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【処刑台でも女王】魅惑の女性、メアリーステュアート

2019/10/13
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

スコットランド女王メアリー・ステュアート。彼女の運命はイングランド、スコットランド、フランスだけでなく、カトリック、プロテスタント、そして君主国全体の運命とも密接に結びついていました。生後6日目にしてスコットランド女王となり、イギリスから逃れるためにフランス宮廷へはいり、従兄弟のエリザベス女王とは王位継承をめぐって争い、最後は色恋沙汰で殺害事件を起こして、自らも処刑されてしまう、の記事では、そんな波乱に満ちたメアリー・ステュアートの人生を追っていきます。

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生まれながらの、スコットランド女王

(メアリーが生まれたリンリスゴー宮殿 画像引用元:Wikipedia)

メアリーは1542年に、スコットランド王ジェームズ5世と、2人目の妻マリアの子供として生まれました。メアリー・スチュアートはスコットランド王の唯一の正当な娘であり、当時イギリスの主権を握っていたヘンリー7世のひ孫という大層なものでした。しかも生後すぐに父が亡くなったものですから、メアリーは生後6日目にして「スコットランドの王座」を継承することになります。

(メアリーステュアートの両親 画像引用元:Wikipedia)

 

スコットランドを狙う、イギリス国王 ヘンリー8世

ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)

イギリスの王ヘンリー8世は生まれたばかりのメアリーを息子のエドワードと結婚させることにより、スコットランドを手に入れようとします。しかしヘンリー8世といえば、妻を幾度も変えるほどの女好きで、残虐でわがまま、それを知っていたメアリーの母親はその申し入れを拒絶しました。メアリーの引き渡しを先延ばしにし続けたスコットランド、のちに攻めて来たイギリス軍に、1万ものスコットランド兵が命を落としたといいます。(参考記事:【英国王室の歴史】ヘンリー8世は、本当にただの女好きだったのか)

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イギリスの手を逃れ、メアリーはフランス宮廷へ

スコットランド女王 フランスを去るメアリー19世紀、ロバート・ヘルトマン画)引用元:Wikipedia

メアリー・スチュワードの母はフランス王家の血を継ぐ「ギース家」の出身だったため、イギリスの要求を逃れたメアリーは、フランスの支援を求めて、フランスの次期皇帝であるフランソワ2世の許嫁となり、1548年フランス宮廷に向けて旅立ちます。宮廷での華々しい生活は彼女にとって目覚ましいものでした。メアリーはそこでフランスの王女として13年間を過ごし結果フランス国王アンリ2世が亡くなったあとは、フランスの女王として過ごしました。

(1558年、フランソワとメアリー)

 

フランス国王、アンリ2世の困った声明文

(アンリ2世画像引用元:Wikipedia

エリザベス1世がイギリス女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、ヘンリー7世の曽孫であるメアリー・ステュワートこそ正当なイングランド王位継承権者である」と声明を出します。エリザベスは大激怒しますが、アンリ2世はこの翌年、祝宴中の余興による事故で急死、イギリスを統治するエリザベス1世と、スコットランド女王・フランス王妃であるメアリー、2人の女王の間には一層おおきな溝ができていくのでした。

(1546年頃のエリザベス作者不明 画像引用元:Wikipedia)

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2人の王女の大きな確執

(画像引用元:The rival queens: Mary, Queen of Scots and Queen Elizabeth I of England)

メアリー・ステュアートは、生まれて最初の18年間、スコットランドにはほとんど帰っていません。平穏な結婚生活と、『フランス王妃』生活もつかの間、夫フランシス2世は耳の病気で亡くなり、メアリーは18歳にして未亡人になってしまいます。そしてフランスの王位は義兄チャールズ9世に引き継がれました。姑カトリーヌ・ドメディシスと仲が悪かった彼女はフランス宮廷にはいられず、スコットランド女王として帰還することとなります。(参考記事:【王と妾に虐げられた王妃】カトリーヌ・ド・メディシスの数奇な運命)

スコットランドはもはや彼女が知っているものではなく、スコットランドのプロテスタント派は、英国を支持し、ジョン・ノックスが主導する宗教改革の下で正式なプロテスタント国家になりつつありました。

 

メアリーの熱愛、ダーンリー卿との結婚

(メアリーとダーンリー卿 画像引用元:The rival queens: Mary, Queen of Scots and Queen Elizabeth I of England)

スコットランド女王メアリーは、プロテスタントに対する宗教的寛容を促進することで、スコットランド市民の平和を守り、愛を勝ち取ろうとしました1565年にはいとこのダーンリー卿と英国人男性と結婚をします。メアリーと同じく、ダーンリー卿ヘンリーは、ヘンリー7世の曽孫であり、イギリスの王位継承権を主張するには、都合が良かったのです。しかし、その代わりに、これがきっかけとなり、一連の悲劇をうむことを、この頃のメアリーは知らなかったことでしょう。

(画像引用元:The rival queens: Mary, Queen of Scots and Queen Elizabeth I of England)

ダーンリー卿は残忍なほど虐待的で嫉妬深い人でした。彼はメアリーが秘書のデイビッド浮気していることを知ると、彼は相手の男を何度も刺して殺してしまいます。しかしメアリーにはもうダーンリー卿に対する愛はなく、また新しい男を作っては、恋にうつつを浮かすのでした。

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メアリーによる、ダーンリー卿の殺害嫌疑

(ダーンリー卿 画像引用元:WIkipedia)

