【マリーアントワネットのドレスとファッション】でみる18世紀のお洒落事情

フランスの歴史

ファストファッションは現代の物だけではないことをご存知でしょうかマリー・アントワネットが王妃となったフランスでも、ファッションは目まぐるしく移り変わっていたのです。それは、10日ごとに印刷されたファッション雑誌はすぐに時代遅れになるほどでありました。この記事では、マリー・アントワネットを通して、18世紀のフランスを見ていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 定期的にファッション誌が発行され、格好のモデルであったアントワネット
  • 流行遅れとなったドレスは転売されたり、使用人に下されたりしていた
  • フランス革命後は喪に服すという意味もあり、黒が日常使いされるようになった
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18世紀のフランスファッション

ルイ16世 (はじめてハイヒールをはいたとされるルイ14世、『朕は国家なり』の名言でも知られる)

18世紀後半は、現代のファッション業界との共通点が多いことで知られています。戻ること17世紀、太陽王と呼ばれたルイ14世は、フランスのファッションや高級品産業に多額の投資をおこないました。豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を盛り上げ、ファッションに夢中になる環境を作り上げました。

ファッション業界を刺激したのは、経済活性化のための策略だったともいわれています。それがフランス経済にも、国内外の両方にとっても良いことだとして、フランスのスタイルをファッションプレート (ファッショナブルなスタイルの服のハイライトを示す図)や雑誌で発表したのです。

流行好きのアントワネット

そんなファッションに湧くフランスに嫁いできたのが、あのマリー・アントワネットです。当時の誰もがそうであったように、マリー・アントワネットも、すぐに活気に満ちたパリのファッション界に魅了されました。そして彼女はやがて流行を発信する側へと移っていきます。

パリはヴェルサイユに代わって社会とスタイルの中心地となりましたので、歴代のフランス王妃たちのように王室御用達のドレスメーカーだけを使うよりも、彼女はパリに溢れる才能を活用したかったようです。

マリー・アントワネット (戦艦)

愛妾にかわって

洗練されたファッションで知られたマリー・アントワネットですが、なぜその前の王妃はどうだったのでしょうか。前王ルイ14世、15世は愛妾 (公式の愛人) をかかえていましたが、ルイ16世には愛人がいませんでした。マリー・アントワネットの前は王妃ではなく愛妾こそが王室のファッションのリーダーだったのです。

ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人 (画像:ルイ15世の愛妾 ポンパドゥール夫人)

それなりのお金と地位をもっていても責任はない愛人たちは、好きなだけお金を使い、好きなものを着ることができたのです。(その代わり王が気に入らなくなったら転落という危ない橋)

それとは対照的に、フランス王妃はいつも宮廷のしきたりに従った服装をしていました。厳格な宮中の範囲内におり、王室の責任を負っていたからです。そのため王妃らは宮廷の慣しに従い、波風をたてないよう慎ましく過ごしていたのでした。

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マリー・アントワネットの影響

マリー・アントワネット (ファッション)

定期的にファッション雑誌が発行されるようになったのは、1770年代になってからです。マリーアントワネットはファッションプレートのモデルとして使用されましたが、もちろん無許可でした。実際に彼女を用いて宣伝する者もいれば、女王によく似た女性を特集する媒体もありました。

マリー・アントワネット (ファッション)

1770年頃のファッション雑誌は、毎月ではなく10日ごとに発行されていました。いつも何か新しいものを宣伝する必要があり、ファッション業界はそれに応えて、新しいファッションを発表し続けました

「使用人や洋裁師がファッション雑誌を盗むかもしれない」というジョークもたくさんあり、新しい雑誌を買う頃にはその服はすでに時代遅れになっていることもありました。ドイツでは雑誌が届くまでに10日を要するため、なかなか流行の最先端を掴むのは難しかったといわれています。

王室のファッションを真似する国民たち

王様と王妃様が皆と同じような格好をするようになったら、皆があなた方をただの人間と見なすようになるのは時間の問題です

そう注意した廷臣もいたほどに、マリー・アントワネットのファッションは、国中へ浸透していきました。ファッション雑誌は非常に広く読まれており、需要に供給が追いつかないほどでした。

 

