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【心優しい魂と耳切り事件】ゴッホのひまわりを楽しむための10のこと

2020/02/08
 
ゴッホのひまわりについて、あまり知られていない10の真実
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

2020年3月3日から、上野国立西洋美術館にて開催されるロンドン・ナショナル・ギャラリー展「英国が誇る至宝、奇跡の初来日」をキャッチフレーズにしたこの展覧会では、なんとゴッホのひまわりが来日するそうです。2019年のゴッホ展も圧巻でしたが『ひまわり』はありませんでしたので、何たる至福の知らせ…。というわけでこの記事では本物を思いっきり味わうための事前知識としまして、ゴッホのひまわりを楽しむために、知っておきたい10のこと』をご紹介します。

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ゴッホのひまわりシリーズ

ゴッホのひまわり 7点(画像引用元:Wikipedia ひまわり)

フィンセント・ファン・ゴッホはいくつも名作を残していますが、もっとも有名な作品の一つとして、ひまわりシリーズがあります。彼はこれらのキャンバスを合計12枚描きましたが、最も一般的に言及されているのは1888-89年にアルルで描いた7枚です。実はパリにおいて制作された5枚を含めて合計で12点とする定義がありますが、これは花瓶に挿されていない構図も含めています。

「'La Berceuse'」と書いているため、「子守歌」という副題が付けられることがある。「ルーラン夫人の肖像」「子守するルーラン夫人」「’La Berceuse’ (ルーラン夫人の肖像、子守するルーラン夫人)」画:ゴッホ

フィンセント自身は、なぜヒマワリが特に好きなのかを具体的には語らなかったとされていますが、彼の手紙には多くヒマワリのことが書かれていました。1888年8月21日付けの妹への手紙の中で、ゴッホは友人のゴーギャンがアルルにある黄色い家に一緒に住むこと、そして部屋に「ひまわりの絵」を飾るつもりだいうことを話しています

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ゴッホのひまわりを楽しむために、知っておきたい10のこと

① パリのひまわりと、アルルのひまわり

ゴッホ ひまわりについて知られていない10の事実(パリで描かれたひまわり)

ゴッホが1886- 88年にパリで弟のテオと住んでいた2年間の活動についてはほとんど知られていません。彼がパリでも『ひまわり』を描いたことが明らかになったのは、1889年の春でした。ゴーギャンがアルルをパリに発った後に残した研究と引き替えに、アルルの作品の一つを発表したときのことです。パリのひまわりの特徴は二輪や四輪の花をさりげなく表面に並べられており、アルルのひまわりは花瓶に生けられた構図が特徴です。

 

② ゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像

ゴッホ ひまわりについて知られていない10の事実ゴーギャン (左:ゴッホ 右:ゴーギャン)

展覧会で知り合い、やがて文通をするようになったゴッホとゴーギャン金銭的に困っていた彼にゴッホは一緒に住むことを提案します。「一緒に住むのならばゴーギャンの絵を買いましょう」という弟テオの申し出もあり、ふたりはアルルで一緒に過ごすようになります。ゴッホがひまわりを描く姿が、彼の絵画に刻まれています。

ゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像(1888年11月) ゴーギャンゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像(1888年11月)

 

③ 切断された耳の舞台、黄色い家

ゴッホとゴーギャンが暮らした黄色い家(The Yellow House, 1888. Van Gogh Museum, Amsterdam)

ひまわりはゴッホの切断された耳の物語と深いつながりがあります「ひまわり」が描かれたアルルの地。ゴッホはこの田舎と光に魅了され、多くの絵画を描きました。この時代の彼の作品は、黄色、群青、藤色に富んでいます。アルルでは、ゴッホはイエローハウス (黄色い家) と呼ばれた宿舎を借り、ゴーギャンを泊める部屋を用意しました。しかし後にここは、「自分の耳を切断して恋しい人へ、愛の証として送る」という、逸脱した行為の舞台となってしまうのでした。

 

④ ロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されたひまわり

ひまわりを楽しむための10つの知識(国立西洋美術館 宣伝用チラシ)

