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【ルイ17世は生きていた?】アントワネットの息子の無情な運命 (前編)

2021/05/20
 
ルイ17世
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

誰もが知っている悲劇の王妃マリー・アントワネット贅沢三昧を尽くした彼女が首を刎ねられたことはご存知でしょうが、悲劇はそこで終わりませんでした。マリー・アントワネットには幼い男の子があって、家族でタンプル塔に幽閉されたあとも、子供たちはそこで暗澹たる人生を送っていたのです。

通説では両親であるルイ16世夫婦が死刑になったあと、息子のルイ17世はタンプル塔で病死したとされています。しかし、「王太子」を名乗る謎の男が世間を騒がせてきたのはご存知でしょうか。この記事では、ひそかに伝えられていたルイ17世の生存説をおっていきたいとおもいます。

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ルイ17世の運命

愛される全ての要素を備えた王太子

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

ルイ17世と、マリーアントワネットの次男が生まれたのは1785年3月27日のことでした。王も王妃も彼を夢中で可愛がり、父譲りの温厚な性格と母譲りの愛らしい美貌を受け継いだ少年は、まるで愛される全ての要素を持って生まれてきたかのようでした。しかし幸福な日々も束の間、1789年6月バスティーユの占領で革命の火蓋が切って落とされました。そして10月5日には、貧困に痺れを切らした6,000人もの市民が手に熊手や鉄串をもって、パンを求めてヴェルサイユへと行進をはじめたのでした。

捕まって悲嘆に暮れる王妃

立場が一転、とらえられた国王一家は一路パリへと連行されることになりました。一家が幽閉されたのは、中世に建てられたタンプル塔という夏であれど湿気でじめじめとする陰気な建物でした。しかし監獄生活とはいえ、最初のうちは割と平穏な生活を送ることができました。ルイ16世は幼い王太子に勉強を教えることができましたし、監視つきながらも一家で庭を散歩することもできました。

 

両親の処刑

ルイ16世

しかしそれは束の間の平穏1793年1月、ルイ16世は国民公会に引き出されて裁判にかけられ、死刑となることが決まったのです。しかし国王は涙にくれる家族の前で、すでに死は覚悟していたとして、これが国のためとなるなら受け入れることを毅然を語ったそうです。国王がギロチンにかけられたのは、1月21日のことでした。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

ルイ17世の悲劇は、それから約半年後に始まります。7月3日の夜、今度な哀しみに暮れる王妃マリー・アントワネットの元へ、ただひとり残った息子を取り上げようと警備の役人たちが踏み入ります。結局母子は引き離され、王太子はタンプル塔の3階にあるジメジメした一室にひとりぼっちで隔離されることとなりました。世話係を命ぜられたのは王族とはほぼ関係のない、靴屋のシモンでありました。

トラウマチックな最期

ルイ・シャルル (ルイ17世)

扉には頑丈な鍵がかけられ、窓には網枠がはられていました。彼の部屋と隣室の間にまたがる暖炉の上に格子つきの窓が作られ、そこから食事が差し入れられました。それから半年近くの間、家族はもちろん王太子は人目を避けて隔離されていました。

1794年1月、ルイは独房に入れられ人との関わりも殆どなく、十分な食事も与えられていませんでした。翌年には公安委員会により『保護者』が続々と任命されましたが、ルイ17世は病気にかかったまま放置され衰弱死を余儀なくなれました。1795年6月8日公開されたルイ・シャルルの死因は結核だったとされています。しかし身元が確認されなかったため、ルイ17世逃亡の噂は何十年にもわたって広まりました。

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ルイ17世の生存説

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

ルイ17世は酷い仕打ちをうけ、病死を遂げた」というのが通説でありますが、実はその後何人かの歴史家たちが新説を唱えていたのです。それは、途中から少年がすげ替えられ、実際のルイ17世は逃げおおせていたというもの。

この仮説の裏付けのひとつは、王政復古後にとられたシモン夫人の証言です。それは1月19日に引っ越し用の荷馬車がタンプル塔にきたとき、荷馬車には洗濯物かごや張り子の馬やおもちゃが積まれていたというもので。この張り子の馬に身代わりの少年が入れられており、王太子は洗濯物の下に隠されて塔から出されたというのです。

