周りを蹴落とし寵姫の座を射止めた女性【モンテスパン夫人の末路】

Madame de Montespanフランスの歴史

モンテスパン侯爵夫人、本名フランソワーズはルイ14世の寵姫であり公妾 (公的に認められた愛人)。ルイ14世の王妃マリー・テレーズの侍女として支えた彼女は、豊満な身体と金髪碧眼の美しい容姿で王を誘惑。『王の寵姫』の地位を得ると宮廷で幅を利かせて周りを見下して自分は贅沢の限りを尽くします。しかしそんな意地の悪い彼女を待っていたのは、悲惨な最後でした。この記事では、王の愛情得つづけるために悪魔に魂を売った女性、モンテスパン夫人をご紹介します。

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モンテスパン夫人の素性

フランス貴族に生まれた、由緒正しき娘

Madame de Montespan

フランスのルイ14世王の寵姫であり公妾であったモンテスパン夫人は、1640年、名門貴族に生まれました彼女の父親モルトゥマール公爵ルイ13世の宮廷においてとても重要な人物であり、また王妃であるアン王妃 (ルイ14世の母親) の側近でもありました。また母も王妃の侍女を務めるなど、なにかと宮廷に近い一家でありました。パリのフランス宮廷だけでなく、家族がもつ邸宅で育った彼女は、サントの聖マリア修道院で正式な教育を受けました

いざ、狙っていた寵姫の座へ

Louis XIV and marie

そして彼女もまた、20歳でアンリエッタ王女の侍女となりのちにフランス王妃マリー・テレーズの侍女となります。1666年にルイ14世の母后アンヌ・ドートリッシュの追悼ミサで、フランソワーズはルイ14世と知り合います。元々王の寵姫の座を狙っていた彼女は、最初の寵姫ルイーズを除け者にして王の愛人の座につきました

Louise de La Vallière

したたかな彼女は国王と親密な関係を築き徐々に最初の寵姫ルイーズを追い出しますモンテスパン夫人はちゃっかりルイーズの座につき、1669年には王の第一の愛人(公妾)となります。そして王との間に、7人の子供をもうけました。

宮廷をはさんだ、ドロドロ劇

『モンテスパン夫人』と呼ばれる由縁

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ド・モルトゥマール

フランソワーズは1663年にモンテスパン侯爵と結婚し、2人の子供の母でもありました。ルイ14世と出会う前のこと、彼女が『モンテスパン夫人』と呼ばれるのはそのためです。1666年に妻がルイーズから寵姫の座をかちとり国王ルイ14世の公妾になったモンテスパン夫人戦場にいたモンテスパン侯爵がこの事実を知ったのは数年後のことでありました。

遠隔地のルーシオンに駐屯していたモンテスパン侯爵は、1669年に突然何の前触れもなく、妻に会いたい一心で宮殿を訪れましたしかし久しぶりに会った妻はやけによそよそしく、冷ややかな態度にモンテスパン侯はひどく失望し落ち込みました

フランス宮廷の恋愛事情

Palace of Versailles

当時のフランスは色恋沙汰には比較的ゆるい、という背景もありました。むしろ愛人がいるほうが自然であり「妻を愛する男はかっこ悪い」とさえ言われていたのです。不思議なことに、これは女性にもいえることでした。愛人がいることを見過ごす貴族は多かったのですが、モンテスパン侯はこれを許すことができず、「妻の貞操に対する喪」と称し、喪服で宮廷に現われるなど公然とルイ14世を非難して王の怒りをかいました。

彼は王の怒りを買い投獄された後にパリを追放され自分の領地に戻されてしまいます。さらにルイ14世の力で、モンテスパン侯爵には、妻との離別費用として大金の支払いが命じられましたモンテスパン夫人は気にもせずむしろしてやったり、我が物顔で宮廷に居座りました

