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【処刑台でも女王】魔性の女、メアリーステュアートの生涯

2020/03/29
 
メアリー・ステュワートの生涯
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

魅惑の女王メアリー・ステュアート。生後6日目にしてスコットランド女王となり、イギリスから逃れるためにフランス宮廷へはいります。多くの男性と恋をしてしたたかに生きるも最後は英国女王のエリザベス暗殺計画をたて、処刑されるというなんともドラマチックな人生。の記事では、そんな波乱に満ちたメアリー・ステュアートの人生を追っていきます。

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生まれながらの、スコットランド女王

メアリー・ステュワートの人生(メアリーステュアートの両親 画像引用元:Wikipedia)

1542年メアリーは、スコットランド王ジェームズ5世と、2人目の妻マリアの元に生まれましたメアリー・スチュアートと名付けられたこの子はスコットランド王の唯一の正当な娘』であり、当時『イギリスの主権を握っていたヘンリー7世のひ孫』という大層なものでした。

テューダー朝 家系図 (テューダー朝 家系図)

しかも生後すぐに父が亡くなってしまったので、メアリーは生後6日目にしてスコットランド女王となったのでした。

 

スコットランドを狙う、イギリス国王ヘンリー8世

メアリー・ステュワートの人生 (ヘンリー8世)ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)

強欲で知られるイギリス王ヘンリー8世は、「生まれたばかりのメアリーを息子のエドワードと結婚させることで、スコットランドを手に入れよう」と画策します。しかしヘンリー8世といえば、妻を幾度も変えるほどの女好きで、残虐でわがまま、愛情尽きたら最後王妃であっても斬首刑。それを知っていたメアリーの母親はその申し入れを拒絶しました

母は「まだ幼いですから、もう少し育ってからで…」とメアリーの引き渡しを伸ばしつづけますが、業を煮やしたヘンリー8世はスコットランドにイギリス軍を送り込みます結果メアリーがイングランドに引き取られることはありませんでしたが、そのために1万ものスコットランド兵が命を落としました(参考記事:【英国王室の歴史】ヘンリー8世を知るための5つのこと)

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イギリスの手を逃れ、メアリーはフランス宮廷へ

魅惑のメアリー・スチュアート (スコットランド女王メアリー 19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

メアリー・スチュワードの母は、フランス王家の血を継ぐ「ギース家」の出身でした。イギリスの要求を逃れたメアリーは、フランスへ救いの手を求めました。フランスの次期皇帝であるフランソワ2世の許嫁となり、1548年フランス宮廷に向けて旅立ちます。宮廷での華々しい生活は彼女にとって目覚ましいものでした。

メアリー・ステュワートの人生(1558年 許嫁となったフランソワと、スコットランド女王メアリー)

メアリーはそこでフランスの王女として13年間を過ごし、フランス国王アンリ2世が亡くなったあとは、フランスの女王としてしばし時を過ごしました。スコットランド女王と、フランス女王を兼任するとは、まったくもって信じられないですが、彼女の運命はまた違った方向へ傾いていきます。

 

フランス国王、アンリ2世の困った声明文

メアリー・ステュワートの人生 (アンリ2世)(アンリ2世の肖像画

ちょうどイギリスでは、ヘンリー8世の娘であるエリザベスが女王になった頃のことです。フランスのアンリ2世は、ヘンリー8世の娘エリザベス1世がイギリス女王となるやいなや、

document庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、ヘンリー7世の曽孫であるメアリー・ステュワートこそ正当なイングランド王位継承権者である

と、これまた困った声明を出していました。メアリーを使ってイギリスを自分のものにしようとした』のです。家系図をだしますと、こういうことですね。

テューダー朝 家系図 (アンリ2世の声明文)

スコットランドを背負ったメアリーさえ手にいれればというイングランド王ヘンリー8世から逃れるためにフランスへきたのに。今度はフランスが「メアリー」を使ってイングランドを手ににいれようとするのですから、皮肉なものです。

 

怒れる、イングランド女王エリザベス1世

(1546年頃のエリザベス作者不明 画像引用元:Wikipedia)

イギリスにいたエリザベスはこれに対して大激怒しますが、アンリ2世はこの翌年、祝宴中の余興による事故でまさかの急死。アンリ2世の企みもいったんおちついたようにみえましたが…また物心ついたときから女王様のメアリーは、「庶子のくせに」とエリザベスをバカにしたような態度をとっていた、といいます。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