買えるのは、当時ファッションを牽引していたパリのエリート階級の1%に限られていましたが、労働者や職人は貴族たちと一緒に暮らしていましたので、雑誌は回覧され共有され、使用人までもが手にできたのです。彼らは皆、できる限り流行りのスタイルを真似しました。

衣類は手作り、中古品も多く流通

ミリナーとクライアント

ドレスに飽きたり流行遅れになったりしたら転売したり使用人にあげたり、これは当時のフランスのあちこちでみられた光景です。マリー・アントワネットが洋服を侍女たちにあげて、彼女らは時にはそれを着て、時にはそれを売って、時にはそれを犬用ベッドにしたこともあったそうです。

古着を買うにもかなり裕福でなければなりませんでした。そこには、今のパリと同じように、衣料品を仕立ててフリーマーケットで売るディーラーや転売屋がたくさんいました。あまりに流行が次々にかわるのでタイムラグも数年のこと実際に上流階級と労働者階級は同じ服を着ていたといわれています。

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フランス革命と変換機

マリーアントワネット 処刑 (フランス革命 無実を訴えるマリー・アントワネット)

1780年には、ヨーロッパ最強国の貴族たちも農民風のシンプルな外見でスラム化し始めました。1789年のフランス革命でファッション業界は没落。政治的緊張が高まるにつれ、貴族的な服装をすることは革命派を刺激することをも意味しました。

この頃になるとフランス経済は、アメリカ独立戦争 (ルイ16世やマリー・アントワネット王妃の贅沢なライフスタイルと共に)を支援したために負った債務が重くのしかかり、低迷し始めていました。長年にわたる不作、食料価格の高騰、不公平な税構造を経て、労働者階級の不安は煮えくり返り、血なまぐさい10年が続き、王室をはじめ貴族たちは無残に惨殺されていきました。フランス革命の結果として、国の社会的および政治的構造は、新しい理想を中心に再形成されまし

日常使いになった黒

黒 (ファッション)

あまりにも多くの命が失われたフランス革命。18世紀に人々がどれだけ喪に服したかは想像できかねます。一般的に『喪は悲しみというよりも礼儀の問題』でありました。例えば、未亡人はどんな思いを抱いていても、1年間喪服を着なければならないといったしきたりがあったのです。フランスの王族が死んだりヨーロッパの王族が亡くなったりすると宮廷全体が喪に服すことになりました(婚姻外交を続けていた結果ともいえる)

二組のカップルが互いのファッションセンスをあざけっており、左側に「ヌーベルリッシュ」、右側に「古代レジーム」、つまり古いガードが描かれている。 (二組のカップルが互いのファッションセンスをあざけっており、左側に「ヌーベルリッシュ」、右側に「古代レジーム」、つまり古いガードが描かれている)

しかし不思議なことに、喪服として黒を着ること多く、それがあまりに長く続いたため、次第にファッションとして受け入れられるようになっていったのです。黒は汚れが目立たないうえに、上品で実用的であることが評価されるようになりました。しかし、1780年代後半になると、喪に服する儀式は他の儀礼と同様に威信を失い始め、人々は喪服として黒を着るのではなく、日常使いとして黒をまとうようになっていったのです。

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まとめ

マリー・アントワネット (戦艦)

もちろん、白や紫も王室の弔事にはふさわしい色でした。

1780年頃から白いガウンが流行したのは、当時喪に服していたマリー・アントワネットが白を多くまとっており、周りが彼女のファッションを真似するようになっからだといわれています。彼女がずっと贅沢なドレスに溺れ続けていたかというとそうでもなく、1783年にヴィジェ=ルブランが有名な彼女の肖像画を描いたときアントワネットは30歳近くになりライフスタイルも変わっていました

マリー・アントワネットの影響(ファッション)

1778年に長女が生まれ、1781年に長男が生まれたマリー・アントワネット。すっかり母親になり、羽飾りなど若々しいとされていた装いもやめ質素な装いを好むようになりましたマリー・アントワネットの新しいルックスは年齢に合っていて、リラックスしたライフスタイルに適しており、牧歌的なシンプルさと素朴なエレガンスの幅広いトレンドとも調和したそうです。

彼女の肖像画や絵が多く残り、いまもたくさんの人を魅了し続けているのは、彼女の洗練されたファッションにも起因しているのかもしれません。彼女の最期については (【マリーアントワネットのギロチン処刑】絵画でみるフランス王妃の最後) にまとめております。

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