【ルイ18世とは】ナポレオンから王位奪還に成功したフランス皇帝

フランスの歴史

フランス革命でギロチンにかけられたルイ16世彼がブルボン王家の血をたやさないよう、亡命を命じた弟こそがのちのルイ18世 (ルイ・スタニラス)でした。しかしルイ16世はマリー・アントワネットら家族とともに国外逃亡を企てるも、ヴァレンヌで捕まり幽閉されてしまします。

捕まって悲嘆に暮れる王妃

ルイ16世の意思を継ぎ、時間はかかるも王党派の力を得てフランスに戻り『ルイ18世』として即位しました。この記事ではフランスに返り咲いた王 ルイ18世についてみていきたいとおもいます。

フランスに生まれた王子

のちのルイ18世、ルイ・スタニラス

ルイ18世 (のちのルイ16世と、18世 ルイ・スタニラス)

のちにフランス国王となるルイ18世は、1755年11月ヴェルサイユ宮殿で生まれました8人の子供のうちの5人目で、出生当時、父親と2人の兄に続いてフランス王位継承順位は4位でした。洗礼式ではルイ・スタニスラス・ザビエルの名を与えられ、生まれたときから『プロヴァンス伯』と呼ばれていました

兄ルイ16世と、優しかった妹エリザベート

ルイ16世の兄弟

こちらが、彼が主に関わっていくこととなる兄弟です。フランス王ルイ16世はもとより、弟はシャルル10世としてのちにフランス王となる人物、妹エリザベートは、兄ルイ16世の一家と最後まで行動をともにしましたが、最終的に革命政府により処刑されてしまいました。

ルイス・スタニスラスは兄のルイ・オーギュスト(16世) とともに家庭教師によって教育を受けました。1765年に父親ルイ15世が亡くなったとき彼はフランスの王位継承順位2位になます1771年正規の教育を終えて独立しましたが、スタニラスはプロヴァンス伯 (プロヴァンス地方を支配した諸侯) の地位を維持しました

避けられなかったフランス革命

フランスの王位継承者から、一時的に遠退く

マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア (妃となったマリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ)

1ヶ月後の1771年5月、ルイ・スタニラスはヴェルサイユ宮殿で、サルデニーニャの王女マリーと結婚しました。ルイは花嫁にたいして「醜く嫌悪すべき性格」だと語り、結婚生活は決して幸せなものとはいえませんでした。妃は何度か流産をかさねますが、子供を授かることはありませんでした。

1774年4月に国王ルイ15世が死去し、ルイ・スタニスラスの兄であるルイ・オーギュストが後を継ぎ、ルイ16世となりました。1781年にルイ16世に息子が生まれたので、ルイ・スタニスラスはフランスの王位継承権は少し遠くなり、兄の治世中比較的私的で平穏な生活を送っていました彼はベルサイユの小さなパビリオンに愛人を据え、多くの時間をそこで過ごして膨大な蔵書を作り上げました

フランス革命の勃発、オーストリアへの亡命

バスティーユ襲撃

1789年7月バスティーユの襲撃事件でフランス革命の火種があがります。ルイ16世はヴェルサイユにとどまることを選び、末弟 (後の国王シャルル10世) は国を出てサルデーニャに落ち着きました。革命の波は巨大化するばかり、兄はヴェルサイユ宮殿でしばらく通常の生活を送ることができましたが、その年の10月にパリに強制送還されました。ルイ・スタニスラスと彼の妻はルクセンブルク宮殿に住居を構えますが、1791年6月、妃と愛人をつれてオーストリア・オランダに逃れました。兄ルイ16世の命であった、といわれています。

フランス革命をこえて

ブルボン家を再び王位に、ナポレオンとの交渉

ルイ18世 (ルイ・スタニラス のちのルイ18世の肖像画)

1792年9月には王制が正式に廃止され、翌1月に国王ルイ16世が処刑されました。そして1795年に国王の息子 (ルイ・シャルル) が虐待による消耗で亡くなったあとは、ルイ・スタニスラスがフランス国王の有力な後継者候補となりました。1798年、全ロシア皇帝パウロ1世から (現在のラトビア) のエルガバ宮殿の使用を譲ってもらい、また、莫大な金額の支援もうけました。

