【カルロス1世】帝国の絶対君主、家系図でみるスペインハプスブルク家の始祖

Charles Charles V, Holy Roman EmperorV, Holy Roman Emperorハプスブルク家

神聖ローマ皇帝カール5世は、スペイン王を兼ねた16世紀の強力なヨーロッパ君主名門ハプスブルク家にうまれ、国王の称号の継承、婚姻外交、軍事力による併合など、さまざまな手段をつかってヨーロッパ大陸に一大帝国を築いた人物です。この記事では『日の沈まぬ帝国』を築いた大君主カール5世をご紹介します。

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カール5世とは

ハプスブルク家 最盛期の皇帝

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カール5世はハプスブルク家の絶頂期に君臨した人物です。その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の『歴史的ヨーロッパ概念の体現者』とも言われています。さらに当時は大航海時代の真っ只中で、カール5世は文字通り世界中に領地を所有していたことから、『太陽の沈まない国』と称され、ヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げました

カール5世が、カルロス1世とも呼ばれるのはなぜ

カール1世とカルロス1世の違い

とくにハプスブルク家においては、ひとりの君主がいくつもの『国王』を併任するといったことが多くありました。そのためカール5世もふたつ名前をもっています神聖ローマ皇帝としての名前が『カール5世』スペイン王としての名前が『カルロス1世』です。

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家系図でみるカール5世 (カルロス1世)

婚姻外交の始祖、祖父マクシミリアン1世のもとで

ハプスブルク家 家系図(引用元:スペインハプスブルク家【誰でもわかる肖像画つき家系図 )

カール5世は1500年、ハプスブルク家のフィリップ美公とスペイン王家フアナ(図②) の元にうまれました。母方の祖父母はアラゴン王のフェルディナンド2世と、カスティーリャ女王のイザベラ1(図②)彼らの結婚でスペインが一つになったので歴史的にも貴重な結婚でありました。

ちなみに『陛下(His Majesty)』または『皇帝陛下(His Imperial Majesty)』という言葉が最初に使われたのは、カール5世が皇帝のときだったといわれています。彼の手腕で帝国は大きくなりスペインは陽の沈まない国といわれました

マクシミリアン1世 ハプスブルク家(晩年のマクシミリアン1世アルブレヒト・デューラー画、1519)

カール5世の父方の祖父母はマクシミリアン1世とマリー・ブルゴーニュ公爵夫人。マクシミリアン1世は代々神聖ローマ皇帝をつとめてきた名門、ハプスブルク家の相続人です。自身だけでなく孫の代まで婚姻を計画的にすすめたことで知られており、『幸いなるオーストリアよ、戦争は他のものに任せておけ汝は結婚せよ』というハプスブルク家の家訓をつくった人物です。

地図でみるカール5世の領地

カルロス5世の領地

こちらが、カール5世が治めていたとされる領土です。

  • ブルゴーニュ地方 (1506-1555)
  • カスティーリャ(1516-1556)
  • アラゴン (1516−1556)
  • ナポリ・シチリア(1516-1554)
  • オーストリア(1519-1521)
  • ローマまたはドイツ(1519-1531)

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晩年のカール5世と、子への領地継承

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カール5世は晩年痛風に苦しみ、亡くなる前に自ら退位を申し出ました。退位にあたり、後継はどうなるのか。両親から受け継いだ、スペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子フェリペ2に譲り、マクシミリアンから受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世へ相続されました。

ハプスブルク家 家系図(引用元:スペインハプスブルク家【誰でもわかる肖像画つき家系図 )

これをもって、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系(のちのハプスブルク=ロートリンゲン家)スペイン・ハプスブルク系に分裂することになります。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステ修道院に隠棲し1558年に58歳で亡くなりました。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていたといいます。

 

カール5世に関する逸話

Charles Charles V, Holy Roman EmperorV, Holy Roman Emperor

『世界最大の植民地帝国』を築いたといわれるカール5人の良い性格で優秀な君主だったと伝えられており、度重なる戦いをへて自分が地位をゆずる時には

memoこれまで余は経験不足やあまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一そんなことがあったとすればここに許しを請いたい

と言って、涙で演説がとぎれたという人柄のわかるエピソードも残っています。

 

ハプスブルク顎と受け口

カール5世にみえるハプスブルク顎と受け口

ハプスブルク家といえば「しゃくれた顎と、独特な受け口」が思い出されますが、カール5世にもこの特徴が見受けられます。彼は両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であったため、一見下あごが突出しているように見え、常に口の開いた状態だったとされています。しかし彼はまだ軽度なほうで、問題なのはこの後です。

この後世継ぎに困った子孫が近親婚を繰り返し、物理的に王族が脆弱していったスペイン・ハプスブルク家はわずか5代で断絶をむかえます。最後の皇帝となったカルロス2 (皮肉にも初代の名前をとった)は、この特徴が色濃くでて会話すらもままならないほどでした。尚、こちらについては (ハプスブルク家と高貴な青い血【あごと下唇にみえる禁断の歴史】)に詳しくまとめております。

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あとがきにかえて

Ferdinand I, Holy Roman Emperor

スペインの人々は、元々スペイン語がろくに話せないカール5世より、その地で育ったフェルナンドの王位継承を望んでいましたが、結局1516年に兄 (カール5) とトレードされるような形でオーストリアへ趨き、彼が生涯スペインに戻ることはありませんでした。それでも離れて育った兄弟の初対面は成功し、兄とは生涯良好な関係であったといわれています。

「なぜオーストリアへ送られるのか」、世界最大の帝国を築く兄をみてフェルディナントはどんな気持ちだったのでしょうか。しかし結果としてオーストリア・ハプスブルク家は20世紀まで形を残し一方で最大の繁栄を誇ったスペイン・ハプスブルク家はわずか5代で断絶してしまったのですから、先のことは本当にわからないものです。どんな形であれ劇的な繁栄のあとには、反動がくるものなのかもしれません。

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参考文献

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