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【エリザベートの継母】ゾフィーは、本当に悪者だったのか

2019/10/08
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

ミュージカル『エリザベート (ミヒャエル・クンツェ脚本) 』がヒットしたことで、「愛らしいエリザベートを虐める姑」として、悪役のイメージが定着してしまったゾフィ大皇妃しかしそれはあくまで一部であり、帝国の臣民たちが密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」と評していたほどに、ゾフィは傾きかけたハプスブルク家において大きな役割を果たした立派な王妃でした。今日はエリザベートの姑、ゾフィの生き様と功績について解説していきます。

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宮廷にはいって苦労したのは、ゾフィも同じ

(『ソフィ大皇妃』シュティーラー(1832年))

ゾフィはバイエルン王の娘で、19歳の時に次期皇帝のハプスブルク家の次男、フランツ・カールの元へ嫁ぎました。「意思の強い知的な美人」であるソフィにとって、夫は心身脆弱で不甲斐なく、歯がゆかったことでしょう。当時のハプスブルク家は、ナポレオン(1769年8月15日 – 1821年5月5日)に散々かき回されたあとで、オーストリアと少しばかり残された周辺国をかき集めて帝国の体裁だけはとりつくろい、ウィーン宮廷は過去の栄光にすがって堅苦しい作法が幅をきかす、傾きかけた危うく脆いものでした。

 

皇妃の座より、王朝の未来をとった大皇妃ゾフィ

(ゾフィーと長男のフランツ・ヨーゼフ、1830年頃)

皇帝家に世継ぎをもたらすことを期待されたゾフィー は、幾度かの流産と療養を経て、結婚後6年目にようやく長男のフランツ・ヨーゼフを出産してから存在感も増していくのでした。そしてゾフィは最終的に男児4人の母なります。転換点は彼女が42歳のとき、現皇帝が退位したのです。本来ならばゾフィの夫カールが次の皇帝になるはずでした。

(フランツ・カール(1845年頃)

しかしゾフィはこの革命の嵐を乗り切るためには、若く颯爽とした新皇帝が先頭にたつ必要があるとして、18歳の息子フランツを皇帝の座につけたのです。「皇妃になりたく」嫁いできたゾフィは、私情を排除しハプスブルク家の未来を優先したのです。これが「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」といわれる所以かもしれません。

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ゾフィーは本当に、悪役だったのか

(ゾフィー大公妃、ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1830年)

姑ゾフィから見た、息子の嫁 エリザベート

(Wikiミュージカル『エリザベート』より引用 ポスターのモデルとなった肖像画)

私情を排除してハプスブルク家の立て直しに力を注いできたゾフィとしては、真反対で自由奔放なエリザベートは目に余る存在だったのでしょう。皇妃として何の教育も受けておらず、子を授かるも、反対を押し切って長旅に連れ出し死なせてしまい、皇族の務めを嫌がって宮廷行事からは逃げ回り、国外旅行と、自分の美容にばかりお金をかけるのですから。

大皇妃ゾフィがハプスブルク家に残した功績

フランツ・シュロッツベルク:大公爵夫人ソフィー、油絵、1858 

ソフィーは、かつて期待していたような皇后にはなりませんでしたが、息子フランツが皇帝の座についたことにより、かなりの政治的影響力を獲得しました。息子のフランツ・ジョセフは、君主としての使命感に浸り、革命によって縮小された権力を取り戻そうと躍起になっていましたが、政治的経験が浅かったため、エネルギッシュな母親を心の支えを頼りにしていました。息子のフランツは母の政治力を信じ、生涯従順に振る舞ったといいます(エリザベートを皇后へ迎えることをのぞいて)。

 

ハプスブルク家の女神であり、自由主義の敵

(1861年撮影のオーストリア皇帝一家)

ゾフィは日常の政治的意思決定に然と介入したわけではありませんでしたが、政治における事実上の意思決定者は彼女でした。「秘密の女帝」 として、常に息子の影にいたのです。そうして傾きかけたハプスブルク家を持ち直し、孫の皇太子も無事に育ち、先の安泰を見せたゾフィ。しかし君主制 (世襲の君主が主権をもつ政治形態) を反対し、自由主義力を支持するひとにとっては憎むべき対象でもありました。1861年に撮影されたこちらの写真、中央に座っているのがゾフィー大公妃です。

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まとめ

(Erzherzogin Sophie im Kreise ihrer Familie)

そんなゾフィの晩年は悲しいもので、皇帝の地位をのぞみ、マクシミリアン一世としてメキシコへ赴いた次男が、革命軍により処刑されたのです。時代は確実に君主制から、自由主義 (民主制) に向かっていたのでしょう、以来ゾフィは急速に弱り、67歳で亡くなりました。1872年5月のことです。ゾフィは肖像画の数々から見て取れるように、美しいだけではなく、意思が強く、賢い女性だったそうです。こういった時代的背景も含めてミュージカルを見ると、また新しい発見があるかもしれません。

参考文献

  • https://www.habsburger.net/en/chapter/archduchess-sophie-secret-empress
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Archduke_Franz_Karl_of_Austria
  • https://de.wikipedia.org/wiki/Sophie_Friederike_von_Bayern

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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