1933年、10歳と13歳とみられる2人の少年の骨がウェストミンスター寺院から発掘されました。これらの骨は1674年に壷に再埋葬され、修道院のヘンリー7世礼拝堂に置かれました。この骨は15世紀にロンドン塔で殺害されたとされる2人の王子の骨だとされ、大きな議論を巻き起こしました。今この記事ではミレイの絵画「ロンドン塔の王子」で知られる2人の兄弟の運命についておっていきます。
ロンドンに閉じ込められた王子
『塔の中の王子たち』は、イングランド王エドワード5世とヨーク公シュルーズベリー王リチャードを描いたミレイの絵画です。この絵画に描かれた兄弟はイングランド王エドワード4世の息子としてこの世に誕生し、エドワード5世については後の国王の座を期待されていましたが1483年に父王が崩御するや否や状況は一転します。
1483年父が崩御すると、兄弟たちは前国王の唯一の息子であったことで、権力を狙う者たちから命を狙われるようになります。そして兄が12歳、弟が9歳のとき、摂政に任じられていたはずの叔父リチャード グロスター公によって2人はロンドン塔に幽閉されてしまいました。
父の崩御、叔父に奪われた王位継承権
これは兄である王子が『エドワード5世』として戴冠するための準備だと考えられていました。しかし実際彼が国王になる未来は訪れませんでした。彼は『庶子』だとして、身分を否定され国王になる資格を剥奪されてしまったのです。
そして王冠をかぶったのは、前王の兄弟であり、彼らにとっては叔父であるリチャードでした。あれよあれよという間に彼は権力を手にし、自身が『リチャード3世』として戴冠してしまったのです。
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塔に消えたふたりの王子
(ポール・ドラローシュの絵画 ロンドン塔のエドワードとリチャード)
こちらにあるポールの絵画には、何もわからず未曾有の運命を怯えて待つ兄弟が描かれています。ロンドン塔に入り、兄弟が出てくることはありませんでした。ロンドン塔内で兄弟が目撃された記録は残っていますが、それ以降少年たちに何が起こったのかは今も謎に包まれています。
疾走の真相は
一般的な仮説としては、王子らは「叔父リチャード」に殺されたという説が有力です。彼は幽閉されたその年には殺されたとされていますが、彼らの失踪については様々な説がささやかれています。他にもいくつかの説が提唱されているなかで最も広く議論されているのは、第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタフォードの命令か、ヘンリー・チューダーによって殺害されたという説です。
少年たちが失踪する前、エドワードは定期的に医者に診てもらっていました。歴史家デビッド・ボールドウィンは、同時代人はエドワードが病気で死んだと信じていたといった説も展開しています。
ただどれも確かな証拠はなく、いずれにしても彼らへのアクセスを物理的にコントロールでき、面倒を見る役目にあった叔父リチャード3世が何らかの命を下したという説が有力です。
まとめ
2人の子供の骨は1674年にタワーの階段を再建している労働者によって発見されました。そしてチャールズ2世の命令により、これらは後にウェストミンスター寺院に移動され、エドワードとリチャードの名前が入った壺に入れられました。
骨は1933年に再調査されましたが、その時点で骨格は不完全であり動物の骨も混ざっていたことがわかりました。これらの骨が王子のものであることは今も証明されておらず、ロンドン塔のその部分が再建される前に埋葬された可能性があり、なお再調査の許可は拒絶され続けています。都合の悪い真実はいつだって葬られるもの、ロンドン塔に入ったあと王子たちがどうなったかは誰も知らずに歴史の闇にきえていったのでした。
ちなみに同時代に生きたトマス・モアは「王子らは枕で窒息死した」と記録しており、これはティレルがリチャードの命令で王子を殺害するウィリアム・シェイクスピアの演劇リチャード3世の基礎を形成したといわれています。
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