ルイ14世の王妃と、泥棒猫

王の寵愛を武器に、宮廷を我が物顔で歩く公妾

Louis XIV and marie

モンテスパン夫人は、ルイ14世の寵愛を受けていることをはなにかけ、「私には逆らえない」とおごり昂り、傍若無人な態度で宮廷内で幅をきかせていきました。伯爵夫人になっていたルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールをも自分の召使同然に扱うようになり、事あるごとに辛く当たりました。さらに王妃マリー・テレーズにさえ、「長い間王に顧みられぬ冴えない王妃」とバカにしたような態度を取っていました。

最初の寵姫ルイーズは信心深く控えめな性格であったため、王妃は好意的に見ており、彼女が宮廷を去り修道院に入ってからも見舞いみいっていた王妃ですが、あたかも自分こそが王妃のように振舞うモンテスパン侯爵夫人には「いずれこの女性により国を滅ぼされる」と嫌悪していました。

遊びや賭け事にうつつを抜かし、子育てはせず

Françoise d'Aubigné

モンテスパン夫人が産んだ子どもたちは、後にルイ14世の第二夫人となるマノントン夫人によって育てられたました。モンテスパン侯爵とは形式上『別居』でことがおさまっていたため、彼女が王の公妾以上になることはありませんでした。しかし、生きている子どもたちは国王によって認知されました。侯爵との関係は終わっていましたが、夫人が離婚することもありませんでした。

公妾とちがってマントノン侯爵夫人は、その善良な人柄から王妃への配慮を忘れなかったため、王妃マリーは、「自分はこの時期ほど良く扱われたことはなかった」と語っています。マリー・テレーズは『王妃』という役柄を演じきり、殆どの時間を使用人と過ごし、宮廷に出ることはほとんどなく穏やかで信仰深い生活を送っていました

モンテスパン夫人の最後

王の寵愛を取り戻すべく、黒魔術の道へ

Marquise de Montespan

歳を重ねて王の愛情が別の女性に傾きかけた頃、モンテスパン夫人は元々強かった嫉妬心に異常なまでにかられるようになりまし王の寵愛を再び取り戻そうと彼女は、当時魔女と呼ばれていたラ・ヴォワザンという女性のもとを訪れます。そして黒魔術の他に堕胎や毒薬による毒殺を請け負っていた彼女のもとで、怪しい儀式に没頭するようになりました。

しかし王の愛情は戻ることはなくさらにこういった”黒ミサ”には、王政から「待った」の声がかかり、1677年、モンテスパン夫人はポアソン毒薬事件に関与したとして、宮廷での影響力と権力をすべて失い、国王との関係も経たれました

歴史の表舞台から転がり落ちるが

Marquise de Montespan

結局フランソワ・アテナイスに対する起訴は行われなず、裁かれることもなかったモンテスパン夫人。しかしそれはすぐにフランス法廷内での噂の種となり、彼女は宮殿を去ることを決め修道院を目指しました。誹謗中傷はひどいものでしたが、晩年は国王から多額の年金を受け取り、余生を多くの病院や慈善団体の支援に費やしたともいわれています。

彼女自身は歴史の表舞台から転がり落ちるように消えたわけですが、ルイ14世との間の庶子達はブルボン家の分家との縁組が行われたり、ルイ14世による爵位授与でフランス貴族となり、子孫はフランス貴族として続いていきました。

あとがきにかえて

Versailles(海外ドラマ ベルサイユはこの時代の世界観を上手に再現している)

それが『天道』に背く物であれば、長くは続かないものなのか。多額の年金がもらえただけでラッキーと思っているのか、しかしチヤホヤされたがりの彼女にとって『皆が彼女に跪く』というのが、お金以上のステータスだったのかもしれません。結局人の心を動かすのは『自身の真心』ですから、自分だけ得をしようと生きても結局はたしひきゼロになってしまうのかもしれませんね。ルイ14世についてはこちら (【朕は国家なり】そびえる太陽王、絶対王政のフランスルイ14世) にまとめております。

フランスの歴史シリーズ

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