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【信念を貫き自己破産】巨匠レンブラントの光と影に潜むもの

2020/02/27
 
【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

亡くなる最期まで描きつづけた光と影の魔術師、巨匠レンブラント。途中から注文が減ったのは「顧客の要望通り」ではなく、彼が「芸術の極み」を目指しつづけたからでした。しかし誇り高き信念がなければ、彼の光がここまで輝くことはなかったのかもしれません。この記事では、この誇り高き画家の生涯をみていきたいとおもいます。

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少年が生まれ持った、類稀なる才能

【巨匠レンブラント】はなぜ、あんなに多くの自画像を描いたのか(1629年レンブラントの肖像画)

オランダ片田舎の「粉屋の息子」として生まれたレンブラント。あくまで庶民階級の出身ではありましたが、比較的裕福な家にうまれ、学業に秀でていたこともあり、父は期待をしてレンブラントを「ラテン語学校」に通わせ「大学」へも進学させます。しかしレンブラントの興味はデッサンと絵画ばかり。やむなく父は大学を退学させ、レンブラントをライデン市内の画家スワーネルビュルフに預けることにしたのです。

 

レンブラント、画家を目指してとして2人の師につく

レンブラント 「トゥルプ博士の解剖学講義」 (画:レンブラント 「トゥルプ博士の解剖学講義」)

レンブラントはスワーネルビュルフのもとで3年間修行し、デッサンに解剖学、遠近法を学びます。そして瞬く間にいろんなものを吸収していきました。いろんなものを注意深く観察し、また自画像を多く描き、人間の表情を徹底的に学び込んだのもこの時期です。そして最終的に、イタリア留学経験があり歴史画でトップといわれていた超一流のピーテル・ラストマンに弟子入りしたのでした。こちらはレンブラントの師となったラストマンの絵画です。

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか(受胎告知(1618年)画:師匠 ピーテル・ラストマン)

 

モデルにしたのは、自分と身の回りの人々

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか (レンブラントの妻となるサスキナの肖像画)

レンブラントのテーマは「歴史画に登場させる人物をいかに表情豊かに描くか」でした。そこで絵に登場させる人物たちのデッサンの勉強のために、モデルとしたのは身の回りの人々、そして家族と自分でした

  • 羽飾りの帽子、毛皮の襟巻きにビロードの服を着た父は威厳のある姿に
  • 母はたくましい手で杖の肢を握り、自らの身体を支えている老婆に
  • 妹はうつろな表情で遠くを見つめる金髪の美しい娘に

毛皮の帽子をかぶった老人の胸像、芸術家の父、1630 (毛皮の帽子をかぶった老人の胸像、芸術家の父 1630 画:レンブラント)

街中にでれば、酔っ払いに浮浪者、旅芸人や音楽家たちを。郊外では麦の刈り入れをする人々や、乳搾りをする女性たち。羊の群れをおう牧童など、様々なものを自分のなかに取り込んでいきました。もちろんその中でも、いちばんのモデルは融通のきく自分自身でした。(詳細についてはこちら【巨匠レンブラント】はなぜ、あんなに多くの自画像を描いたのかにまとめております)

 

「ぼくは人間らしい感情を描きたい」

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか(22歳のレンブラント 自分の肖像画 1628年)

色々な技法繰り返し試したレンブラント。絵筆をまわすことにより、髪の毛のくるくるを表現したりと茶目っ気のある実験もいろいろとしていたようです。また光と影をうまくいれこむことで、その人物が考えていることを絵画のなかで伝える方法をずっと考えていました。

レンブラント 窓際の自画像描画(彫刻、1648) (レンブラント 窓際の自画像描画(彫刻、1648

レンブラントはしわだらけの手やたるんだ腹、汚れた手足や衣装、衣服までを克明に描写したといいます。日々の生活に明け暮れる人たち、彼らの生身の姿をありのままに写生したかったといいます。版画のエッチング技法を一生懸命勉強してマスターし、エッチングであらたに人間の表情を研究することに時間を費やしました。

