【フランスの地位を格上げしたカリスマ君主?】ルイ14世を知るための6つのこと

フランスの歴史

歴史の中で、もっとも長く統治した君主のひとりとして知られるルイ14世。1715年彼は自らが建てた豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿で77年の生涯を閉じました。

君主制に権力を集中させ前例のない繁栄を築きフランスは芸術にファッション化学技術の先駆けとなりヨーロッパでの地位を格上げしました今日は『陳は国家なり』の名言で知られる、ルイ14世を知るための6つのことをご紹介します。

① わずか4歳で王位に

1643年5月14日、フランスのルイ13世が41歳で亡くなったとき、君主の座はまだ4歳8か月だった長男ルイ14世に引き継がれました。しかし臣下も含めて1,900万もの人々を統治するには若すぎたため、最初は母アンが摂政を務め、ルイ14世の名付け親でありイタリア生まれのジュール・マザラン枢機卿を宰相 (※) をつとめました(※) 君主に任ぜられて宮廷で国政を補佐する者

② 宰相マザラン

Jules Mazarin

マザランは名付け親として、国王に政治や権力、歴史、芸術などあらゆることを教えました。ルイ14世はマザリンが死ぬ7年後までフランスに対して絶対的な権力を行使することはありませんでした。そんな頼りのマザランが亡くなったのは1661年ルイ14世が15歳のときです翌日ルイ14世は親政を宣言し、王政フランスの絶頂期へと至りました

③ 結婚相手はスペイン王女

Marie-Thérèse

ルイ14世が最初に愛したのはマザランの姪マリー・マンチーニでしたが、女王も枢機卿も2人の関係には眉をひそめました。結局政治的な判断でルイ14世は1660年スペインハプスブルク家の娘マリー・テレーズと結婚します。

それはけしてロマンチックなものではありませんでしたが、これを機としてマザランは、スペインと平和条約を結びましたしかし「スペイン女」と呼ばれ、宮殿では愛人が幅をきかせる宮廷生活は、王妃にとってとても辛いものでした。

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④ 王妃よりも愛人

「結婚と愛は別である」という考えのもと王は愛人の元へ通い続け、ルイ14世の愛人の一人は、マリーよりも多くの子供を産みました。スペインハプスブルク家出身者は近親婚の影響で子供が早逝しやすく、王妃は6人の子供を産みましたが5歳を過ぎても生き残ったのはルイ1人だけでした。

しかしルイ14世の女癖の悪さは有名で、多数の愛人と10人以上の非嫡出子をもうけました。最初の愛人ルイーズ女史は王の5人の子供を産み、そのうちの2人だけが幼年期を生き延びました。ルイ14世は結局、愛人のもとに生まれた子供たちのほとんどを彼らの出産後の数年以内に認知しています。

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⑤ 自分は神の代表者

sun king

ルイ13世とその妻アンが、ルイ14世を授かるまでには20年以上もの月日がかかりました。国王夫妻は王位継承権を持つ者を授かったことに安堵し、彼をルイ=ディウドネと命名しました。これは「神の賜物」という意味です。名前だけでも『太陽王』の片鱗を感じますが、マザランは幼少期から「王は神によって選ばれる」という考えを少年へ植え付けました

その信念を反映してか、『ルイ14世は自分の勅令に従わないことはすべて罪深いこと』だと信じ、惑星が太陽の周りを公転するように、フランスが彼の周りを公転しているとして、彼は自身の紋章に『太陽』を採用しました。

⑥ ベルサイユ宮殿の建設

Versailles

貴族の反乱 (フロンドの乱として知られる) により、若いルイ14世がパリの宮殿から逃げることを余儀なくされた後、君主は首都をパリから移すことを決めましたフランスと権力の象徴である、ヴェルサイユ宮殿です。工事は1661年に始まり、1661年に王は、少年時代にベルサイユで遊んだ王室の狩猟小屋を、王室の豪華さを示す記念碑に変えました。

そして1682年、ルイ14世は正式に宮廷をパリの13マイル外離れたベルサイユにある豪華な宮殿に移しましたヨーロッパで最も壮大な宮殿は政治権力の中心となり、王の支配と富の象徴となりました。王宮に加えて、700の部屋からなる宮殿には、ルイ14世が呼び寄せた貴族と、給仕者など必要な何千ものスタッフが住んでいました。ただそんな豪華絢爛な宮殿も、衛生事情はとてつもなく悪かったといわれています。

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あとがきにかえて

ルイ14世が残した遺産は宮殿に限らず、ファッションや芸術、また地名など至るところに残されています。1682年にフランス人ルネ・ロバート・カヴェリエが、ミシシッピ川とその支流に流れ込む北米大陸の一部を『フランス領』と宣言したとき、そこはルイジアナ州と名付けられました。ちなみにルイジアナ州がアメリカに買収されたのは、1803年のことです。

時期によって流行りの「色」をつくり貴族の服装を誘導したり、流行りの「型」をつくり世界中へ「フランスの影響力」を示したりと、この頃生まれたフランスの色々なものは今の世の中にも根付いているのでした。

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