【ジョージ6世】英国王のスピーチで話題となった不屈の象徴、国民に愛された君主

ジョージ6世家系図でみる王室物語
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​英国王のスピーチで焦点があてられたジョージ6世。父国王のジョージ5世の崩御後、王位継承順の通り兄が国王『エドワード8世となりました。しかし彼は国王の職務においては注意力に欠けており、恋人であるアメリカ人のウォリスに夢中で仕事はおざなり…. さらに彼女と結婚できないことがわかると、突然退位宣言。そこで急遽「玉座」を継ぐことになったのが『ジョージ6世』です。

英国王のスピーチ 相関図(イギリス王室家系図)

いきなりの戴冠でしたが、基本的にまじめで誠実な彼は真摯な態度で国王としての職務に向き合い、第二次世界大戦の混乱期を乗り越えました。『英国王のスピーチ』にみえたとおり、ジョージは6世は、英国国民にとって勇気と不屈の精神の強力な象徴でありました。この記事では、そんなジョージ6世とはどんな人物だったのか、彼の生涯を家系図を用いて見ていきたいと思います。

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​ジョージ6世とは

ジョージ6世
​キング・ジョージ6世、ヨーク公は1895年12月14日にイングランドのノーフォークで生まれました。​正式には「ヨーク公」、王室内では「バーティ」と呼ばれていました。彼はイギリス国王ジョージ5世とその妻メアリー皇后の次男として生まれました。しかしヨーク公の青春時代はあたたかいものではなく、両親からの愛を充分に感じることもなかったようです。父親は厳しく批判的で、子供のころに利き手を左から右手に強制的に直されたり、足に矯正器具をつけてノック膝を矯正されるなどシビアな教育を受けました。

その影響もあってか、吃音症を発症したのは8歳のときのことでした。ヨーク公 (未来のジョージ6世)は病気がちで、急に泣き出したりかんしゃくを起こすこともありました。吃音症は徐々に治っていきますが、この特性は大人になっても変わらなかったといわれています。

 

青年時代の教育

ジョージ6世
​1909年、アルバート王子はオズボーンの王立海軍士官学校を卒業しますが、最終試験ではクラス最下位だったそう。​しかし、ヨーク公はダートマスの海軍士官学校に進み、その後海軍士官候補生として英国海軍に入りました。​第一次世界大戦中はコリングウッド海軍基地で仕え、​1916年のユトランド沖海戦で活躍。

1919年に英国空軍に入隊しパイロットの資格を得ています。​戦後はトリニティー・カレッジ(ケンブリッジ大学)に進み、歴史、経済、公民を学びますが、わずか一年間しか滞在したのみで1920年には「ヨーク公」として父親の公務を始めました

​ジョージ6世の家族

王妃レディ・エリザベス

エリザベス・ボーズ=ライアン
​1920年頃、ヨーク公は、幼い頃から家族ぐるみで知っていたエリザベス・バウエス=ライアン嬢と再会しました。18歳になった彼女はとても魅力的で、王子は2度彼女にプロポーズしますが断られてしまいます。しかし3度目の結婚の申し込みでレディ・エリザベスはついに承諾し、2人は1923年ウェストミンスター寺院で結婚式を行いました。彼女はイギリス伝統のよき家庭と、王族としての公務とをうまく両立させていきその温和な仕草から「微笑みの公爵夫人 (Smiling Duchess)」と呼ばれるようになっていました。

ジョージ6世

国王ジョージ6世とともに夫妻で、第二次世界大戦の直前にフランスとカナダ、アメリカ合衆国へ外遊しています。第二次世界大戦中にエリザベスは『不屈の意思』を見せて、イギリス国民の精神的支柱となりました。イギリス国民の士気を鼓舞する役割を果たすエリザベス王妃に対して、敵国ナチス・ドイツのヒトラーは彼女を「ヨーロッパでもっとも危険な女性」と評したといいます。

 

ジョージ6世の吃音症

ジョージ6世

結婚して最初の数年で絆が深まった2人、妃のレディ・エリザベスは吃音が夫にとって大きな試練であることを知り、エリザベスはロンドン在住のオーストラリア人の言語聴覚士、ライオネル・ローグに助けを求めました。

ジョージ6世

英国王のスピーチではこの経緯が時代背景とともに丁寧に描かれており、最初は気乗りしたかったヨーク公 (のちのジョージ6世)もローグを見初め型破りな治療に打ち込みました。妻の助力もあり、ヨーク公とライオネルの間にはやがて友情のような絆が生まれ、あの伝説的なジョージ6世の演説が生まれるまでに至ったのでした。