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若くして手にした栄光、ありあまる富と名声

注文が殺到し、レンブラントはさらに上流階級へ

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか (レンブラントの妻 サスキア モデルもつとめた)

1634年レンブラントは、上流階級の娘 サスキアと結婚します。サスキアは早くに両親を亡くしており、12歳にして孤児となり姉とその夫のもとで育ちました。彼女は両親から多くの遺産を継いでおり、多額の持参金をもってレンブラントのもとに嫁ぎましたまもなくして2人の元に、愛息子ティトゥスがうまれます

 レンブラントの息子 ティトゥス (机の前のティトゥス 画:レンブラント まな息子が物思いにふける様子) 

 

ふさわしい家に住みたい、と豪邸を購入

レンブラントの自画像 ベルベットベレー帽と毛皮のマントル 1634の自画像 (ベルベットベレー帽と毛皮のマントル 1634の自画像)

成功者はどうして豪邸に住みたがるのでしょうか。レンブラントは画業を通じ経済的成功を収めていたこともあり、「ふさわしい家へ引っ越そう」と豪邸を購入。さらに世界中の珍品収集をはじめ、2階はまたたくまに武器や骨董品で溢れたといいます。

 

最愛の妻、サスキアの死をかわきりに

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか (横顔のサスキア 画:レンブラント カッセル美術館所蔵)

近寄りがたいほどに優雅な雰囲気をかもしだすサスキア。花でかざられた冠をかぶれば、サスキアはたちまち美しい女神に変身しました。レンブラントの歴史画にはサスキアをモデルにした女性がたくさん登場します。

レンブラントの愛妻 サスキア (フローラとしてのサスキア 画:レンブラント1635年 ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵)

しかし非情にも、サスキアは愛する我が子ティトゥスをのこして29歳で帰らぬ人となります。死因は結核だといわれています。それでも彼女は夫の金遣いを心配し、しっかりと遺書をのこしていました

 

妻が亡くなる前に残した遺書

フローラ レンブラントのサスキア わたしが持っているすべての遺産は、息子ティトゥスにゆずります息子が結婚するまでは息子の分も夫 (レンブラント) の自由になりますが、彼が再婚した場合はこの限りではありません (画像:レンブラント画のサスキア)

と。かんたんにいうと「再婚するなら、わたしの財産は使えませんからね」ということです。実に懸命な判断だとおもいますが、これが大波乱を巻起こすことを彼女は知っていたのか、いや予想していたのかも…

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レンブラントの信用を大暴落させた、女性スキャンダル

乳母のヘールチェ・ディルクスを愛人へするが

レンブラント 乳母のヘールチェ・ディルクス(『ベッドの中の女』画:レンブラント 後妻となるヘンドリッキエがモデルと言われるが、ヘールチェがモデルであるともいわれている)

ティトゥスの乳母としてレンブラントに雇われたヘールチェ・ディルクス。ティトゥスを我が子のように可愛がり、また彼も彼女にとてもなついていました。次第にレンブラントは彼女に興味をもつようになり、モデルをお願いするようになります。言葉を濁しましたが、要するにレンブラントは彼女の肉体に魅力を感じ虜になってしまったわけです。乳母であり家政婦であった彼女はいつしか彼の愛人になっっていましたしかしオランダにはプロテスタントの考えが根付いており不倫はタブー。

風車、1641、エッチング レンブラント (オランダの風車 1641年 エッチング 画:レンブランド)

ヘールチェはレンブラントに結婚をせまりましたしかし「再婚したら前妻の遺産がつかえない」というお金事情もあり彼は結婚を渋り、結果的にののしりあうような関係にまで悪化してしまったのでした。ヘールチェはやむなくレンブラントの家を出て行くことになります。(この仕返しにとんでもないお土産をもってくることになるのですが)

 

次の愛人は20歳年下の家政婦 ヘンドリッキェ

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか(ヘンドリッキェの肖像画 画:レンブラント)