 

医師の変死と、王太子の急変

独裁者であるロベス・ピエールを失脚させ、権力をにぎったバラス将軍が、タンプル塔に幽閉された孤児のもとに部下とともに面会にやってきたのは1794年7月のこと。そこでは汚物が部屋のすみに重なり、少年はみすぼらしいマットレスの上にうずくまっていたといいます。入っていっても身動きひとつなく、「どこか悪いのか」と聞くと少年は黙って膝を指さしたのでした。彼の命令で部下が少年のズボンを膝まで切り裂いてみると、膝は真っ青に腫れあがっていました。

翌年5月6日、タンプル塔の少年の具合が急に悪化しました。急報をうけ駆けつけた市民病院の主任医師ドゥゾーは、少年をもう少し日のあたりの良い部屋にうつし、新鮮な果物や野菜を与えるように看守に命じます。ところが、今度はその医師が変死を遂げてしまいました。医師が少年の病状について委員会に報告書を出した直後であり、それは議員らが彼にご馳走した帰路のことでした。そしてこの事件を契機として、明らかに快方へむかっていたタンプル塔の少年の症状がまた悪化しはじめます。

 

王太子とされた少年の解剖

gaikotsu

ルイ17世とされた少年は医師ドゥゾーの忠告により栄養のある食事を与えられていましたが、6月6日の夜突然容態が悪化。全身に冷や汗をかき吐き気を腹痛にのたうちまわりながら、あっけなく息を引き取ってしまいました

翌朝、ふたりの医師と助手の手で遺体の解剖が行われました。開腹すると、腸が結核菌に冒されていることが判明し、右膝と手首には大きな腫瘍がみつかりました。のとき市会役人のダモンが、遺体の髪の毛を分けてくれと頼み、新聞紙に包んで持ち帰りました。遺体が解剖されたとき少年の髪の毛を手に入れたダモンは、王家の紋章入りの革箱にそれをおさめ、「ダモンの保管せしルイ17世の髪の毛」と記し保管していたのです。

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謎の男、ノーンドルフ

「自分は生き残った王太子である」

マリーアントワネットの子供達

そして、王政復古後の1817年、ルイ17世の実マリー・テレーズに会見を申し込みましたルイ16世一家での唯一の生き残りであったマリー・テレーズ。せめてもにと、ダモンはその髪の毛を彼女の護衛長であるグラモン公を通じて手渡そうとしたのです。しかし帰ってきたのは予想外の返事でした。

これは殿下の髪の毛ではありません。王太子殿下はもっと明るいブロンドの髪をしておられました

仰天したダモンは、髪が年とともに変化したのではないか、自身はタンプル塔で王太子の頭から髪を切るとるのをこの目で見たのだと説明しましたが、「それは絶対に違う」としてグラモン公は相手にしなかったのでした。1833年5月28日、ルイ17世を自称するノーンドルフという男性が突如フランスへ現れました彼が語ったのは、まさに奇妙な身の上話でありました。

 

自称王太子、男の身の上話

ノーンドルフ (ルイ17世の生き残り説)

あるとき、私は牢番からビンにはいった何かを飲まされました。そして牢番はベッドの下の箱から寝入っている子供を出して私のベッドに寝かせ、私を箱の中へ急いでいれました。私はそのまま気を失い、目覚めた時には小さな部屋に寝かされていたのです

彼の話はにわかには信じがたく、その出生を証明する何の証拠もなかったため「自分はルイ17世である」という言葉を誰も信じなかったのでした。しかし1833年にパリに招かれたノーンドルフをみた引退判事は、「彼は国王一族の全員にそっくりだ」と叫んだのです。

ルイ17世 (ルイ・シャルル)馬鹿げたノーンドルフ信仰がはじまったのはそれからでした。信者たちは「王子の身の上話」があまりに信憑性がないとして、自分たちで考えた上脚色を加えてしまうほどでした。しかし驚くべきは、このノーンドルフが、その後二十人以上の王家の元従者から本物だと認められたことでしょう。

果たしてノーンドルフはその後どうなっていったのか、【ルイ17世は生きていた!?】王太子を名乗った謎の男ノーンドルフ (後編)へと続きます。

 

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