現存する「ひまわり」のひとつは、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています2020年3月に、国立西洋美術館に来日するものがそれですね。かつてマーガレット・サッチャー元首相が「フィンセント・ファン・ゴッホの菊を見たい」と頼んだことがあったそうです。誰も彼女を正そうとは思わなかったそうですが、皆一瞬でその間違いを理解したのでしょう。ちなみに今回来日するのは「ひまわり」です。

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⑤ ゴッホの黄色に隠された秘密

ひまわりを楽しむための10つの知識『収穫』(麦秋のクローの野)1888年6月、アルル

ゴッホはアルルで様々な絵を描きましたが、そこで彼は作品に「黄色の色合い」を多く吹き込みました。ゴッホの作品に黄色が多用されているのは、てんかんに対して処方されていたジギタリスの副作用 (黄視症) の影響と主張する学者もいますが、実際のところゴッホは黄色を幸せの色とし、好んでつかっていたようです。

ゴッホのひまわりを楽しむための10つの知識

事実として緑の野原を黄色に描いている作品があったり、また一時ゴッホが寝泊まりしていたカフェにも黄色がたくさん使われています。この時からゴッホは得体のしれない恐怖を感じていたともいわれています。

 

⑥ 自傷行為は、耳の切断だけではなかった

ゴッホのひまわりを楽しむための10つの知識 (ゴッホの肖像画 Portrait of Vincent van Gogh, 1887,)

唯一の理解者テオはよく知られていますが、父親からは精神病棟にいれられそうになるなど「お前はおかしい」とゴッホは家族から煙たがられていたのでした。27歳になったゴッホは夫を亡くしたばかりのいとこ、ケー・フォスに恋をします。しかし彼女はゴッホと会うことさえ拒んだため、ゴッホはケーの父を訪ねます。

ゴッホのひまわりを楽しむための10つの知識

そしてランプの炎に左手をかざし「僕がこの炎の中に手を差し入れている間に、お嬢さんを連れてきてください」と狂気めいた行動に出ますもちろんケーの父はランプの火をそっと吹き消すと、ゴッホを追い払ったのでした。恋は実らず、結果は周りを怖がらせただけでした。

 

⑦ 耳切り事件、愛する人へのプレゼント

アルルの寝室、1888年。ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダム(アルルの寝室 1888年 ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダム)

先ほど出てきた、「耳の舞台」となったアルルの黄色い家。ゴッホとゴーギャンは最初は穏やかな日々を送っていたふたりですが、段々と意見の違いから対立していきます。そしてゴーギャンとの言い合いをきっかけに、自分の左耳を切り落としてしまいます。そしてあろうことかその耳を、お気に入りだった娼婦に「これを自分だと思って大切にしてほしい」とプレゼントしたのです。警察沙汰になり、ゴーギャンとの関係は破綻、ゴッホは精神病院に入ることになったのでした。精神異常者だとされたゴッホですが、誰にもわからないどこか純粋な気持ちもあったのかもしれません。

包帯をしてパイプをくわえた自画像(包帯をしてパイプをくわえたゴッホの自画像)

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⑧ 素朴を愛し、農民の生活風景を愛した

ジャガイモを食べる人々 (ジャガイモを食べる人々 画:ゴッホ) 

1885年父が急死した後に描かれたのが、この「ジャガイモを食べる人々」、地元の農民の顔や手をつぶさに研究して描かれたものです。ゴッホは農民の生活を崇高なものと考えており、彼らの日常的な生活を多く描きました。ゴッホは農民がささやかな夕食を手に入れるために、畑で必死に働いていたことを知っていたのです。コミュニケーション下手であっても、「人の感情がわからない」わけではない。人付き合いが苦手で人一倍孤独を感じていたゴッホだからこそ、わかるものがあったのでしょう。

 

⑨ コミュニケーション下手、だけど優しさにも敏感

ポスター フィンセント ファン ゴッホ 自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)フィンセント・ファン・ゴッホ 自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)

