【今更聞けないジャンヌ・ダルク】フランスに生涯を捧げた少女の悲しい最期

フランスの歴史

中世フランスに生まれた農民の少女、ジャンヌ・ダルク彼女はイギリスとの長期にわたる戦争でフランスを勝利に導いた戦いの女神でありました。しかし若きジャンヌはその偉大な功績にもかかわらず、最後は魔女裁判にかけられ火炙りにされてしまいます。この記事では、ジャンヌ・ダルクとは一体何者だったのか、その生い立ちと最後をご紹介します。

この記事のポイント
  • 神の声を聞いて立ち上がり、フランスを救った英雄ジャンヌ・ダルク
  • 戦いでの成果を受け、ジャンヌの名声はフランス軍の間に瞬く間に広まっていった
  • 力を恐れた周りの圧力により、「異端」として処刑されることになった

女性騎士、ジャンヌダルクとは

ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクは、1412年頃フランス北東部のドメミー村出身の小作人ジャック・ダルクの娘として生まれました読み書きは教わりませんでしたが敬虔な母イザベル・ロメは彼女にカトリック教会とその教えへの深い愛を教え込みました。当時のフランスは、優勢に立っていたイギリス(後に百年戦争として知られる)との激しい対立に苦しんでいました。

1420年の平和条約では、ヴァロワのチャールズ皇太子が非嫡出子であるとして廃嫡され、ヘンリー5世がイギリスとフランスの両方の支配者となったのです。

ジャンヌに与えられた使命

1422年息子のヘンリー6世が後を継ぎ、イングランドはフランス連合国とともにフランス北部の大部分を占領し、ジャンヌの村ドメミーでは多くの人々が侵略の脅威にさらされ、故郷を放棄せざるを得なくなりました。13歳になったジャンヌは、神が自分に与えたとても重要な使命を感じるようになりました。

それは敵を追い払ってフランスを救い、正当な王としてシャルル王を据えることこの神の使命の一環としてジャンヌは神へ貞操を誓いました。16歳になると父親が彼女の結婚準備をはじめますが、彼女はこれに応じる意はないとして周囲の人々を説得しました。

戦場における活躍

16歳になるとジャンヌは親戚のデュランに頼んでヴォクルールへと赴き、統治の守備隊長であったロベール・ド・ボードリクール伯にシノン宮廷への訪問を願いでました彼はジャンヌを嘲笑をもって追い返しますが、ジャンヌの決心が揺らぐことはありませんでした

翌年再びヴォクルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メスとベルトラン・ど・プーランジというふたりの貴族の知己と援助をえて、「オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北する」という驚くべき結果を予言しました。そしてボードリコールが容赦無くおとされると、ジャンヌは髪の毛を刈り、紳士服を着て敵の領土を越え、11日間かけて皇太子の宮殿のあるシノンへ渡りました

シャルル7世への謁見

ジャンヌはシャルルに、フランス王室の伝統的な場所ランスで王としての戴冠を約束、彼女が軍隊を従えてオルレアンに導きその後イギリスからの包囲下に置くよう頼みました。シャルルは殆どの相談役と将軍の助言に反して、彼女の要求を認めました

ジャンヌは1429年3月白い鎧に身を包み、白い馬に乗って包囲されたオルレアンをかわそうと試みます。反抗的な手紙を敵に送った後ジャンヌはフランスに対するいくつかの攻撃を率いて敵を要塞から追い出しロワール川を渡って退却させました。

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ジャンヌの没落

奇跡的な勝利の後、ジャンヌの名声はフランス軍の間に瞬く間に広まっていきました。ジャンヌと追随者は的の領土をこえてシャルルをランスまで護衛し、1429年7月に王位に就かせることに成功します。しかし王室侍従長でありシャルル7世の寵臣ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユはジャンヌの力が強大になりすぎていると警告します。

アングロ・ブルゴーニュ人はパリでの立場を強化し、9月にジャンヌ・ダルクが主導した攻撃を撃退。1430年の春、国王はジャンヌに、ブルゴーニュ人によるコンピエニュ攻撃に立ち向かうよう命じました町とその住民を守ろうとした彼女ですが、馬から放り出され、閉める町の門の外に置き去りにされてしまいます。ブルゴーニュ人はジャンヌを捕虜として、ルーアンのイギリス軍司令官が占領していたブーヴリュイル城に連れて行きました

魔女裁判

ジャンヌ・ダルク

その後の裁判でジャンヌは、魔術、異教信仰、男装などを含む約70件にわたる罪状に答えるよう命じられました。アングロ・ブルゴーニュ人は、王位継承権を彼女に負っていたシャルルの信用を傷つけると同時に、この若い女性指導者を追い払おうとしたのです。フランスの王は、残酷にも告発された異端者と魔女から遠ざかろうとし、ジャンヌの釈放を交渉しようとはしませんでした

1431年5月、1年間監禁され、死の脅威にさらされていたジャンヌは、「神の導きを受けたことはない」と書かれた紙にやむなく署名します。しかし数日後彼女は再び男装することで命令を拒否し、当局により死刑判決が言い渡されました。1431年5月30日の朝、19歳のジャンヌはルーアンの古い市場につれていかれ火炙りにされることになったのでした。

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まとめ

ジャンヌ・ダルク

彼女の名声が高まったのは死後になってからでした。20年後にシャルル7世によって命じられた新しい裁判によって、彼女の汚名はようやく晴れたのです。1920年にローマ法王ベネディクト15世が1920年に彼女を聖人の列に加えるずっと前に、ジャンヌ・ダルクは神話的地位を獲得し、何世紀にもわたって多数の芸術作品や文学作品に影響を与え、フランスの守護聖人とされてきました。

1909年、ジャンヌ・ダルクはローマ教皇ピウス10世によってパリの有名なノートルダム寺院で列聖され、大聖堂の像はいまも彼女への経緯をあらわしています。

運に救われてきたシャルル7世、「もうダメか」という場面でジャンヌをはじめ才智溢れた女性があらわれ彼の人生を導いていきました。ジャンヌは若いうちに命を落としたわけですが、その名声は消えることなく、永遠と続いていくことになったのでした。

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