【アン・ブーリンの生涯】彼女はなぜ王妃になり処刑されたのか

anne boleyn henry8テューダー朝

イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃であり、エリザベス1世の母親でもあるアン・ブーリン。本や映画に多く取り上げられている彼女ですが、なぜ王妃になったのか、噂通りの悪女なのか、それとも陰謀渦巻く宮廷の被害者だったのか、その真相を知るのは本人だけです。この記事では英国で語られている、アン・ブーリンの人生をたどっていきます。

この記事のポイント
  • アンに夢中になった国王ヘンリー8世は、王妃キャサリンと無理やり離婚
  • 男児を望むも、アンに生まれたのは娘 (のちのエリザベス1世)だけ
  • 結果的にアンも離縁されることになり、最後は国王命令で首を落とされた
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アン・ブーリン

(王との鹿狩りを描いたアンブーリンの20世紀初頭の絵画)

アン・ブーリンについての記録は殆ど残っておらず、現在語られている彼女の人生は、作家の偏見や想像上のファンタジーの飛躍によって創られたものが多く、大きく婉曲している可能性もあるといいます。ただ一つ確かなこととして、彼女の亡骸は現在、英国ロンドンの聖ピーター礼拝堂に埋葬されています。

アン・ブーリンは、王ヘンリー8世の廷臣であったトマス卿と、エリザベスの間に生まれました。アン・ブーリンはとても美しく、黒い髪と瞳に細い首が特徴だったとされておりますが、実際はどのような性格だったかは知られていません。彼女は子供時代をイングランドのヒーバー城で、思春期は誰もの憧れだったフランス宮廷で過ごしました。

フランス宮廷から戻って

祖国イングランドに戻ったのは、1522年のことでした。イングランド王ヘンリー最初に彼女に出会ったのは、トーマス・ウォルシー邸で開かれた仮面舞踏会だったそうです。

フランスの華やかなファッションに包まれたアンは、まるで別人のように洗練されていといいます。後にノーサンバーランド伯爵となったヘンリー・パーシーや、詩人トーマス・ワイアットが彼女に求愛しますが、1526年には、ついに国王までもが彼女に魅了されるようになったのでした。

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退けられた王妃キャサリン

(王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン)

ヘンリー8世と王妃キャサリンとの結婚生活は長いものでしたが、大きくなったのはメアリー王女だけでした。1520年代半ばになるとヘンリーはテューダー朝の将来を心配し、世継ぎを強く切望するようになります。そういった背景も重なり、王の興味は王妃でなく、アンに注がれいくようになりました。

バチカン図書館には17通もの手紙が残されており、ヘンリーがこの先数年間、彼女に夢中になっている様子が詳しく書かれているといいます。

この時代、王でさえ簡単に離婚を決めることはできませんでした王妃キャサリンが、離婚をおとなしく受け入れていたなら、イギリスの歴史はかなり違ったものになっていたかもしれません。しかし彼女は元来のカトリック、本来ならば離婚など全くもってありえないこと

前例にない離婚騒動

(最初の王妃 キャサリン)

1527年、困ったヘンリー8世は、合法的にキャサリンと離婚する方法を探しはじめます。そしてキャサリンが自分の兄と結婚していた過去を引っ張り出し、ローマ法王へ、

  • 兄の未亡人を連れ去ったことは罪である
  • 自分の結婚は決して正当なものではない
  • だから離婚を許してほしい

と懇願したのです。

しかし教皇は、王妃キャサリンとの離婚を認めませんでした。そのため、ヘンリー8世はローマ・カトリック教会と断絶し、自ら「イングランド国教会」を築きます。こうしてローマ教皇の宗教的支配から抜けた彼は、キャサリンと離婚、アン・ブーリンと再婚を果たしたのです。

王妃の座へ

宗教的なゴタゴタと、王の暴走に家臣たちは翻弄されましたが、国全体をも巻き込んで、ようやく王妃となったアン・ブーリン。王妃の座を狙ったのは彼女の意思だったのか、野心家の父の思惑だったのかは謎のままですが、アンは、

  • ヘンリーの新しい宗教的・政治的政策を支持し、
  • またアンにとって有利な廷臣たちを周りに集めました

ここぞとばかりに、出世を狙うアンの親族が廷臣として王に近づいてきたといいます。(ここだけみると、やはり野心家の親族にアンが利用されたようにもとれるのですが…. )

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娘こと、エリザベス1世の誕生

そして1533年、ついに2人の間に子供が生まれますヘンリーが望んだ男児ではありませんでしたが、とても可愛く健康で、愛くるしい少女。この少女こそ、後にイギリス女王となる娘『エリザベス1世です。しかし男児を望むヘンリー8世にとっては落胆のもと。

ちなみにヘンリー8世の死後、アン・ブーリンの娘エリザベスは、(前妻キャサリンの娘)メアリーと散々バチバチやりあうことになりますが、それはまだまだ先のことです。

アンの流産と、国王が下した決断

世継ぎを期待した王でしたがアンとのに生まれたのは、女児 (エリザベス) だけでした。そしてアンは2回にわたり流産。迷信深いヘンリーは、アンと結婚したのは正しい選択だったのか迷い始めます。それには多くの人がいまだヘンリーの最初の妻キャサリンに同情していた、という背景もありました。

また影ではアンのせいで降格した廷臣たちが中心となって、敵対勢力となっていたりとあらゆる陰謀が渦巻いていました。再婚のドタバタに巻き込まれ失脚したトマス・ウォルジー(キャサリンとの離婚の説得に失敗したため、全ての官位と、全財産を没収された)もまた、アンに憤慨したひとりです。結果的にアンは結婚から2年後、王に姦通といった罪をきせられ、裁判にかけられ、処刑されることが決まったのです。

アン・ブーリンの処刑

(ロンドン塔のアン)

アンは同年5月19日、ロンドン塔にて斬首刑に処せられました。5月2日に逮捕されたアンは、ロンドン塔へのはしけに乗せられ、塔の入口の中でも最も悪名高い 『裏切り者ゲート』 の下を通りました。

当時のイングランドは斧を使って斬首していたのですが、剣での斬首を懇願するほど、アンは斧での執行を嫌がったので、ヘンリー8世は小さな慈悲として処刑人に「剣」を使わせたいいます。

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あとがきにかえて

(Amazon ホームページより引用)

何が本当だったのか、真実は彼女にしかわかりません。それだけに色々な物語がそこから派生し、彼女の人生に魅了されていくのかもしれません。映画『ブーリン家の姉妹』では、

memo『アンと妹メアリーの父と叔父が王に近づこうとするのに娘を利用するが、意志の強いアンが暴走して「王妃にしてくれないと、あなたのものにはならない」と王を誘惑、結果として王妃とドタバタ裁判が起こり、収拾がつかなくなった自体に王が憤慨してアンを死刑に処す』

といったいかにも宮廷らしい生々しいストーリーが描かれていました。

美貌と知性を持ち合わせ、王の興味をひいたアン。それが故に王妃になれたものの、仇となって悲しい最後を迎えた女性。その後アンの娘エリザベスはイングランドを長く統治することに成功しますが、母親を反面教師にしたのか一生涯独身を貫きました

宮廷の血みどろの争いを見て、「こうはならぬ」とどこかで腹をくくっていたのかもしれません。もちろんアンは娘がのちのイングランド女王になることなど知るよしもなくあの世へ旅立ったのでした。(アンの娘についてはこちら【ヴァージンクイーン】悲劇の王妃の娘, エリザベス1世の波乱万丈な人生をご参照ください)

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