エリザベスの生母アンは悲惨な最後をむかえ、彼女自身も苦労して生き抜いてきた身でしたから、頭にくるのもむりはありません。とにもかくにも、2人の女王の間には一層おおきな溝ができていくのでした。(参考記事: 【悲劇の王妃の娘 エリザベス1世】生涯独身を貫いた女王の素顔)

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王の死により、フランスに入られなくなったメアリー

メアリー・ステュアートは18年間スコットランドにはほとんど帰っていませんでした。平穏な結婚生活もつかの間夫フランシス2世は耳の病気で亡くなり、メアリーは18歳にして未亡人になってしまいます。

メアリーステュアートと、フランソワ2世(メアリー・ステュアートの最初の夫 フランス王フランソワ2世)

そしてフランスの王位は義兄チャールズ9世に引き継がれました。姑カトリーヌ・ドメディシスと仲が悪かった彼女は、フランス宮廷にはいられずスコットランドへ帰還することとなりました。(参考記事:【王と妾に虐げられた王妃】カトリーヌ・ド・メディシスの数奇な運命) 

 

久しぶりのスコットランドは、すっかり変わっていた

ウェールズ国立図書館のウェールズポートレートコレクションの肖像画(ウェールズ国立図書館のウェールズポートレートコレクションの肖像画)

メアリーは名残惜しくもフランス宮廷での華やかな生活に別れを告げ、スコットランドに帰りました。しかしそこはもはや彼女が知っているものではなく、そこでは牧師であり神学者であり国の改革のリーダーであったジョン・ノックスがスコットランド内のプロテスタント貴族と協力して、スコットランドのプロテスタント宗教改革を主導していました。

一部、一連の改革(一部、一連の改革を記した書)

スコットランドのプロテスタント派は、英国を支持しジョン・ノックスが主導する宗教改革の下で、正式なプロテスタント国家になりつつあったのですしかりメアリー女王はこんなことで怯んだり、彼女のスタンスを変える気は毛頭ありませんでした。

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メアリー・ステュアートの絶えないスキャンダル

恋多き女王メアリーの熱愛、ダーンリー卿との結婚

恋多き女性 メアリー・ステュアート(メアリー・ステュアートとダーンリー卿)

フランス王妃の座を失っても、以前として『スコットランド女王』のメアリー。彼女はプロテスタントに対する宗教的寛容を促進することで、スコットランド市民の平和を守り愛を勝ち取ろうとしました。そして1565年にはいとこのダーンリー卿と英国人男性と結婚します。ダーンリー卿ヘンリーはメアリーと同じくヘンリー7世の曽孫であり、イギリスの王位継承権を主張するには、都合がよかったのです。

あざとい女性、メアリー・ステュアート

不穏な声明を残したアンリ2世が亡くなっても、メアリー『英国の女王はエリザベスではなく、わたくしのほうが適役でしょう』と思っていたのですね。しかしこれがきっかけとなり、悲劇の連鎖がうまれていくことを、この頃のメアリーはまだ知りません。(実際エリザベスの治世は安定していましたから、国民からしたら迷惑な話だったのかもしれませんが.. )

 

メアリーの浮気と、狂気を帯びたダーンリー卿

しかしここでまたメアリーの暴走が始まります。メアリーはダーンリー卿に対して、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。しかし、彼の甘やかされた傲慢な性格が浮き彫りになるにつれてわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていきました。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のデイヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。

メアリー・ステュアート ダーンリー卿の殺害

しかしダーンリー卿は、とても嫉妬深い人物でした。彼はメアリーがデイヴィッドと関係があると知ると、浮気相手の彼を刺し殺してしまいます。残虐なことに、恨みつらみか、何度も何度も刺したとか…。しかしメアリーにはもうダーンリー卿に対する愛はなく、また新しい男を作り、恋にうつつを浮かすのでした。

 

メアリーによる、ダーンリー卿の殺害嫌疑

(ダーンリー卿 画像引用元:WIkipedia)

新しい男性と結婚したいメアリー・ステュアート、しかしダーンリー卿との離婚はカトリックの規則で禁じられていました。彼女が唯一ダーンリー卿と離婚できるのは、彼が死んだ場合のみです。そんな状況下でしたが、1567年2月10日の朝、エジンバラ郊外のカーク・フィールドハウスで謎の爆発があり、ダーンリー卿は命を落としました。