1949年レンブラントは新しい家政婦を雇いました20歳年下のヘンドリッキェという百姓娘です。小柄ですが整った顔立ちで、小太りではあるものの、ヘールチェとちがって心のやましい慎ましい女性だったといいます。とても働き者で日々しっかり家事をこなし、よくよく息子の面倒もみてくれる素晴らしい女性だったそうです。彼女もまたモデルをつとめるようになり、描かれたのがこの「水浴する女」です。

ヘンドリッキェがモデルの水浴をする女 レンブラント (水浴をする女性 画:レンブラント)

大胆な色彩対比と、絵筆の大きなタッチが特徴のこの絵、しかしこれをかわきりに2人は関係をもつようになっていきます。ただ遊び..というよりは、レンブラントは彼女を慈しみ敬愛していたといいます。

 

追い出されたヘールチェの逆襲劇

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか 画はヘンドリッキェ(画像:2番目の愛人となったヘンドリッキエ)

しかしそんな平穏 (?) にみえるレンブラント家に、「あの女」が戻ってきます。そう、乳母であり最初の愛人ヘルーチェです。彼女はレンブラントが新しい家政婦と関係を持つと知るや「婚約不履行」で彼を訴えたのです。

document私はティトゥルスが幼いときから我が子のように可愛がり、そしてこの方に尽くしてきました。掃除に洗濯、炊事に育児と一生懸命働きました。結婚してくれる約束でしたから肉体まで捧げたのです。それなのにあなたは私を裏切って、新しい女性がくるなり私をおざなりにしたのです

レンブラントは画家として広く名が知られていましたから、いまでいうと「文春にスクープを送りつける」ようなものでしょうか。結局レンブラントは5年間彼女に生活費を払うことになりました(不倫というのはいつの世も、最終的に不幸しかうまないのですね..)

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絵画の注文はパタリとやみ、ついに自己破産へ

ヘンドリッキエと一緒になることはできたけど

ダヴィデ王の手紙を持つバシテバ(Bathsheba at Her Bath モデルはヘンドリッキェ 画:レンブラント)

1654年ヘンドリッキエはレンブラントの娘を妊娠しました。彼女はどんな思いだったのか、改革派教会評議会に身重の身体で出頭します。しかし幸いにも、彼女はレンブラントとの「無婚同居」を認めてもらうことができ、1663年に死ぬまで事実婚夫婦として一緒に暮らすことができました(つまり正式に結婚したわけではないのでレンブラントは妻サスキアの遺産をつかうことができたのですね)

 

画家のあくなき挑戦と、受け入れてもらえない葛藤

スタッフとフルートを持つ羊飼いとしてのレンブラント 画:ホファールト・フリンク(スタッフとフルートを持つ羊飼いとしてのレンブラント 画:レンブラントの弟子 ホファールト・フリンク)

この頃から世間と、レンブラントの見解が分かれていきます弟子のフリンクや、ボル・バックルは「依頼主の要求に十分答える肖像画」を描いていましたが、レンブラントは「自分の芸術の可能性」しか考えていなかったからです。

レンブラント ヤン・シックスの肖像画(レンブラント ヤン・シックスの肖像画)

高いお金を払って、意に沿わない肖像画がでてくるのですから、当然注文は減っていきましたもちろん彼の芸術を理解し、愛してくれる人たちもいました貴族出身で実業家のヤン・シックスもそのひとりです。

 

負債を返済できず、レンブラントはついに無一文に

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか 画はヘンドリッキェ(3本の木、1643年 ダリッジ美術館 画:レンブラント)

この時期、第一次蘭仏戦争の勃発によりオランダは一気に不況に陥りました。彼に依頼をくれていた実業家たちもダメージをくらい絵の注文はさらに減り、弟子は減りお金ははいらない。なのに家の借金もかかえてまさに火の車。親しい友人から借金をするがそれでも足りない、結果としてレンブラントは資産を差し押さえられ、豪邸も集めたコレクションも、全てを失い無一文になってしまったのでした。

