール5世 (神聖ローマ皇帝とスペイン王国)ポルトガルのイザベラの息子として1527年に生まれました。父カール5世 (カルロス1世とも呼ばれる)はハプスブルク家の絶頂期に君臨。当時は大航海時代の真っ只中にあり、「太陽の沈まない国と称されたようにヨーロッパから新大陸アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた人物です。

黄金期に即位した、2代目当主フェリペ2世

フェリペ2世 (スペインハプスブルク家)

当時のスペインハプスブルク家はあらゆる大陸の領土、そして彼の名前「Philip (フィリップ) 」にちなんだ島フィリピンを所有していました。そんなフェリペ2世が君臨したのは、スペイン黄金時代です。というと聞こえはいいですが、その黄金はインカ帝国などでの略奪やネーデルランドの弾圧によって得た富である、血の匂いがたっぷりとしみ込んだおどろおどろしいものでした。

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スペイン人を自負したフェリペ2世

洗礼を受けるフェリペ2世

当時のスペインは次々と植民地を広げており、綺麗ごとでなく戦争に弾圧に略奪と、「スペイン人」と聞くだけで何をされるのかと恐れ震える人もいたといいます。フェリペ2世からも、そんな陰気で残虐な雰囲気を感じる….とはいっても、実際のところ彼にスペインの血は1/8しか流れていなかったのですが….

しかし彼は自分をスペイン人であることを強く意識していた、といいます。彼の肌は白く見た目は北方系でも、中身はほぼスペイン人でありました。スペインで生まれ育ち、スペイン語を使いスペイン人の臣下をはべらせスペイン宮廷で帝王学を学び、21歳まで一度もスペインを出たこともありませんでした

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どうせなら、イングランドも欲しい

父による指示、イングランド女王との政略結婚

メアリー1世とフェリペ2世の結婚

フェリペ2世は16歳のときにポルトガル王女で、ハプスブルク特有の下唇をもつほがらかな女性と結婚していましたが、彼女は難産のあげく息子を残して他界。それからは独り身でしたが、27歳のときに、父カールの勧めによりイングランド女王メアリー1世と婚姻を結びます。このとき彼は王太子であり、相手は11歳年上のメアリー。肖像画を見るかぎり、とても気が進まないものではありましたが、父には抗えず結婚することになりました。

イングランド女王 メアリー1世

メアリー1世 (イングランド女王)

ヘンリー8世とキャサリン(狂女フアナの妹) の間に生まれたメアリーは、父の好色に翻弄され散々苦労した女性でありました。両親の離婚のごたごたで一時期庶子にまで身分を落とされ、母とともに幽閉された先では毒殺を恐れて栄養失調になったり、帝位につく直前には危うく殺されかけるなど散々地獄を見てきたからか、実年齢よりずっと老けていて、髪の毛も歯も抜け、病弱で痩せこけていました。若い時ときはとても綺麗だったメアリーですが、肖像画に見える表情はどんどん険しくなっているようにもみえます。(参考記事:メアリー1世【ブラッディマリーと呼ばれたイングランド女王】)

王と女王の結婚、自国を守るために結婚契約を

メアリー1世とフェリペ2世の結婚

結婚契約として、定められたのは、

  • メアリーはイングランドを出る必要はなく
  • イングランドへスペインは軍を駐留させないこと
  • 生まれた子はイングランドを継ぎ
  • フェリペの先妻の子がなくなった場合は、スペインも継承させる

というものでした。小国であっても、イングランドが欲しいスペイン。こうしてフェリペ2世は「世継ぎをつくらなければ」とイングランドへ渡りました

ブラッディメアリーと呼ばれた女王のはかない恋

処刑

メアリーはフェリペの肖像画をみて彼に想いを募らせており、また同じくカトリックのフェリペの意を汲んでか、プロテスタントの反乱者300人近くをすでに血祭りにあげていました。これが世に知られている、ブラッディーメアリー (血に染まった女王)と呼ばれた所以ですね。もちろん背景には、彼女の母キャサリンもスペインハプスブルク家の出身であり、敬虔なカトリックの影響をうけたメアリーが元々『イングランドのカトリック復古』を目論んでいたという事情もありました

王の愛が、メアリーに向くことはなく

メアリー1世とフェリペ2世の結婚

イングランドが欲しいスペインハプスブルク家、敬虔なカトリックでありイングランドのカトリック復古を目論んでいたメアリー1世。利害一致で政略結婚はしたものの、フェリペの愛がメアリーに注がれることはありませんでした。ただ世継ぎを作るためには努力をし1年半ほどイングランドに滞在、そして半年後メアリーの侍医が懐妊を発表しました。

ぶっきら棒だったフェリペ2世も「ようやく義務が果たせた」と喜びました。だってメアリーの子供が男児であれば、スペインはイングランドを世襲し、いっそうの大国になるわけですから。しかし切ないことに結局それは想像妊娠で、お腹が膨張した原因は腫瘍のせいでありました…。

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世継ぎが出来ぬ、とスペインに帰ったフェリペ2世

フェリペ2世の肖像画 (スペインハプスブルク)