メアリー・ステュアート ダーンリー卿の殺害 (1567年、ダーンリー殺害後にかかれたカーク・オ・フィールドの絵)

もちろん殺害容疑をかけられたのはメアリー。「ダーンリー卿はメアリーの命令により、彼女と親しいボズウェル伯爵たちにより殺された」という噂が瞬く間に広がりました。

ジェームズ・ヘップバーン

ボズウェル伯爵はダーンリー殺害の容疑については無罪となりました。しかし裁判が終わったほぼ直後にメアリーと結婚したものですから、結局のところメアリーへの疑惑はさらに強まるだけだったのでした。

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メアリー・ステュアートの投獄

(スコットランド女王メリー(1805) William Craig Shirreff 画像引用元:Wikipedia)

メアリーとボスウェルの3度目の結婚は、2度目の結婚に劣らず幸せだったといいますが、ボスウェル伯爵自身もまた王になるという野望を持っていました。なので『メアリーへの恋心はあれど、伯爵自身もメアリーを利用したのではないか』ともいわれています。

しかしこの2人の結婚は「ダーンリー卿殺し」の疑惑を深めただけメアリーは『姦通者で殺人者』だと非難されました。そして1567年6月15日、エジンバラ近郊のカーベリー・ヒルにおいて、メアリー軍とスコットランド貴族軍との間で衝突が起こり、メアリー軍は敗北、メアリー・ステュアートはレーヴェン城に投獄されてしまいます。

 

メアリーは脱獄し、イギリスのエリザベスの元へ

(イングランド女王 エリザベス1世の肖像画)

なんとか脱獄したメアリーは、最終的に (あの敵対していた) イギリスのエリザベス女王の元へ逃げ込みます。「庶子が統治するべきではない」と義理の父アンリ2世に便乗して散々馬鹿にしていたメアリーですが、御都合主義なのか、「エリザベスとは敵対してたけど、まあ自分のいとこだし王位を取り戻す手助けをしてくれるだろう」と確信があったようです。

しかしエリザベス女王はメアリーを再び拘留。シェフィールド城の堅固な要塞に14年間、そして他の様々な要塞に5年間投獄しました(メアリーを匿っているとしたら、スコットランド軍になにをいわれるか、なにをされるかわかりませんもんね….)

 

慈悲か、処刑ではなく19年間の監禁生活

(シフェフィールド城復元イメージ図 画像引用元:https://www.sheffield.ac.uk/news/nr/sheffield-castle-history-location-pictures-model-virtual-ar-1.855473)

迫り来る運命に至るまでの数年間、メアリーはいとこに許して慈悲を見せてくれるよう懇願します。しかし、エリザベスは、王位を保持することに対して次第に偏執的になり、メアリーの嘆願を無視するようになりました。メアリーは結局、自分のいとこのもとで19年間監禁されて過ごすことになりました。

イギリスではエリザベスの父ヘンリー8世がカトリック教会と断絶したおかげで、カトリックとプロテスタントが混在し、自分の身も危ないものですから、エリザベスとしても気が抜けない状況だったのでしょう。(参考記事:【ヴァージンクイーン】悲劇の王妃の娘, エリザベス1世の波乱万丈な人生)

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メアリーの、エリザベス女王殺害計画

(画像引用元:https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots)

王ヘンリー8世と母親アン・ブーリンとの結婚は教会から認められなかったため、エリザベスを英国の「庶子 (非嫡出の王妃)」だと思う人も少なくありませんでした(参考記事:エリザベス1世を生んだ悲劇の王妃【アン・ブーリンの最後】 )

そのためエリザベスの支配に対する陰謀は珍しくなく、彼女はいつも不安を感じていたのです。メアリーを指揮下に置いても、エリザベスはますます偏執的になっただけ。そんななかメアリーの看守とカトリック司祭の間で「エリザベス暗殺」といった陰謀に関する手紙が見つかります。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

最期の慈悲で生かしておいたけれど、もはや限界。「これ以上は危険メアリーを生かしておいては自分の命が危ない」と感じたエリザベスは、メアリーを反逆罪とみなし、やむなく彼女を処刑台におくることにしたのでした。

