【ジョージ6世ってどんな人?】英国王のスピーチで話題となった不屈の君主

イギリス王室

​英国王のスピーチで焦点があてられたジョージ6世。父王が亡くなると兄が「エドワード8世」として即位したわけですが、彼は愛する女性ウォリスのために国王位を放棄。そこで急遽国王となったのが『ジョージ6世』です。この記事では、ジョージ6世とはどんな人物だったのか、家系図を用いて見ていきたいと思います。

この記事のポイント
  • 両親からシビアな教育を受け育った、ジョージ6世
  • 兄エドワード8世の突然の退位により、予期せず王位を継ぐことになった
  • 吃音とも向き合い、揺らぐ玉座を守り抜き、英国民にとって不屈の象徴とされた
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​ジョージ6世とは

ジョージ6世
ジョージ6世、ヨーク公が生まれたのは1895年12月のこと。正式には「ヨーク公」ですが、王室内では「バーティ」と呼ばれていました。ジョージ6世は、イギリス国王ジョージ5世とその妻メアリー皇后の次男として生まれました。しかしヨーク公の青春時代はあたたかいものではなく、両親からの愛を充分に感じることもなかったようです。

父親は厳しく批判的で、子供のころに利き手を左から右手に強制的に直されたり、足に矯正器具をつけてノック膝を矯正されるなどシビアな教育を受けました。その影響もあってか、吃音症を発症したのは8歳のときのことでした。ヨーク公 (未来のジョージ6世)は病気がちで、急に泣き出したりかんしゃくを起こすこともありました。吃音症は徐々に治っていきますが、この特性は大人になっても変わらなかったといわれています。

​妻とは恋愛結婚で

​1920年頃、皇太子は、幼い頃から家族ぐるみで知っていたエリザベス・バウエス=ライアン嬢と再会しました。18歳になった彼女はとても魅力的でした。皇太子は2度彼女にプロポーズしますが、断られてしまいます。しかし3度目の結婚の申し込みでレディ・エリザベスはついに承諾し、2人は1923年ウェストミンスター寺院で結婚式を行いました。

エリザベスはイギリス伝統のよき家庭と、王族としての公務とをうまく両立させた女性でした。その温和な仕草から「微笑みの公爵夫人」と呼ばれるようになっていました。

ジョージ6世

第二次世界大戦中にエリザベスは『不屈の意思』を見せて、イギリス国民の精神的支柱ともなりました。イギリス国民の士気を鼓舞する役割を果たすエリザベス王妃に対して、敵国ナチス・ドイツのヒトラーは彼女を「ヨーロッパでもっとも危険な女性」と評したといいます。

ジョージ6世の吃音症

結婚して最初の数年で絆が深まった2人、そしてエリザベス王妃は、吃音が夫にとって大きな試練であることを知りました。そして、ロンドン在住のオーストラリア人の言語聴覚士、ライオネル・ローグに助けを求めたのです。

ジョージ6世

英国王のスピーチではこの経緯が時代背景とともに丁寧に描かれており、最初は気乗りしたかった皇太子 (のちのジョージ6世)もローグを見初め型破りな治療に打ち込みました。妻の助力もあり、ヨーク公とライオネルの間にはやがて友情のような絆が生まれました。「キング・ジョージ」のあの伝説的な演説はそうして生まれたのです。

愛するふたりの娘

ジョージ6世

ジョージ6世は、「エリザベス女王の父」としても知られています。

1926年に、後にエリザベス2世としてイギリス国王に即位する長女が生まれました。名前は母親と同じ「エリザベス」。そして4年後に、次女のマーガレット王女が誕生しました。今まで王室内の子供は、ジョージ5世をはじめ乳母に育てられるなど両親の愛情を直接受けられないことが多かったのですが、王妃は2人の娘を愛情をもって育てました。

1927年に、ヨーク公とエリザベスはオーストラリアを公式訪問したのですが、生後一年の長女エリザベス2世は連れて行けず、彼女は「幼い子供を残して旅立たねばならないとは、なんと惨めなことでしょう」と日記に綴っています。

兄の駆け落ちと、突然の戴冠

父であるジョージ5世が亡くなると一度は兄のエドワード8世が王位を継ぐことになりました。しかしエドワード8世はまともな仕事をしないばかりか、は愛する女性と結婚することを選び、国全体へ突如退位を宣言してしまいます。。​心の準備もできないままヨーク公は、兄エドワード8世の退位に伴い、「国王ジョージ6世」として即位することになったのです。

第二次世界大戦が始まる前には、英仏の連帯を確認し、米大統領と親交を深めるなど平和に助力しました。しかし「戦時中の心労がジョージ6世の健康を損ねた」といわれている通り、晩年ジョージ6世は病に苦しみます。

ジョージ6世の最後

ジョージ6世と若きエリザベス女王

1952年1月31日、体調が優れないジョージ6世は、娘エリザベス王女に公務を託しました。イギリス帝国領のケニア植民地経由でオーストラリアとニュージーランド両国への訪問です。周囲の反対を押し切ってジョージ6世は、ヒースロー空港まで足を運び王女を送迎。これが娘エリザベスとの最後の対面になってしまいました。

エリザベス王女が父であり国王の訃報をきいたのはケニア滞在中のことでした。享年56歳、早すぎる死でありました。

エリザベス女王の若い頃

その後を引き継いだのが、あの「エリザベス女王」です。

まだ25歳だった彼女は、急遽「女王」として即位することになりました。ジョージ6世は娘ふたりを深く愛していたといます。若くして王位につかなければならない彼女を最後まで心配していました。エリザベス王女が職務を全うし、世界中から愛される女性になることを誰より望んでいた人物だったのかもしれません。

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さいごに

エリザベス女王の若い頃

ジョージ6世は、「兄エドワードの突然の退位によってイギリスの王座が揺らいでいる」とし、不本意ながら「王座を元通りに強固なものにすること」が自身の務めだという書簡を書きました。このようにジョージ6世は、イギリス王室に対する国民の信頼が極めて低いときに、王位に就かねばならなかったのです。

さらにその治世中は戦争に見舞われ、国民は困窮に耐え偲ばねばならず、その後大英帝国の威光はなくなっていました。かしながら、ジョージ6世は誠実な家庭人で、かつ責任感の強い国王であり、個人的な勇気を示すことによって、イギリス国王の信頼感を取り戻すことに成功しました。

死後の1960年には、フランス政府から、チャーチルとともにジョージ6世にリベラシオン勲章が追贈され、彼は反戦のシンボルとしても語り継がれています。先日エリザベス2世が96歳で崩御されました。若くして父帝の後を継いだ女王は、変革期にあっても父の願い通り、玉座を見事に守り抜いたのでした。

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