1580年から1640年まで、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」と呼ばれたスペインハプスブルク家。領地と権力を守るため、幾度も重ねた血族結婚の果てに生まれたはかなく愛くるしい子供たち。宮廷人という宿命を背負って命を全うしたマルガリータ王女の人生を、絵画を通してのぞいてみたいとおもいます。
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高貴な青い血を守るために貫かれた、近親婚の果てに
陽の沈まぬ帝国と言われ、オーストリアを凌ぐと言われながら、僅か5代で滅亡したスペインハプスブルク家。ハプルブルク家は「高貴なる青い血」を守るために近親婚を繰り返していました。異常とまで言える、血統主義を貫き、悲劇的な終末をし歴史にその存在を残した王家。その果てに生まれたのが、あの愛くるしいマルガリータ王女です。(参考記事:【本当は怖い絵画】ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇)
青いドレスだけでなく、『白色、薔薇色のドレスの王女』も存在
こちらは当時の宮廷画家、ベラスケスが描いたマルガリータ王女 8歳の肖像画です。ちなみに『青いドレスの王女』が有名ですが、お見合い用にマルガリータ王女の肖像画がいくつか描かれており『白色のドレスの王女』『薔薇色のドレスの王女』『ピンクのドレスの王女』も存在します。
薔薇色のドレスの王女 (肖像画)
白色のドレスの王女 (肖像画)
ピンクのドレスの王女
マルガリータは王の大のお気に入りで、ベラスケスら宮廷画家たちに多くの肖像画を描かせました。現在もウィーンの美術史美術館が収蔵されており、可憐な王女の姿も相まって、いずれも人気を博しています。
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恐るべき、マルガリータの近親係数
弟カルロス2世とは違い、近親婚の大きな影響は見られなかった、と言われていますが、スペイン大学の研究によると、マルガリータの近交係数(近親交配の度合いを表す数値)は、親子間・兄弟間ででる数値の4倍だったことがわかっています。しかしのちに生まれた弟、カルロス2世には近親婚の影響がつよく出ていました。彼は幼少期には衣服を身につけた動物のようであり、教育らしい教育をすることも困難であったと言われています。(参考記事:【ハプスブルク家と高貴な青い血| 顎と下唇にみえる禁断の歴史】)
ウィーンにいる叔父との結婚
戦争は他の者にまかせておくがいい、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚すべし
という言葉の通り、結婚により領土を拡大してきたハプスブルク家。
一時は「スペイン女王」になるかに思えたマルガリータですが、奇跡的に弟 (カルロス2世) が誕生したため、彼女はウィーンにいる、(実母の弟であり11歳年上の) レオポルト1世へと嫁ぐことになります。彼女は彼を「おじさま」と慕い、結婚生活は比較的幸福なものであったといいます。マルガリータは6年間の結婚生活で、6人の子供を授かりますが、成人したのは娘のマリアだけでした。
マルガリータ王女の死因
(マルガリータと娘 Benjamin Block (1671) 画像引用元:Wikipedia)
マルガリータはとても華奢で、幼い頃から甲状腺腫に苦しんでいたといいます。 またマルガリータがスペインから連れてきた侍女や廷臣の打ち解けない態度や傲慢さのせいで、ウィーン宮廷には反スペイン感情が高まり、その悪感情はそのままうら若いマルガリータに向けられていました。
こうした宮廷人たちの心無い振る舞いに苦しんでいたマルガリータですが、第6子を出産した直後に産褥で亡くなってしまいます。もともと身体が強いわけではなく、21歳で亡くなるまでに多くの妊娠を経験し、体がすっかり弱ってしまっていたのでした。(関連記事:【ベラスケス最後の肖像画】儚く美しいマルガリータの弟、フェリペ王子)
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あとがきにかえて
フェリペ4世はマルガリータをとくに可愛がり、宮廷画家たちに多くの肖像画を描かせました。幼いうちから一国を支える「女王」の座につくことを期待され、弟が誕生すれば「高貴な青い血」を守るために叔父の元へと嫁がされる。宮廷人の宿命が投影されているかのごときマルガリータ王女の肖像画はいまもオーストリアに展示されており、世紀をこえても多くの人々を魅了し続けています。
ハプスブルク家シリーズはこちら
- 【呪いの子と呼ばれたカルロス2世】スペインハプスブルク家の近親交配と没落
- 【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート
- 【ハプスブルク家とは】だれでもわかる王朝誕生の経緯
- 読めば中世の宮廷へ迷いこむ【ベラスケスの十字の謎】
- 【ハプスブルク家と高貴な青い血| 顎と下唇にみえる禁断の歴史】
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