 

メアリー・スチュアート処刑失敗説は本当か

メアリーステュアートの処刑(処刑台へむかうメアリー・ステュアート 羽織りものの中に真紅のドレスが見える)

あっちへこっちへいき、まあ色々あったけれど何とかなってきた。しかしそんなメアリーの運も、ここで尽き果てたのだろうか。メアリーは何時間も祈って最後に微笑み、1587年2月7日、スコットランド女王メアリー・ステュアートは、真紅の衣装をきて堂々と断頭台に立ちました

メアリー・ステュアート 処刑失敗説

最初の斧の一撃はメアリーの首を避け、後頭部に食いみました。2回目に振り下ろされたときも首は切られたものの、まだ苦しみつつも生きていたといいます。しかし、3回目に振り下ろされた斧でようやく処刑が成功、執行人は首をもちあげて「女王陛下万歳」と群衆へ叫んだそうです。

 

最後までメアリーの処刑をためらった、エリザベス1世

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

エリザベス自身はプロテスタントでした。しかし国内にある宗教的な対立を考慮して、カトリックを徹底的に弾圧などはしませんでした。

ただ、亡命してきたスコットランド女王メアリーについては、カトリックである彼女を利用としようという反対派の不穏な動きに荷担する動きがあったため、不本意ながらも彼女を処刑せざるを得なかった、といわれています。彼女は、メアリーの処刑に躊躇していましたが、議会からの強い要請もあって執行を承認。覚悟を決めたエリザベスはこういい残し、死刑執行令状にサインしたといいます。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート自分の良心に目を向けて。世界はイギリス王国より広いことを覚えておいてください

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処刑されても、争いの火種を残したメアリー

メアリー・ステュアートとフェリペ2世(メアリー・ステュアートと思われる女性の肖像画)

スコットランド女王メアリーが処刑されたことを受け、怒ったのはスペインのフェリペ2(メアリーへの元夫でもある)敬虔なカトリックであるフェリペ2世は『プロテスタントであるエリザベス1世は異端者だ、イングランド統治者には向かない』とし、メアリー・スチュアートを王位につけようとしていたのです。それなのにエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった…

また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世に海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていました

 

スペインがイングランドに攻め込んだ、アルマダの海戦

アルマダの海戦

もはや和議はないと考えたフェリペ2世は艦隊をつれてイングランドに攻め込みましたこれが世にいう『アルマダの海戦』です。しかし英仏海峡に向かったスペイン艦隊でしたが、上陸部隊の集結を待つためにカレー沖に停泊していたところ、深夜にイングランド艦隊からの攻撃を受けます。

アルマダの海戦

火船による攻撃を避けるために緊急出港したスペイン艦隊は、その後のグラブリンヌの海戦でも損害を受けました。スペイン艦隊はブリテン島を東から北にまわってスペインへ戻ろうとしますが、途中で遭遇した嵐と飢えによって艦隊の大半をうしなっていまいました。エリザベス1世の勝利… これにてようやく、メアリー・ステュアートの脅威から、エリザベス1世は解放されることができたのでした。

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あとがきにかえて

【処刑台でも女王】魅惑の女性、メアリー・ステュアート(オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面 引用元Wikipedia)

本来ならば、メアリーが逃げてきた時点で殺されても不思議ではないもの「監禁」という形で彼女を生きながらえらせたイギリス女王。メアリーは最後までエリザベスに感謝することはなかったそうで、断頭台でも堂々と立ち、王女としての威厳を失わなかったとか。

美貌と知性で多くの人を虜にして、したたかに宮廷を渡り歩いたメアリー・ステュアートも魅力的ですが 、「あなたは庶子でしょう」と侮辱されながらも、最期に行き場を失った彼女を受け入れたエリザベス女王の器の大きさには感服するものがあります。あなたはどちらの女王の生き方を魅力的だと感じましたか。いずれにしても中世に生きた2人の女王の物語は、これから先も長く語り継がれていくことでしょう。(エリザベスの生涯についてはこちら【悲劇の王妃の娘 エリザベス1世】生涯独身を貫いた女王の素顔にまとめております)

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この記事を書くために参考とさせていただいたサイト

  • https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots
  • https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I_of_England
  • https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley
  • https://www.rct.uk/collection/404444/elizabeth-i-when-a-princess

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