レンブラントの描いたヤン・シックス (レンブラントが描いたヤン・シックス)

スキャンダルを起こしても親しくしてくれていたあのヤン・シックスから借りたお金もかえせず、大切な友人さえも失ってしまいました。

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レンブラントの大作『クラウディウス・キウィリスの謀議』の裏話

【不倫に自己破産】光と影の巨匠レンブラントの人生になにがあったのか1655 (1655年に描かれたレンブラントの自画像)

1655年のこと、「落成したばかりのアムステルダム新市庁舎に飾る絵を作成してほしいと、レンブラントの弟子のホーファールト・フリンクに市から依頼がありました

レンブラントの弟子のホーファールト・フリンク(レンブラントの弟子のホーファールト・フリンク)

依頼された絵の題材は「オランダの先祖バダヴィア人たちが首都クラウディウスに導かれて、ローマ帝国に反旗をひるがえすという伝説。オランダの誇りを表現してほしいとの依頼でした。しかしフリンクは絵画の下書きを書いたところで、急死してしまいます。続きはレンブラントに任されました。

 

アムステルダム市より、屈辱の返品

そして仕上がったのがこちらの大作『クラウディウス・キウィリスの謀議です。

レンブラントの大作 クラウディウス・キウィリスの謀議(クラウディウス・キウィリスの謀議、1661-1662年 画:レンブラント)

この絵画はいちどはホールに飾られたのですが、なんということか、数ヶ月後にこの絵はレンブラントの元へ送り返されることになります。再起をかけた画家にとってなんたる屈辱、

  • 即興的な筆さばきが原因か、
  • キルィウスの片目 (独眼) の表現が露骨だったのか、
  • 荒っぽい厚塗りと、粗さのせいか

しかしそれはどれもレンブラントがこだわっていた部分でした。からはなんの説明もなく、レンブラントは受け取らざるをえなかったといいます。もちろん代金も支払われず、レンブラントは借金を返済できぬままに、先妻サスキアの墓地までも売ることになったのでした。

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最愛の人々が亡くなっていく悲しみと孤独

1668年9月4日(26歳)レンブラントの息子ティトゥス(大人になったティトゥス(享年26歳)画:レンブラント )

そんな屈辱的な出来事があった冬、自己破産に追い込まれても一緒にいてくれた愛するヘンドリッキェが結核で亡くなります。サスキアと同じ病、結核でした。その2月に息子ティトウスは結婚しささやかな結婚式をあげますが、妻マグダレーナが妊娠して3ヶ月、まさかの愛息子もこの世を去ってしまったのでした。

 

それでも私は画家ですから、描かなければ

(レンブラントの自画像 1658年)(レンブラントの自画像 1658年)

晩年のレンブラントは支えてくれた愛する者たちを次々と失いました。孤独のなかでもレンブラントは「それでも描かねば」と鏡をのぞきこみ、描いた自画像がこちらです。苦しみのなかでかすかに笑みを浮かべているのがわかりますでしょうか。つらく苦しく寂しく、もう笑うしかなかったのだとレンブラントが語っているようです。

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あとがきにかえて

『放蕩息子の帰還』、1666年-1668年、エルミタージュ美術館。晩年の聖書画。 (『放蕩息子の帰還』、1666-68年 レンブラント晩年の聖書画 )

若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖により自己破産。生前すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえいわれたバロック期を代表する画家レンブラント亡くなる最期まで「自分の肖像画」を書き続けた光と影の魔術師。彼が追い求めた芸術の極み、途中から注文が減ったのは「顧客の要望通り」ではなく、「彼の求める芸術」を突き通したからでした。その曲げない個性がなければ、彼の光がここまで輝くことはなかったのかもしれませんね。彼の描く圧倒的な光と影の明暗になにかを感じるのは、彼のすべてがそこに宿っているからではないでしょうか。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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