メアリーが妊娠ではなかったとわかってもフェリペは変わらぬ態度を示したそうですが、40近いメアリーに子を成すのはもう不可能とみたのか父カールの退位宣言を口実にしささっとイングランドを去っていったのでした。メアリーは心のこもった手紙を送ったりと、彼を待ち続けたといいますが、次に彼がイングランドに戻ったのは13ヶ月後のことでした。しかも戦争の援軍要請…….彼女への愛情を利用して、対フランス戦での資金援助を仰ぐためだったといわれています。

メアリーの異母妹に、内々にプロポーズ

アン・ブーリンとエリザベス1世(参考記事:【アンブーリンの娘 エリザベス1世】生涯独身を貫いた女王の素顔)

フェリペ2世は本当にメアリーに愛がなかったのか、資金を調達するなりあっさり帰国。メアリーが腫瘍が悪化してもう長くないと知ると、次期女王候補のエリザベスに内々でプロポーズをしたといいます。父の好色で散々もめて異母姉メアリーにはただでさえよく思われていなかったエリザベスですから、もちろんフェリペの申し出はきっぱりと断りました

フェリペ2世、イングランド女王と死別

メアリー1世 (ブラッディメアリーの由来)

フェリペ2世はメアリーの葬儀にも出席せず、それどころか、エリザベス1世が戴冠すると即、正式に花婿候補に名乗りを上げました。メアリーには興味がなかったフェリペも、エリザベスには魅力を感じたのか、あの手この手でエリザベス女王 (イングランド)を手に入れようと画策したものの、逆にエリザベスからさんざん翻弄されたあげく「カトリックのあなたとは結婚しません」ときっぱり断られてしまいました。(エリザベス、よくやった)

その後の、フェリペ2世

フェリペ2世の肖像画 (スペインハプスブルク)

その後フランスの王女と結婚、2人の娘をもうけるも男児はうまれず、4人目の妻を迎えるにいたりました相手は後継となる健康な男児を産める女性でなければならない。というなら、10人も子を産んだ自分の妹だ…。というわけで、冷静ならば到底受け入れられなのですが、フェリペ2世は叔父姪結婚、いとこと自分の妹の間にできた娘アナを妻としたのです。

大変な血の濃さ、おそらくそのせいと思われますが、アナはたしかにたくさんの子を産みましたが、生まれた子は次々と早逝し、結局息子ひとりをのこし12年後に産褥で亡くなってしまったのでした。その後フェリペは妻を持つことはありませんでした。そして最後の妃がのこしたフェリペ3世が、のちにスペインハプスブルク家の3代目当主となります。(参考記事:ハプスブルク家と高貴な青い血【あごと下唇にみえる禁断の歴史】)

最後の、イングランドへの執着「アルマダの海戦」

アルマダの海戦

メアリー亡き後イングランド女王となったエリザベスは、カトリックとプロテスタント間の対立した国内で中立を保ちました。もはや和議はないと考えたフェリペ2世は艦隊をつれてイングランドに攻め込みましたこれが世にいう『アルマダ (無敵艦隊) の海戦』です。しかし英仏海峡に向かったスペイン艦隊でしたが、深夜にイングランド艦隊からの攻撃を受け痛手を追いました。

アルマダの海戦

火船による攻撃を避けるために緊急出港したスペイン艦隊は、その後のグラブリンヌの海戦でも損害を受けました。スペイン艦隊はブリテン島を東から北にまわってスペインへ戻ろうとしますが、途中で遭遇した嵐と飢えによって艦隊の大半をうしなっていまいました。

イングランドから離れるも、10年後には完全復活

1581年のフィリップのヨーロッパと北アフリカの領土

ただこの敗北により7つの海を支配する制海権が、スペインからイングランドに移ったわけではありません艦隊が酷い痛手をうけても、相変わらずスペインは最強のままでした。フェリペ2世自身が訪れたことのない地球の裏側の島々が、「フェリーペの島」と名付けられて植民地とされ、その名前がいまだにその国の名前として残っていたりもします。言わずと知れたフィリピンですね。

1598年のフィリップの領地

地球の裏側まで植民地にするなど、小国のイングランドには到底考えられないことでした。事実として、1588年にイングランド沖で撃退された艦隊にしても、わずか10年後に完全に復旧を遂げていたそうです。しかしそんな無敵と呼ばれたスペインから、自国を守り抜いたイングランド女王エリザベスの手腕も相当なものだったと評価されています。(参考記事:【アンブーリンの娘 エリザベス1世】イングランド発展の礎を築いた女王の素顔)

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あとがきにかえて

アルマダの海戦

4人の妻を娶るも、54歳でまたも独り身となったフェリペ2世。ようやく息子を得たこともあり、さすがにもう結婚は考えなかったといいます。一部の噂では、スコットランド女王メアリー・ステュアートに手をつけようとしていたとか。血統的にも「エリザベスより、メアリーが女王になるべきだ」という声が消えなかった国内で、エリザベス1世から王冠を奪い取り、メアリーをつかってスコットランドとイングランドを手中におさめようとしていたのか。

どちらにしても幽閉されていたメアリーにフェリペ2世が密かにコンタクトを取ったせいで、彼女は「エリザベス暗殺を目論む謀反人」として処刑されてしまいました。”「スペインが動けば世界は震える」と言われたが、「フェリペが動けばたしかにどこでも血が流れていた」“と言われていますが、この二人の結婚、治世には確かに多くの血が流れたのでした。(フェリペ2世とスコットランド女王メアリーついてはこちら【処刑台でも女王】魔性の女、メアリーステュアートの生涯にまとめております)

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