【フロンドの乱とは】幼きルイ14世を恐怖のどん底に陥れた貴族達の逆襲

フランスの歴史

ルイ14世に多大な影響を与え彼の人生とフランスの宿命を変えたといわれるフロンドの乱。17世紀のフランス、王室に意を唱えた貴族たちが一大勢力となって巻き起こった反乱で、最終的に貴族勢力は打倒され絶対王政の確立につながった戦いです。この記事では、なぜフロンドの乱が起こったのか、一体どういった争いだったのかをわかりやすく解説していきます

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これでわかる、フロンドの乱とは

貴族たちのつもる不満が、重税案により爆発

Fronde

フロンドの乱は王太后アン(ルイ14世の母親)とマザラン枢機卿(アンの顧問)が30年戦争の資金援助のために資金を集めるという新たな提案への不満から始まりました。政府当局者がどのくらい影響を受けるかというと、約4年分の給与を放棄するに等しく当然ながら反対する者が多くでました。議会と高等法院はこの計画を拒否し王権を制限する別の案を作成しますが、それに対して、大太后ンとマザラン枢機卿は、反対した議会指導者の逮捕を命じました

三十年戦争から戻った国王軍が鎮圧

Thirty Years' War

反乱した貴族たちは、王太后アンとマザラン枢機卿が逮捕した政府高官を保釈せざるをえなくなるまで、パリの路上を封鎖して抗しました。一方、1648年のウェストファリア平和条約で30年戦争はようやく終わりを告げ、国王軍が戻るとようやく前線を制圧。軍がパリの通りを占拠しましたこの隙にルイ14世をつれて、摂政であり母親のアン、マザラン枢機卿は街から逃げ出します議会と王室の間で妥協が成立したのは、1649年3月のことでした

フロンドの乱に関わった重要人物

国王軍の要から寝返ったコンデ公 ルイ2世

Louis II de Bourbon-Condé

フロンドの乱で覚えておきたいひとりが、国王軍から寝返ったコンデ公ルイ2世です。幼年のルイ14世の摂政であった王太后アンが頼りにしていた人物でしたが、1647年からパリ高等法院が宰相マザランの設けた新税に対し攻撃を始め、王室軍事の要であったコンデ公の立場も危うくなっていきます。30年戦争でも活躍し、ルイ14世がパリから離れた時も護衛についたのですが、弟のコンティ公アルマンが敵対するパリ軍の総帥であったところからマザランに疎まれ、1650年1月に姉アンヌの夫ロングヴィル公アンリ2世と共に国事犯として逮捕されてしまいます。姉のロンケヴィル夫人はトゥレンヌ元帥に弟を解放するためにスペインの同盟者を集めるよう求めますが、ともに国王軍に破れました

最終的に国王軍についたトゥレンヌ

Turenne

国王軍はトゥレンヌとスペイン軍を破りましたが、マザラン枢機卿は多くの貴族の圧力により、コンデ公を解放することを余儀なくされます。その後、マザラン枢機卿は2月にやむなくドイツへ逃亡。今更何だとコンデ公は公然とした戦争で王政打倒を試みました。しかしトゥレンヌはときをみてコンデを裏切り、突如国王軍を支持する側へまわります。コンデ公はスペインと同盟を結びましたが、結局トゥレンヌに敗れてしまいました。敗北後パリへ戻ったマザランの手腕によりフロンドの乱は鎮圧され、コンデ公たちは王政と和解に至りました

さいごに

Treaty of the Pyrenees

コンデ公は和平を拒否し、1659年のピレネー条約まで西仏戦争のフランス軍を指揮しました。フロンドの乱により、反対勢力を打ち負かしたルイ14世は誰もが認める君主制を確立することができましたが、フランス経済は引き続き苦しい状況がつづきました。ときにたった一つの出来事が、人の人生を大きく変えてしまうことがありますが、この事件はルイ14世のなかに深く刻まれました

宮殿をパリではなくヴェルサイユに建てたのは、この思い出を避け心機一転するためで、また宮殿のなかに規律をつくり貴族たちを呼び寄せ監視したのもこの事件が大元にあるからだといわれています。フロンドの乱がなければ、ヴェルサイユ宮殿を建てることはなかったのか、否、それは誰にもわからないことです。

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