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【Nine-Day Queen 在位9日の女王】ジェーングレイは、何故処刑されたのか

2019/11/28
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、斬首刑に処されたジェーン・グレイこの記事では『ジェーン・グレイ令嬢』と呼ばれ、9日間の女王 (Nine-Day Queen)と呼ばれる背景には何があったのか、『悲劇の女王』ジェーンの人生を解説していきます。

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なぜジェーンは、王位につかなければならなかったのか

「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 ポール・ドラローシュ(1833年)

こちらの絵画『レディー・ジェーン・グレイ』でも知られている彼女は、1537年秋に英国で生まれました。父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。ジェーンの母方の祖母がヘンリー8世の妹であり、プロテスタントだったことから、ジェーンは王位争いに巻き込まれていくこととなります。

(画像引用元: Wikipedia)

 

ヘンリー8世没後の王位継承権では、4位だったジェーン

(ヘンリー8世 画像引用元:Wikipedia)

こちらがヘンリー8世の定めた、彼が王座を退いたあとの王位継承権です。

  • 3番目の妃との間の子供でありヘンリー8世の唯一の息子、エドワード
  • 最初の妃キャサリンとの娘、メアリー
  • ③ 2番目の妃アンの娘、エリザベス
  • ヘンリー8世の妹の孫、ジェーン

なぜ王位継承権4位のジェーンが、2位に位置するメアリーをとばして王座についたのかその背景にはヘンリー8世 (の離婚) による宗教改革が深く関わっています。

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背景にあった、ヘンリー8世による宗教改革

(ヘンリーの最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン)

元々イングランドはカトリックの国でしたが、それを変えたのはヘンリー8世でした。男児を望んでいた、アン・ブーリンに誘惑された、諸説ありますが、どちらにせよ彼は、2番目の妃となるアンと結婚するために、最初の妃キャサリンと離婚しようとしたのです。しかしカトリックでは離婚は認めていない上に、キャサリンは「カトリックの守護神」を自負するスペイン・ハプスブルク家の出身でした。

( (左) イングランドのヘンリー8世 (右) スペインのカール5世 (中央) 教皇レオ10世 1520年)

そしてカトリックの総本山であるバチカンも2人の離婚は認めませんでしたそこでヘンリー8世は (自分の離婚を認めようとしない) ヴァチカンの宗教的支配から逃れるために自らを長とした『イングランド国教会』を設立して、離婚を成立させ、アン・ブーリン (エリザベス1世の母親) とめでたく再婚を果たしたのです。

 

ヘンリー8世が (離婚したいがために作った) イングランド国教会とは

  (カンタベリー管区のカンタベリー大聖堂)

イングランド国協会は、プロテスタントに分類されることもありますが、他プロテスタント諸派とは異なり、ヘンリー8世が『カトリックの総本山から独立するために (カトリック教会の教義自体は否定せずに) 作られた』ため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多く、イングランドの統治者が教会の長であることが最大の特徴です。

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陰謀を企てる野心家の存在

(エドワード6世 1537年生まれ 在位1547年−53年 画像引用元:Henry VIII’s children)

ヘンリー8世がなくなったあと、彼の息子エドワードが即位しますが、病気により6年ほどで亡くなってしまいますさて、その次に王座につくのは誰なのかここでジェーンの血統に目をつけた野心家がいました。巨大な陰謀論を企てた、ウォリック伯 (のちのノーサンバランド公 ジョン・ダドリー)です。

(ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの肖像画)

 

父と義理父に、ムリやり王座に立たされた悲劇の王妃

この絵は、ジョバンニが描いたジェーン・グレイに王冠を受け入れるよう懇願するジョン・ダドリー(義理父)とヘンリー (ジェーンの父) 』です。計算高いジョン・ダドリーは、自分の息子4男とジェーンを結婚させておき、「自分が後見人をつとめるジェーン・グレイこそが時期女王にふさわしい血統だ」として、彼女を無理やり女王に即位させたのでした。

そもそもジェーンは王座につくつもりなどなく、エドワード6世が亡くなるやいなや、ジョン・ダドリーになかばムリやり即位宣言をさせられたジェーンは、ただ驚くばかりだったといいます

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最初の妃の無念、カトリックを復活させたい娘メアリーの蜂起

(ヘンリー8世とメアリー 画像引用元:Wikipedia)

ヘンリー8世は、宗教的な独立を果たしアン・ブーリンと結婚したあと『当時国内にあったカトリックの修道院を破壊しては財産を没収しては、莫大な富を得る』といった暴挙にでていたので、国内に敵も多くあったわけです。

(メアリー1世 画像引用元:Wikipedia)

先に王となったエドワードはプロテスタント、ジェーン・グレイとその夫もプロテスタントでした。しかし王位継承権2位にあったメアリーは、母キャサリン譲りのカトリック教徒であり、即位した暁にはイングランドをカトリック国に戻すつもりでした。結局ヘンリー8世の実の娘でもある、メアリー側にジョン・ダドリーの敵や、国内のカトリック勢力、国民の半数が加担し、メアリーは放棄した民衆とともにロンドンへと進軍して、9日後にはダドリーらを打ち負かして、改めて『新女王メアリー』を宣言したのです。

 

ジェーン・グレイの失脚と処刑

(ジェーン・グレイの裁判 ジョン・フェード 1832年 ©Dumfries and Galloway Council、Kirkcudbright Galleries)

その後メアリーは国内をカトリックに復帰させ、プロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれるようになります。しかしあきらかに王位継承権を周りに利用されただけのジェーンを処刑するにはためらいがありました。メアリーはジェーンと夫のギルフィードに「もしカトリック信仰に改宗するのであれば、命を助けましょう」と申し出ますが、2人は断ったためためらいながらも、メアリー女王は枢密院の勧告を受け入れ、ジェーンとギルフォードの処刑を命じたのでした

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あとがきにかえて

(レディ・ジェーン・グレイの死バレンタイン・グリーン 1786 ©Historic Royal Palaces)

ポール・ドラローシュが描いた『レディ・ジェーン・グレイの処刑』、サテンの純白のドレスを身にまとったジェーン・グレイが布で目隠しをされ、傍らにいる中年の司祭に導かれて、鉄輪がはめられ床に固定された小さな台 (斬首台) に手を伸ばしている、この印象的な絵画はいま、ロンドンのナショラルギャラリーにひっそりと飾られています。ジェーンは「改宗すれば命を助ける」という申し出を断り、最終的に夫とともにプロテスタントを貫き、結婚指輪をしたまま処刑されたとか。陰謀に巻き込まれ、振り回され続けた人生、最後の「改宗しない (死刑を受け入れます) 」という返答が、彼女が残した最初で最後の、意思だったのかもしれません。

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参考文献

  • https://www.hrp.org.uk/tower-of-london/history-and-stories/lady-jane-grey/#gs.9j5zdq
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Jane_Grey
  • https://en.wikipedia.org/wiki/John_Dudley,_1st_Duke_of_Northumberland

 

 

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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