新しい男性と結婚したいメアリー、しかしダーンリー卿との離婚は、カトリックの規則で禁じられていました。彼女が唯一ダーンリー卿と離婚できるのは、彼が死んだ場合でした。そんななか、1567210日の朝、エジンバラ郊外のカーク・フィールドハウスで謎の爆発があり、ダーンリー卿が死亡するという事件が起こります。そして「ダーンリー卿は、「リーの命令により、彼女と親しいボズウェル伯爵たちにより殺されたという噂が広がり、メアリーは容疑をかけられました

(ジェームズ・ヘップバーン (4代ボスウェル伯爵)画像引用元:Wikipedia)

ボズウェル伯爵はダーンリー殺害の容疑については無罪となりますが、裁判が終わったほぼ直後にメアリーと結婚したものですから、結局のところ、残っていた疑惑はさらに強まったのでした。

 

メアリー・ステュアートの投獄

(スコットランド女王メリー(1805) William Craig Shirreff 画像引用元:Wikipedia)

メアリーとボスウェルの3度目の結婚は、2度目の結婚に劣らず幸せだったといいますが、ボスウェル伯爵自身もまた王になるという野望を持っていたため、実現するためにメアリーに対する彼の権力を利用したのでは、ともいわれています。しかしこの2人の結婚は側からみれば「ダーンリー卿を殺した」証拠にみえたことでしょう、メアリーは姦通者で殺人者だと非難されました。そして1567年6月15日、エジンバラ近郊のカーベリー・ヒルにおいて、マリ軍とスコットランド貴族軍との間で衝突が起こり、メアリー軍は敗北し、メアリーはレーヴェン城に投獄されてしまいます。

 

メアリーは脱獄し、イギリスのエリザベスの元へ

(画像引用元:Wikipedia)

なんとか脱獄したメアリーは、最終的にイギリスのエリザベス女王の元へ逃げ込みます。「庶子が統治するべきではない」と義理の父アンリ2世に便乗して散々馬鹿にしていたメアリーですが、御都合主義なのか、自分のいとこが王位を取り戻す手助けをしてくれるだろうと確信があったようです。しかし、エリザベス女王は、メアリーを再び拘留し、シェフィールド城の堅固な要塞に14年間、そして他の様々な要塞に5年間投獄しました。

(シフェフィールド城復元イメージ図 画像引用元:https://www.sheffield.ac.uk/news/nr/sheffield-castle-history-location-pictures-model-virtual-ar-1.855473)

迫り来る運命に至るまでの数年間、メアリーはいとこに許して慈悲を見せてくれるよう懇願します。しかし、エリザベスは、王位を保持することに対して次第に偏執的になり、メアリーの嘆願を無視するようになりました。メアリーは結局、自分のいとこのもとで19年間監禁されて過ごすことになったのです。(参考記事:【ヴァージンクイーン】エリザベス1世)

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メアリーの、エリザベス女王殺害計画

(画像引用元:https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots)

エリザベスの父親ヘンリー8世と母親アン・ブーリンとの結婚が教会から認められなかったため、エリザベスを英国の非嫡出の王妃だと思う人も少なくありませんでした。そのため、エリザベスの支配に対する陰謀は珍しくなく、彼女はいつも不安を感じていました。メアリーを指揮下に置いても、エリザベスはますます偏執的になっただけ。そんななかメアリーの看守とカトリック司祭の間で「エリザベス暗殺」といった陰謀に関する手紙が見つかります。最期の慈悲で生かしておいたけれど、「これ以上は危険メアリーを生かしておいては自分の命が危ない」だと感じたエリザベスは、メアリーを反逆罪とみなし、有罪とをくだします。

 

メアリー・スチュアート処刑失敗説は本当か

(画像引用元:https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots)

158727日、スコットランド女王メアリーは、真紅の衣装をきて、堂々と断頭台に立ったとか。エリザベスは「自分の良心に目を向けなさい。」「世界はイギリス王国より広いことを覚えておいてください」そう言い残し、エリザベスは自分で死刑執行令状に署名しましたメアリーは何時間も祈り、最期に微笑んだといいます。そして頭をつっこむ前に、彼女は死刑執行人に「私のすべての患いを終わらせて」と言ったそうです。最初の斧の一撃はメアリーの首を避け、後頭部に食いみました。二人目は弱っていて首を切られたままだったが、その女性はまだ苦しんで生きていたといいます。しかし、3人目でそれはようやく終了、処刑人は首をあげて「女王陛下万歳」と群衆へ言ったそうです。

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あとがきにかえて

(オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面 引用元Wikipedia)

本来ならば、メアリーが逃げてきた時点で殺されても不思議ではないもの「監禁」という形で彼女を生きながらえらせたイギリス女王。メアリーは最後までエリザベスに感謝することはなかったそうで、断頭台でも堂々と立ち、王女としての威厳を失わなかったとか。その美貌と知性で多くの人を虜にし、したたかに宮廷を渡り歩いたメアリー・ステュアートも魅力的ですが (そばにいたらたまったものではないでしょうが)、「庶子だから王位継承はいかがなものか」と侮辱されながらも、最期に行き場を失った彼女を受け入れたエリザベス女王の器の大きさには感服するものがあります。中世に生きた2人の女王の物語は、これから先も長く語り継がれていくことでしょう。

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参考記事

  • https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots
  • https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I_of_England

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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