Wise man learns from History.

【メアリーステュアートの生涯】魔性のスコットランド女王 (前編)

2020/08/27
 
メアリー・ステュワートの生涯
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

魅惑の女王メアリー・ステュアート。生後6日目にしてスコットランド女王となり、イギリスから逃れるためにフランス宮廷へはいります。多くの男性と恋をして自由奔放したたかに生きるも最後は英国女王のエリザベス1世の暗殺計画をたて、処刑されるというなんともドラマチックな人生。の記事では、そんな波乱に満ちたメアリー・ステュアートの人生を追っていきます。

スポンサーリンク

生まれながらの、スコットランド女王

メアリー・ステュアート

メアリー・ステュワートの人生(メアリーステュアートの両親 画像引用元:Wikipedia)

1542年アリーはスコットランド王ジェームズ5世と、2人目の妻マリアの元に生まれましたメアリー・スチュアートと名付けられたこの子はスコットランド王の唯一の正当な娘』であり、当時『イギリスの主権を握っていたヘンリー7世のひ孫』という大層なものでした。しかも生後すぐに父が亡くなってしまったので、メアリーは生後6日目にしてスコットランド女王となったのでした。

 

女王のため、1万ものスコットランド兵が命を落とす

メアリー・ステュワートの人生 (ヘンリー8世)ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)

強欲で知られるイギリス王ヘンリー8世生まれたばかりのメアリーを息子のエドワードと結婚させることで、スコットランドを手に入れようと画策します。しかしヘンリー8世といえば、妻を幾度も変えるほどの女好きで、残虐でわがままな国王です。娘の将来を懸念したメアリーの母親はその申し入れを拒絶しました。

母は「まだ幼いですから、もう少し育ってから…」とメアリーの引き渡しを伸ばしつづけますが、業を煮やしたヘンリー8世はスコットランドにイギリス軍を送り込んでしまいます結果メアリーがイングランドに奪われることはありませんでしたが、1万ものスコットランド兵が命を落としました

スポンサーリンク

イングランドから逃れるため、フランスへ

母方の故郷フランスへ嫁いだメアリー

魅惑のメアリー・スチュアート (スコットランド女王メアリー 19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

メアリー・スチュワートの母は、フランス王家血を継ぐギース家の出身でした。イギリスの要求を逃れたメアリーは、フランスへ救いの手を求めます。フランスの次期皇帝であるフランソワ2世の許嫁となり、1548年フランス宮廷に向けて旅立ちます宮廷での華々しい生活は彼女にとって目覚ましいものでした。

メアリー・ステュワートの人生(1558年 許嫁となったフランソワと、スコットランド女王メアリー)

メアリーはそこでフランスの王女として13年間を過ごし、フランス国王アンリ2世が亡くなったあとは、フランスの女王として過ごしました。スコットランド女王とフランス女王を兼任したメアリー、可愛らしさとは裏腹の巨大な権力をもった彼女の運命はまた違う方向へ傾いていきます。

 

フランス国王、アンリ2世の困った声明文

メアリー・ステュワートの人生 (アンリ2世)(アンリ2世の肖像画

イングランドでヘンリー8世の娘であるエリザベスが女王になった頃、フランスのアンリ2世 (メアリの義理父) が困った声明文をだしました。

document庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、ヘンリー7世の曽孫であるメアリー・ステュワートこそ正当なイングランド王位継承権者である

イングランド国王から逃げるために母方の故郷フランスへ嫁いだメアリー。今度はそのフランスがメアリーを使ってイングランドを手に入れようとしたのです。

 

怒ったイングランド女王、エリザベス1世

(1546年頃のエリザベス作者不明 画像引用元:Wikipedia)

元々メアリーは「庶子だから女王になる権利などない」とエリザベスをバカにしたような態度をとっており、ふたりは犬猿の仲と呼ばれておりました。声明文を聞いてエリザベスは大激しますが、アンリ2世はこの翌年祝宴中の余興による事故で亡くなってしまいます。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