エルガバにおいて、ルイ・スタニスラスはヴェルサイユ宮殿とそれに伴うすべての華麗さと儀式を再現しようと試みました。彼は唯一生き延びたアントワネットの娘であり姪のマリー・テレーズと甥のルイ・アントワーヌ (アングレーム公) を1799年にエルガヴァで結婚させる手はずを整えました。そしてブルボン家をフランスの王位に戻すため、フランス皇帝となっていたナポレオンボナパルトとの交渉を開始しようと努力しました。

フランスからの逃亡生活と、他国からの支援

エルガワ宮殿 

1801年にエルガワを離れることを余儀なくされた後、ルイ・スタニスラスはワルシャワ(当時はプロイセン南部の一部)に移りました2年後、ナポレオンはルイに王位継承権を放棄させようとしましたが、もちろんルイは拒否しました。1804年にナポレオンがフランス皇帝を宣言した後、プロイセン王によりプロイセン領を追われたルイは、全ロシアの皇帝アレクサンドル1世の招きでコートランドのエルガワ宮殿に戻りました。しかし、1807年にはそれも危うくなり、彼は短期間スウェーデンを旅した後、イングランドに移ります。

ハートウェルハウス

1808年彼は妻をイギリスに連れて行き、バッキンガムシャーのハートウェルハウスに引っ越します。国王が家賃を支払い、2人は皇太子(未来のジョージ4世)とも親密な関係を築き、資金的な援助や、英国への永住権も与えられました。

ブルボン家が、再び王位を取り戻してフランスへ

ナポレオンの失脚と、ルイ18世の即位

退位後のナポレオン

ロシア遠征で大敗を喫し、皇帝の座を追われ島流しとなったナポレオン1814年4月、ナポレオンの失脚後、フランス上院はブルボンをフランスの王位に戻しました。ルイ・スタニスラスは正式に『ルイ18世』として即位、ルイ16世の悲願はようやくここに叶えられたのでした。ルイ18世がフランスに戻ってくるまでは少し時間があり、その間は弟のシャルル (のちのシャルル10世) が王国の中将として仕えました。そしてルイ18世は5月初めにパリに到着し、すぐにテュイルリー宮殿に住居を構えます。

革命とは大きく異なったフランスの姿

テュイルリー宮殿

しかしフランスの君主制は、革命前とは大きく異なっていました。ルイ18世は就任してすぐに、新しい憲法を確立するよう圧力をかけられて、1814年の憲章を発行し二院制の立法府を設しました。彼はまた、1814年5月30日にパリ条約 (ヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争とインドのカーナティック戦争などの講和条約) にも署名しました。過激な王党派もいましたが、彼はどちらかというと中立的な立場をとり王権復古をとなえ過激派グループの中心となったアントワネットの娘、マリー・テレーズとはたびたび衝突したといわれています。

まとめ

エルバ島のナポレオン (エルバ島のナポレオン)

皇帝の座を追われ島流しとなったナポレオンでしたが、1815年2月エルバ島を脱出しフランスへ戻ってきますナポレオンに味方する大軍もあらわれパリは陥落、王は都市から逃れ、オランダに住居を構えました。またもや亡命生活となったわけですが、ナポレオンは1815年6月のワーテルローの戦いで再び敗れ、ルイ18世は元の座に戻ることができました。(世に言う、ナポレオンの100日天下ですね)

ルイ18世 (ルイ18世として即位した、ルイ・スタニラス)

国王ルイ18世は復権後、よくも悪くも自ら政治における役割を多くの廷臣に任せました。ルイ16世に似て穏やかな人物だったといわれています。ルイ18世は1824年の初めに痛風、壊疽などが悪化し、1824年ルーブル宮殿で亡くなりました。後継として王位についたのは、弟シャルル10世でしたルイ18世の治世はわずか1年でしたがルイ16世らの遺体をを正式に埋葬し彼らの子供マリー・テレーズの道をひらき、ブルボン家に王位を取り戻した偉大な男性治世は短くとも、生涯を通じて彼が世の中に与えた影響ははかりしれないものでしょう。(前章についてはこちら【ヴァレンヌ事件】ルイ16世が、亡命をくわだてた本当の理由) にまとめております。

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