 

愛するふたりの娘、エリザベスとマーガレット

ジョージ6世

1926年に、夫妻の最初の子供で、後にエリザベス2世としてイギリス国王に即位する長女が生まれ、母親と同じエリザベスと名付けられました。そして4年後の1930年には次女のマーガレット王女が誕生しました。今まで王室内の子供は、ジョージ5世をはじめ乳母に育てられるなど両親の愛情を直接受けられないことが多かったのですが、レディ・エリザベスは2人の娘を愛情をもって育てました。1927年に、ヨーク公とエリザベスはオーストラリアを公式訪問したのですが、生後一年の長女エリザベス2世は連れて行けず、彼女は「幼い子供を残して旅立たねばならないとは、なんと惨めなことでしょう」と日記に綴っています。

兄の駆け落ちと、突然の戴冠

イギリス王室 相関図

ジョージ5世が亡くなると一度は兄エドワード8世が「国王」の座を継ぐことになりました。しかし彼は愛する女性と結婚することを選び、国全体へ退位を宣言。​心の準備もできないままヨーク公は、兄エドワード8世の退位に伴い、1936年12月に即位し翌日「国王ジョージ6世」と宣言されました。

第二次世界大戦が始まる前には、英仏の連帯を確認し、米大統領と親交を深めました。​しかし、ルーズベルト大統領は、チェンバレン首相の対ドイツ、対イタリア 「融和」 政策を支持….。​1940年五月、イギリスの下院がチェンバレンを辞任に追い込んだ際、王はエドワード・フレデリック・リンドリー・ウッド(後の第1ハリファックス伯爵)を首相に任命しようとしましたが、結局、戦時下の指導者となったのはウィンストン・チャーチルでありました。

イギリス王室 ザクラウン相関図 (家系図)

チャーチルは、ジョージ6世が亡くなった後も首相で居続け、若きエリザベス女王の即位に大きく尽力することになります。

 

ジョージ6世の最後

ジョージ6世と若きエリザベス女王

1952年1月31日、体調が優れないジョージ6世は、娘エリザベス王女にイギリス帝国領のケニア植民地経由でオーストラリアとニュージーランド両国への海外公務を託しました。周囲の反対を押し切ってジョージ6世は、ロンドン・ヒースロー空港まで足を運び王女を送迎、これが娘エリザベスが父を見た最後となったのです。エリザベス女王が父であり国王の訃報をきいたのはケニア滞在中のことでした。これにより、王位継承順位1位だった彼女の即位が決まり、そのために『エリザベス女王』となるべく王女は、夫フィリップとイギリス本国へ緊急帰国したのでした。

 

娘エリザベスの戴冠

エリザベス女王の若い頃

その後まだ20代そこそこの長女のエリザベス王女が『エリザベス2世』として王位を継承し、その母親であるレディ・エリザベス自身は王妃から王太后となりました。ジョージ6世は娘ふたりを深く愛し、残された王太后は早逝した夫とは正反対に長寿を全うしました。崩御する数か月前まで公務をこなしていましたが、次女マーガレットが薨去した7週間後の2002年、101歳でその生涯を閉じました。

あとがきにかえて

エリザベス女王の若い頃

ジョージ6世は兄エドワードに、国王退位の影響によって「イギリス王座が揺らいでいる」とし、不本意ながら王座を「もと通りに強固なものにすること」が自身の務めだという書簡を書きました。このようにジョージ6世は、イギリス王室に対する国民の信頼が極めて低いときに、王位に就かねばならなかったのです。さらにその治世中は戦争に見舞われ、国民は困窮に耐え偲ばねばならず、その後大英帝国の威光はなくなっていました。しかしながら、ジョージ6世は誠実な家庭人で、かつ責任感の強い国王であり、個人的な勇気を示すことによって、イギリス国王の信頼感を取り戻すことに成功しました。

死後の1960年には、フランス政府から、チャーチルとともにジョージ6世にリベラシオン勲章が追贈され、彼は反戦のシンボルとしても語り継がれています。各地の地名や道路など、ジョージ6世にちなんで名付けられた場所がたくさんあります。ロンドンのキング・ジョージ病院、サレーのキング・ジョージ VI・ハイウェイ、キング・ジョージ駅などですね。勇気があり、困難をいくつも乗り越え、国民を鼓舞し人々の心を動かした国王。今も彼が生きた証が世界中のあちこちに残されているのでした。

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