とにもかくにも、2人の女王の間には一層おおきな溝ができていくのでした。

スポンサーリンク

フランス宮廷を追い出されて

フランスでの穏な結婚生活もつかの間夫フランシス2世は耳の病気で亡くなりメアリーは18歳にして未亡人になってしまいます。

メアリーステュアートと、フランソワ2世(メアリー・ステュアートの最初の夫 フランス王フランソワ2世)

フランスの王位は義兄チャールズ9世に引き継がれました。姑カトリーヌ・ドメディシスと仲が悪かった彼女は、フランス宮廷にはいられずスコットランドへ帰還することとなりました。

 

すっかり変わったスコットランド

ウェールズ国立図書館のウェールズポートレートコレクションの肖像画(ウェールズ国立図書館のウェールズポートレートコレクションの肖像画)

メアリーは名残惜しくもフランス宮廷での華やかな生活に別れを告げ、スコットランドに帰りました。しかしそこでは牧師であり神学者であり国の改革のリーダーであったジョン・ノックスがスコットランド内のプロテスタント貴族と協力して、スコットランドのプロテスタント宗教改革を主導していました。スコットランドはもはや彼女が知っているものではなかったのです。正式なプロテスタント国家になりつつあったスコットランドですが、メアリーが怯むことはありませんでした。

スポンサーリンク

絶えないスキャンダル

恋多き女王メアリーの熱愛、ダーンリー卿との結婚

恋多き女性 メアリー・ステュアート(メアリー・ステュアートとダーンリー卿)

フランス王妃の座を失っても、『スコットランド女王』であったメアリー彼女はロテスタントを容認することで、スコットランド市民の支持を勝ち取ろうとしました1565年にはいとこのダーンリー卿と英国人男性と結婚します。容姿端麗な彼と恋に落ちたといわれていますが、ダーンリー卿はメアリーと同じくヘンリー7世の曽孫であり、イギリスの王位継承権を主張するには都合がよいという側面もありました。

あざとい女性、メアリー・ステュアート

『英国の女王はエリザベスではなく、わたくしのほうが適役』と思っていたメアリー。しかしこれがきっかけとなり、悲劇の連鎖がうまれていくことをこのときの彼女はまだ知りませんでした。

 

メアリーの浮気と、狂気を帯びた夫の復讐

メアリーはダーンリー卿に対して、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。しかし彼の甘やかされた傲慢な性格が浮き彫りになるにつれメアリーの愛情も冷めていきました。そして、メアリーの関心はピエモンテ人の音楽家で、細やかな気づかいを得意とする秘書デイヴィッド・リッチオにうつっていったのです。

メアリー・ステュアート ダーンリー卿の殺害

ダーンリー卿は、とても嫉妬深い人物でした。彼はメアリーがデイヴィッドと関係があると知ると、浮気相手の音楽家を何度も何度刺して殺してしまいますしかしメアリーにはもうダーンリー卿に対する愛はなく、また新しい男を作り、恋にうつつを浮かすのでした。

 

メアリーによる、ダーンリー卿の殺害嫌疑

(ダーンリー卿 画像引用元:WIkipedia)

新しい男性と結婚したいメアリー・ステュアートですが、ダーンリー卿との離婚はカトリックの規則で禁じられていました。彼女が唯一ダーンリー卿と離婚できるのは『彼が死んだ場合のみ』という状況のなか、エジンバラ郊外のカーク・フィールドハウスで謎の爆発があり、ダーンリー卿が遺体となって発見されました。

メアリー・ステュアート ダーンリー卿の殺害 (1567年、ダーンリー殺害後にかかれたカーク・オ・フィールドの絵)

もちろん殺害容疑をかけられたのはメアリー。「ダーンリー卿はメアリーの命令により、彼女と親しいボズウェル伯爵たちにより殺された」といった噂が瞬く間に広がったのです。

ジェームズ・ヘップバーン

ボズウェル伯爵はダーンリー殺害の容疑については無罪となりました。しかし裁判が終わったほぼ直後にメアリーと結婚したものですから、メアリーへの疑惑は強まるだけでした。ついに悪運もつきたのか、女王の運命がついに傾きはじめたこのとき、まさかのドンデン返しが彼女を待ち受けていたのでした。

後編はこちら :【メアリーステュアートの生涯】魔性のスコットランド女王 (後編)

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です