まだ青年だった頃はチャールズ・ディケンズなどのイギリス作家の小説に惹かれ、貧しく不幸な人々の物語に心を震わせていたといいます。一時は聖職者を志したゴッホは、1878年に伝道師としての仮免許を受け、ベルギーの炭鉱町に赴任します。そして炭鉱労働者たちの過酷な生活に大きなショックを受け、彼らと同じ生活をしようと試みたのでした。

袋を運ぶ炭鉱夫の妻、重荷を運ぶ人 (ゴッホ)(ベルギーの炭鉱町にて 袋を運ぶ炭鉱夫の妻/ 重荷を運ぶ人 画:ゴッホ 1881年)

食べ物や衣服を必要としている人たちに、栄養不足の身体にボロをまとっただけといった姿になるまで、ゴッホは次々と自分の持ち物を与えたたのでした。(そんな姿をみて教会は眉をひそめ、「彼はとてもふさわしくない」と仮免許を剥奪してしまうのですが… ) 黒インクと鉛筆で暗い情景が丁寧に描き込まれたこの作品、「炭鉱労働者」や、その家族が生きた薄汚れた都市の姿を、遣る瀬無い想いともに書き記しています。「弱い人の味方でありたい」というゴッホの心は、死ぬまで続きます。

 

⑩ 精神病棟のなかで描かれた絵は、とくに穏やか

サン=レミの療養院の庭 (サン=レミの療養院の庭 画:ゴッホ)

父親までもが精神病棟に彼をいれようとし、耳切り事件のあとは近所の住民からの要請により、自ら精神病棟へはいることになったゴッホ。でも不思議とに入院することになったゴッホ。誰もがゴッホは精神を病んでいると考えていました。たしかに彼は周期的な発作に悩まれることはありましたが、彼の絵はとうてい精神の壊れた人間に描けるものではありません。観察眼にすぐれ記憶から思い起こして絵を描き、多くの画家の影響を受け、学んだ革新的な技法を用い、新たな表現手段を編み出してきました

糸杉 1889 晩年に何度も題材になった木。まるで炎が燃えているよう。(糸杉 1889年  晩年に何度も題材になった木、まるで炎が燃えているよう)

最愛の弟テオに宛てた何百通の手紙のなかでも、彼ははっきりとこう宣言しています。「色彩や線を使えば、自分が芸術家としてたてた目標を実現できるその目標とは、人生の喜びも悲しみも表現することだ」と。

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あとがきにかえて

星降る夜(星月夜 画:ゴッホ 1889年)

2019年のゴッホ展でも、彼の人生の変化につれ絵画の風合いがどんどん変わっていくことに感銘をうけたのですが、驚いたのは晩年精神病棟にはいったあとのゴッホの絵がとても穏やかだったことです。この星月夜は、精神科病棟からみえた未明の光景にヒントを得て描かれたものだといわれています。

手紙今朝、窓から外を眺めたんだ。夜明けにはまだ時間があり、明けの明星だけがやけに大きく見えた。(中略) 明けの明星が持つ親密さ、安らかさ、厳しさを表現しつつも、なんとも私的で、胸が張り裂けそうな感情がそこにはある僕は、こうした感情が嫌いじゃないよ (ゴッホからテオへの手紙より)

オーヴェルの教会 (オーヴェルの教会 画:ゴッホ 1990年 )

ゴッホは1890年若者から盗んだ拳銃で、自分の胸に狙いを定めて引き金を引いたのでした。即死ではないものの、そこから一気に衰弱。明くる日の正午にテオが到着、最期のときが近づくとテオはゴッホが寝ているベッドにはいりこみ、その頭を両手で抱えたといいます。翌日未明、ゴッホは静かに息をひきとったのでした。けして人付き合いが得意でなかったゴッホ、けれどその旨に次々とあふれる強い感情を誰にも真似できない方法で作品にぶつけ抜いた人生でした死後100年たった今も見る者の心を震えさせるゴッホの絵画たち。孤独に苦しんだゴッホが、ゴーギャンと出会い描いたひまわり。2020年の来日がとてもたのしみですね。

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